そして、現地を視察した秀吉が、彼に待ち受けていた「3つの信じられない出来事」を目にしたことによって、疑念が確信へと大きく変化したのです。
秀吉が九州に上陸してまず驚いたことは、外国への玄関口でもある重要な港町の長崎が、先述のとおり、キリシタン大名であった大村純忠によってイエズス会に寄進されてしまっていたことでした。
いかに信仰のためとはいえ、我が国古来の領地を外国の所有に任せるという行為は、自身による天下統一を目指した秀吉にとっては有り得ないことであると同時に、イエズス会やその裏に存在したイスパニアの領土的野心に嫌でも気づかされることになりました。
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さらに秀吉を驚かせたのが、ポルトガルの商人が多数の日本人を奴隷(どれい)として強制連行していた事実でした。支配地の有色人種を奴隷扱いするのは、白人にとっては当然の行為であっても、天下統一を目指すことによって、国民の生命や財産を守る義務があると自覚していた秀吉には、絶対に認められない行為でした。
イエズス会とイスパニアによる我が国侵略の野望に気づいた秀吉は、これらの事実に激怒するとともに、直ちに宣教師追放令(=バテレン追放令)を出してカトリックの信仰を禁止し、長崎もイエズス会から没収して秀吉の直轄地(ちょっかつち)としました。しかし、秀吉は権益もあって南蛮貿易そのものを禁止することはできず、結果として禁教政策は不徹底に終わり、カトリックはその後も広まっていきました。
なお、1596年にイスパニアの商船が土佐(現在の高知県)に漂着した際に、乗組員が「イスパニアは領土征服の第一歩として宣教師を送り込んでいる」ことを、世界地図を示して誇ったという出来事があり(これをサン=フェリペ号事件といいます)、激怒した秀吉が京都の宣教師と信徒を捕えて長崎で処刑するという結果につながりました(これを「26聖人殉教」といいます)。
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そこで、イスパニアは勢力の衰えていた明に着目し、我が国での布教に成功したキリシタン大名を利用して彼らの兵力で明を征服すれば、返す刀で我が国を攻めることで侵略も可能になる、と考えました。つまり、明がイスパニアによって滅ぼされれば、次は我が国が確実に狙われるということなのです。
この構図は、鎌倉時代に起きた元寇(げんこう)そのものでもあり、イスパニアの動きをつかんでいた秀吉にとっても気が気ではありませんでした。明がイスパニアによって征服されるのを黙って見ているわけにはいかないとすれば、秀吉にはどのような策があるのでしょうか。
我が国への侵略の前提として明を攻めようとしたイスパニアでしたが、中国大陸へ直接攻め込めるだけの大きな軍艦は所有していたものの、それこそ地球の裏側まで多数の兵を連れて行くことができず、キリシタン大名の兵力を借りなければならないと考えるほどの兵力不足でした。一方の我が国ですが、兵力や鉄砲による火薬力こそは充実していましたが、外航用の大きな船を建造するだけの能力が当時はありませんでした。
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進退窮(きわ)まった秀吉は、自分自身がイスパニアよりも先に明を征服してしまう以外に、我が国が侵略から免れる方法はないと覚悟を決めました。まさに「やられる前に、やれ」。先述した数十万の兵力や鉄砲による強大な火薬力を投入すれば、我が国単独での大陸の征服も不可能ではないと考えたのです。
秀吉のこうした決断は、天下が統一されたことで今後の領土獲得の機会を失い、力を持て余していた兵士たちに好意的に迎えられました。
古代マケドニアのアレクサンドロス大王や、モンゴルの英雄チンギス=ハーンがかつて挑んだ、巨大な兵力を持つ人間が当然のように行う遠征という名の道を、彼らと同じように秀吉も歩み始めたのでした。
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秀吉は対馬(つしま)の宗氏(そうし)を通じて当時の朝鮮半島を支配していた李氏朝鮮(りしちょうせん)に対して「我が国が明へ軍隊を送るから協力してほしい」と使者を出しましたが、立場上は明を宗主国と仰いでいた李氏朝鮮は、秀吉の要請を拒否しました。
このため、秀吉は明を征服する前提として、やむなく朝鮮半島から攻め込んでいったのです。これこそが、1592年に起きた一回目の朝鮮出兵である「文禄(ぶんろく)の役(えき)」の本当の理由でした。
肥前(現在の佐賀県)の名護屋(なごや)に本陣が置かれた日本軍は、加藤清正(かとうきよまさ)らが率いる15万の大軍で朝鮮半島に上陸して、当初は優位に戦いを進めましたが、李氏朝鮮の李舜臣(りしゅんしん)の活躍があったり、縦に伸びきった我が国の軍勢の補給路が断たれたことで、多くの兵が飢えや寒さに苦しんだりするなど、戦局は次第に我が国にとって不利な状況となり、やがて休戦となりました。
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翌1597年に秀吉は再び朝鮮半島を攻めました。これを「慶長(けいちょう)の役」といいますが、日本軍は当初から苦戦を強いられました。
その後、1598年に秀吉が亡くなったことで休戦となり、我が国は朝鮮半島から撤退しました。
秀吉の二度にわたる朝鮮出兵は、当初の「唐入り」の目的を果たせなかったばかりか、朝鮮半島へ多大な影響を及ぼしたのみならず、我が国にも豊臣家を始めとして多数の損害をもたらした結果となってしまったのです。
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