では、元禄時代の頃でもっとも有名な歴史上の人物といえば、皆さんは誰の名を思い浮かべるでしょうか。
やはり水戸黄門こと徳川光圀(とくがわみつくに)ではないでしょうか。放送開始以来40年以上の長きにわたるテレビ時代劇の主人公として有名な黄門様は、勧善懲悪の代名詞とされ、21世紀の現代でも人気が高いですね。
ところで、ドラマにおける黄門様の引き立て役としてよく出てくるのが、当時の5代将軍であった徳川綱吉(とくがわつなよし)です。ドラマの中の綱吉は、時には黄門様の足を引っ張ったり、あるいは黄門様の言いなりになったりするなど、どちらかといえば頼りない将軍として紹介されることが多いのが特徴です。
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為政者として時代の頂点に立っていた綱吉に対して、なぜこのような偏った評価がなされているのでしょうか。そのカギを握るのが、綱吉の没後300年が経過した現代においてもなお、私たちが誤解している彼の「政策」です。
綱吉の行った政策の中でもっとも有名なのは、いうまでもなく「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」でしょう。貞享(じょうきょう)2(1685)年に出され始めたこの法令は、当初は犬などの動物を大切にせよという内容であったのが次第にエスカレートして、一説によれば数十万人の罪人を出したとされています。
生類憐みの令が出されたそもそもの由来は、綱吉が後継ぎと考えていた我が子を幼いうちに亡くすという悲しみを乗り越え、再び男子が授かるようにと、綱吉の母の桂昌院(けいしょういん)が懇意にしていた僧の隆光(りゅうこう)からの勧めがあり、また綱吉が十二支の戌年(いぬどし)生まれであったことから、特に犬を大切にするようになったといわれています。
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また生類憐みの令以外にも、綱吉は側用人(そばようにん)の柳沢吉保(やなぎさわよしやす)を重用して政治の一切を任せたことで、吉保による偏った賄賂政治の横行を招いたり、また綱吉の治世の間に貨幣の価値を落としたことで、幕府が不正な利益を上げたばかりか、物価が高騰して庶民に大きな迷惑をかけたりしたことなどが一般的に知られています。
これらのことがすべて真実だとすれば、現代の私たちでも綱吉の政策には大きな疑問を感じざるを得ませんが、綱吉は本当に庶民に大迷惑をかけた「暗君」であり、また彼の治世は「暗黒時代」といって差し支えないのでしょうか。
史実は全く異なります。綱吉の治世の元禄時代は、わが国史上初めて庶民中心の文化が栄えた成長期であったとともに、治安も良くなり、また経済も大いに発展したのが真実なのです。
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「民族が一度うそつきの味を知り、ドロボウのくせがつけば、正義(よいこと)を守るとか、勤労(はたらき)をたっとぶとか、そうした正しい人はなくなって、アヘン中毒にかかった人のように、しだいに深みに落ちて、自滅(ほろび)の道をたどるほかありますまい。わが国は今、こうした衰亡の道を、非常な勢いで下っているのではないでしょうか」。
終戦直後の混乱期を実際にご体験なされた、丸山先生のご慧眼(けいがん)でありますが、実は、綱吉が将軍に就任した当時のわが国も、全く同じような状態だったことをご存知でしょうか。
綱吉が「わが国の倫理を復活させた」からこそ、私たちは丸山先生という偉大な先達(せんだつ)に巡り会うことができたといっても過言ではないのです。その真実を探るためにも、綱吉の生涯についてこれから振り返ってみましょう。
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慶安(けいあん)4(1651)年に家光が死んで、子で綱吉の兄にあたる徳川家綱(とくがわいえつな)が4代将軍になったことで、綱吉は将軍の弟として、上野(こうずけ、現在の群馬県の大部分)の館林藩(たてばやしはん)25万石の藩主で一生を終えるはずでした。
しかし、延宝(えんぽう)8(1680)年に徳川家綱が後継者のないままに死去したことで、綱吉が5代将軍となったのですが、彼が将軍に就任した頃は、江戸をはじめとする全国でいわゆる「戦国の遺風」が未だに残っており、至るところで血なまぐさい事件が起こるという殺伐とした雰囲気が、わが国全体における道徳心の低下をもたらすという有様でした。
そんな暗い世情を一掃するために、綱吉は先代将軍の家綱の頃からの文治政治を一層強めましたが、そのキーワードとなったのが、彼が生来好んでいた朱子学がもたらす道徳心でした。
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それまでの武家諸法度では弓馬、すなわち武芸に励むことが武士の心得とされていたのですが、綱吉はこれを忠孝の道、すなわち人として生きる道や、道徳に励むことこそが武士にとって重要なことであるとして、意識の変革や新たな社会秩序の制定を図りました。
次に綱吉は、武士だけでなく庶民に対しても「忠孝の道」を求めさせようとしましたが、その方法として、武士に対する武家諸法度のように、法令を用いて庶民に道徳心を身につけさせようとしました。
そして、貞享2(1685)年に「鳥類を銃で撃ってはならない」というお触れが出されると、以後も約20年間に渡って、次々と新しい法令が追加されていきました。世にいう「生類憐みの令」の始まりです。
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