加えて、秀吉は最近の国内の歴史学説においても「理解不能な最大の愚行」「晩年の秀吉が正常な感覚を失ったことによる妄想」などといった散々な扱いを受けており、さらには多くの歴史教科書で、彼の行為を「朝鮮侵略」と断じています。
しかしながら、秀吉が朝鮮半島へ攻め込んだ本当の理由は、イスパニアへの対抗として明を先制攻撃しようと計画した際、その通り道となることを李氏朝鮮が拒否したからであるということを忘れてはいけません。可能性の有無はともかくとして、仮に朝鮮が我が国の「唐入り」に協力していれば、秀吉から攻められることはなかったでしょう。
秀吉の最終目標はあくまで「明の征服」であり、朝鮮半島そのものを侵略するという意図はなかったといえます。それなのに、秀吉の行為を「朝鮮侵略」と一方的に断定することは、秀吉の真意を見誤るのみならず、歴史的にも正しい表現とはいえません。従って、ここはやはり「朝鮮出兵」と表記すべきなのです。
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朝鮮半島の人々から見れば、秀吉は確かに許されざる侵略者ではありますが、その一方で、我が国にとっては天下統一を果たした英雄であり、戦国時代を終わらせて世の中に平和をもたらすきっかけをつくってくれた恩人でもあります。
秀吉と同じように海外に遠征したアレクサンドロス大王やチンギス=ハーンにしても、英雄としての顔を持つ一方で、彼らによって虐殺されたり、滅ぼされたりした民族が大勢いるという現実を考えれば、我が国に関わらず、違う国同士で共通した歴史認識を持つということが、どう考えても不可能ではないかという思いがします。
だからといって、その国にはその国で語り継ぐべき歴史が存在する以上、他国の歴史認識を一方的に間違いと決め付けることは難しいですが、逆に言えば、我が国が他国に対して、ある意味へりくだってまで他国の歴史認識に合わせる必要もない、ということにつながるのではないでしょうか。
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ところで、秀吉による朝鮮出兵は失敗に終わりましたが、だとすれば待っていましたとばかりにイスパニアが我が国との戦いで体力の弱った明を攻め込みそうなものですよね。しかし、現実にはイスパニアが明を侵略することはありませんでした。なぜでしょうか。
それは、秀吉が死亡した頃までに、イスパニアの勢力が衰えを見せ始めていたからなのです。
秀吉が死亡した1598年にさかのぼること10年前の1588年、イスパニアの無敵艦隊がイギリスとのアルマダの海戦で敗北しました。この戦いは、イスパニアとイギリスとの勢力が逆転するきっかけとなり、これ以降のイスパニアは、東洋に軍事力を割(さ)く余裕がなくなってしまったのです。
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また、明は秀吉の出兵から約半世紀後の1644年に、満州の女真族(じょしんぞく)のヌルハチによって滅ぼされ、新たに清(しん)が誕生するわけですが、清が建国できた原因の一つに、明が我が国と戦ったことで勢力が低下していたという事情があったことは間違いありません。
これらの事実を知れば知るほど、世界の歴史にも大きな流れがあり、それが我が国における歴史にすべてつながっていることがよく理解できますね。秀吉による朝鮮への出兵も、こういった世界史のレベルから見るべきだと私は思います。
さて、朝鮮出兵の失敗は結果として豊臣家による支配に大きな悪影響を与えましたが、それに加えて豊臣家には「後継者の不在」という致命的な欠陥がありました。
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そして1595年、秀吉から謀反(むほん)の疑いをかけられた秀次は高野山に入って出家しましたが、その後に切腹を命じられ、また秀次の女子供を含む一族郎党の39人が京都で処刑されました。
それまでの「人たらし」の面影が微塵(みじん)も感じられない、秀吉による冷酷な行動は、我が子可愛さからきたものであると同時に、独裁者となったことで、彼の猜疑心(さいぎしん、相手の行為などを疑ったりねたんだりする気持ちのこと)が強くなったことが理由であるとされています。
確かに秀吉の行為は、同じく独裁者となった信長の晩年と共通するところが見受けられますが、いずれにせよ、秀次一族の虐殺が、実は豊臣家のその後の運命を決定づけてしまったのです。
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加えて、秀次やその一族を処刑したことは、数少ない豊臣家の親族をさらに弱める結果となり、いかに実子の秀頼が存在するとはいえ、成人した親族が一人もいなくなったことが、豊臣家の将来に暗い影を落とすことになりました。
秀吉は1598年に病気のため死の床に就(つ)きましたが、彼の実子である秀頼はまだ6歳と幼少だったこともあり、家康などに秀頼の行末(ゆくすえ)を依頼する直筆の書状が残されています。
間もなく秀吉は「露(つゆ)と落ち 露と消えにし わが身かな 浪速のことは 夢のまた夢」という辞世を残して62歳でこの世を去りましたが、秀頼と豊臣家の将来を託された際に、笑顔で応えた家康は内心でこう思っていました。
「太閤殿、貴殿が織田家に対してそうなさったように、今度は自分が豊臣家を出し抜いて天下を取る番ですな」。
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なお、いわゆる秀次事件に巻き込まれて秀吉の不興(ふきょう)を買った多くの大名が、関ヶ原の戦いで家康率いる東軍に所属しており、我が子可愛さが余っての秀吉による残酷な行為が、結果としてその後の豊臣家にとって逆らえない落日をもたらしたともいえそうです。
さて、その後約260年間続いた、江戸時代における豊臣家の扱いは不遇極まりないものでしたが、明治維新を迎えると名誉を回復し、京都や大阪など各地に豊国神社(とよくにじんじゃ、または「ほうこくじんじゃ」)が創建されるとともに、当時の大阪市長であった関一(せき・はじめ)氏が、昭和天皇の御即位記念事業として民間からの寄付を募ったことにより、昭和6(1931)年には大阪城の天守閣も再建されました。
晩年の朝鮮出兵の失敗がやや印象を悪くしているものの、乱れに乱れた天下を統一し、最終的には関白にまで出世した豊臣秀吉の一生は、その破天荒(はてんこう、今まで誰もしたことのないことをすること)ぶりが著しいですね。
外国の評価を気にすることもなければ、国内における謂(いわ)れなき批判に耳を傾ける必要もありません。私たちは日本人として、低い身分から関白へと「日本一出世をした男」の英雄譚(えいゆうたん)を、今後も堂々と子孫に伝え広めるべきではないでしょうか。
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(※第62回歴史講座の内容はこれで終了です)
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