一方、南北朝の動乱の頃には、西国の武士や漁民らによって武装した船団が組まれ、朝鮮半島や中国大陸南部の沿岸を襲(おそ)うようになりました。これらの海賊(かいぞく)は「倭寇(わこう)」と呼ばれ、沿岸住民から恐れられました。
ところで、倭寇は襲来(しゅうらい)の時期によって大きく二つに分かれます。南北朝時代の頃の「前期倭寇」は、対馬(つしま)や壱岐(いき)、あるいは肥前(ひぜん)の松浦(まつら)地方を拠点とし、日本人を中心に構成されていました。
これに対して、16世紀後半からの「後期倭寇」は、平戸(ひらど)や五島(ごとう)を拠点としているものの、その大部分は中国人であり、大陸沿海での密貿易を主に行っていました。なお、後期倭寇は、我が国を統一しつつあった豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、1588年に海賊取締令を出して厳しく対処したことで鎮圧されています。
※下記の映像は10月25日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
こうして始まった日明貿易ですが、明から交付された勘合(かんごう)という証明書を日明の両国が照合することで私貿易と区別していたので、別名を「勘合貿易」とも呼ばれています。
日明貿易は、朝貢形式を嫌った4代将軍の足利義持によって1411年にいったん中断されましたが、幕府の財政確保を優先した6代将軍の足利義教によって、1432年に再開されました。
日明貿易は、それまでの自主独立の外交路線に反した朝貢貿易でしたが、宗主国の立場である明が滞在費(たいざいひ)や運搬費(うんぱんひ)などのすべての費用を負担したので、我が国は大きな利益を得ることができました。
※下記の映像は10月25日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
しかし、明の永楽帝(えいらくてい)の名が入った「永楽通宝(えいらくつうほう)」は、朝貢貿易での下賜(かし)を目的として鋳造(ちゅうぞう)されたものであり、それを日本国内で流通させることは、いかに形式的とはいえ、我が国が経済的にチャイナの傘下(さんか)に入ったことを意味していました。我が国が独自につくった銅銭は、江戸時代の「寛永通宝(かんえいつうほう)」まで待つことになります。
さて、室町幕府が衰え始めた15世紀後半に入ると、貿易の実権は堺の商人と結んだ細川氏(ほそかわし)と、博多の商人と結んだ大内氏(おおうちし)の両者の手に移りました。貿易による利権をめぐって争った両者は、1523年に明の貿易港である寧波(ニンポー)で武力衝突しました。この争いを「寧波の乱」といいます。
両者の戦いは大内氏の勝利に終わり、以後は大内氏が貿易を独占しましたが、1551年に大内氏が滅亡すると貿易は廃絶となり、先述した後期倭寇の活動が目立つようになりました。
※下記の映像は10月25日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
我が国と朝鮮との日朝貿易は、幕府の他にも守護大名や有力国人(こくじん、地方豪族のこと)、あるいは商人までもが参加したために、貿易船の数が非常に多くなりました。
このため、朝鮮は1443年に嘉吉条約(かきつじょうやく、別名を癸亥約定=きがいやくじょう)を結んで、対馬の宗氏(そうし)に貿易の統制権を与えたことによって、これ以降の朝鮮との貿易は主に宗氏を通じて行われるようになりました。
なお、李成桂が建国した朝鮮は、古代に存在した古朝鮮(こちょうせん)と区別するために「李氏朝鮮(りしちょうせん)」とも呼ばれています。
※下記の映像は10月25日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
日朝貿易は、1419年に朝鮮が倭寇の本拠地を対馬と誤認して襲撃した「応永(おうえい)の外寇(がいこう)」によって一時は中断しましたが、その後も活発に行われました。
貿易では日明貿易での勘合をまねた「通信符(つうしんふ)」が用いられ、我が国からは銅や硫黄などの鉱産物や工芸品、あるいは後述する琉球(りゅうきゅう)貿易で入手した蘇木(そぼく、染料のこと)や香木(こうぼく、香料のこと)が輸出されました。
また、朝鮮からは当時の我が国では生産されなかった木綿(もめん)が大量に輸入され、それまでの麻(あさ)に比べて保温性が高く作業衣料に適していたために、人々に広く利用されたことで生活様式に大きな影響を与えました。
しかし、朝鮮がやがて日朝貿易を厳しく統制したために、これを不満とする三浦に住む日本人と現地の役人との間で1510年に紛争が起きました。この「三浦(さんぽ)の乱」によって、日朝貿易は次第に衰退していきました。
※下記の映像は10月25日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
琉球は明との藩属国(はんぞくこく、明を宗主国とすること)の関係を保ちながら我が国とも国交を結び、海外貿易を盛んに行いました。これを琉球貿易といいます。
琉球貿易は、商船を南方のジャワ島・スマトラ島・インドシナ半島にまで行動範囲を広げて、東アジアから東南アジア一帯の諸国間における中継貿易の方式で行われました。
具体的には、琉球の商船が南方から購入してきた蘇木(そぼく、染料のこと)や香木(こうぼく、香料のこと)などを我が国の商人が買い取ったり、琉球船自らが博多まで乗り入れてもたらしたりしています。これらの商品は我が国によってチャイナや朝鮮へと転売されました。
首里の外港である那覇(なは)は、貿易における重要な国際港となって栄え、情緒豊かな琉球文化をもたらしました。なお、琉球王国の民俗の実態をうかがうことのできる史料としては、琉球の古い歌謡である「おもろ」が集められた、琉球における万葉集ともいわれる「おもろそうし」が知られています。
※下記の映像は10月25日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
やがて奥州の住人の中から、渡島半島に館(やかた)をつくって移住する人々も現れました。彼らはアイヌから和人(わじん)と呼ばれ、津軽の豪族である安藤氏(あんどうし)の支配に属していましたが、和人の相次ぐ進出は、次第にアイヌとの関係悪化をもたらしました。
アイヌは1457年に首長(しゅちょう)のコシャマインを中心に蜂起(ほうき)して和人の館を次々と攻め落としましたが、やがて渡島の領主であった蠣崎氏(かきざきし)によって鎮圧されました。この事件によって名を挙げた蠣崎氏は、江戸時代には松前氏(まつまえし)を名乗って蝦夷地を支配する大名となりました。
なお、この当時の和人の館は道南十二館(どうなんじゅうにたて)と呼ばれており、現在の函館市にある志苔館(しのりたて)が有名です。
※下記の映像は10月25日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。