さて、私はご縁をいただきまして、今年(平成29年=2017年)から、大阪府の「道頓堀(どうとんぼり)倫理法人会」に入会しております。
倫理法人会は、一般社団法人倫理研究所の法人会員によって組織された会であり、「企業に倫理を、職場に心を、家庭に愛を」をスローガンに、まずトップ自らが純粋倫理を学び、変わることによって、社員や社風を変え、健全な繁栄を目指しています。
私は一介の教師ですが、「企業」を「学校」に、「職場」を「授業」に置き換えれば、私が目指すものと全く同じであることから、喜んで入会しました。現在も教師や講演業その他をこなしながら、毎日の倫理の実践に励んでいます。
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また、会員企業はもとより、広く地域の企業にも純粋倫理を伝えるため、各倫理法人会の主催で定期的に「ナイトセミナー」を開催し、倫理経営についての学びを深めています。
そんな折、私は今夏に、「ナイトセミナー」と「経営者モーニングセミナー」の講師役を務めさせていただくという名誉を賜(たまわ)りました。
今回は、8月に大阪・難波(なんば)で行いました、道頓堀倫理法人会ナイトセミナー「徳川綱吉の真実 ~わが国の倫理を復活させた犬公方」の内容を公開し、徳川綱吉(とくがわつなよし)の功績を学ぶことで、倫理と経営の両面を深く理解する流れへとつないでいきたいと思います。
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では、元禄時代の頃でもっとも有名な歴史上の人物といえば、皆さんは誰の名を思い浮かべるでしょうか。
やはり水戸黄門こと徳川光圀(とくがわみつくに)ではないでしょうか。放送開始以来40年以上の長きにわたるテレビ時代劇の主人公として有名な黄門様は、勧善懲悪の代名詞とされ、21世紀の現代でも人気が高いですね。
ところで、ドラマにおける黄門様の引き立て役としてよく出てくるのが、当時の5代将軍であった徳川綱吉(とくがわつなよし)です。ドラマの中の綱吉は、時には黄門様の足を引っ張ったり、あるいは黄門様の言いなりになったりするなど、どちらかといえば頼りない将軍として紹介されることが多いのが特徴です。
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為政者として時代の頂点に立っていた綱吉に対して、なぜこのような偏った評価がなされているのでしょうか。そのカギを握るのが、綱吉の没後300年が経過した現代においてもなお、私たちが誤解している彼の「政策」です。
綱吉の行った政策の中でもっとも有名なのは、いうまでもなく「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」でしょう。貞享(じょうきょう)2(1685)年に出され始めたこの法令は、当初は犬などの動物を大切にせよという内容であったのが次第にエスカレートして、一説によれば数十万人の罪人を出したとされています。
生類憐みの令が出されたそもそもの由来は、綱吉が後継ぎと考えていた我が子を幼いうちに亡くすという悲しみを乗り越え、再び男子が授かるようにと、綱吉の母の桂昌院(けいしょういん)が懇意にしていた僧の隆光(りゅうこう)からの勧めがあり、また綱吉が十二支の戌年(いぬどし)生まれであったことから、特に犬を大切にするようになったといわれています。
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また生類憐みの令以外にも、綱吉は側用人(そばようにん)の柳沢吉保(やなぎさわよしやす)を重用して政治の一切を任せたことで、吉保による偏った賄賂政治の横行を招いたり、また綱吉の治世の間に貨幣の価値を落としたことで、幕府が不正な利益を上げたばかりか、物価が高騰して庶民に大きな迷惑をかけたりしたことなどが一般的に知られています。
これらのことがすべて真実だとすれば、現代の私たちでも綱吉の政策には大きな疑問を感じざるを得ませんが、綱吉は本当に庶民に大迷惑をかけた「暗君」であり、また彼の治世は「暗黒時代」といって差し支えないのでしょうか。
史実は全く異なります。綱吉の治世の元禄時代は、わが国史上初めて庶民中心の文化が栄えた成長期であったとともに、治安も良くなり、また経済も大いに発展したのが真実なのです。
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「民族が一度うそつきの味を知り、ドロボウのくせがつけば、正義(よいこと)を守るとか、勤労(はたらき)をたっとぶとか、そうした正しい人はなくなって、アヘン中毒にかかった人のように、しだいに深みに落ちて、自滅(ほろび)の道をたどるほかありますまい。わが国は今、こうした衰亡の道を、非常な勢いで下っているのではないでしょうか」。
終戦直後の混乱期を実際にご体験なされた、丸山先生のご慧眼(けいがん)でありますが、実は、綱吉が将軍に就任した当時のわが国も、全く同じような状態だったことをご存知でしょうか。
綱吉が「わが国の倫理を復活させた」からこそ、私たちは丸山先生という偉大な先達(せんだつ)に巡り会うことができたといっても過言ではないのです。その真実を探るためにも、綱吉の生涯についてこれから振り返ってみましょう。
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慶安(けいあん)4(1651)年に家光が死んで、子で綱吉の兄にあたる徳川家綱(とくがわいえつな)が4代将軍になったことで、綱吉は将軍の弟として、上野(こうずけ、現在の群馬県の大部分)の館林藩(たてばやしはん)25万石の藩主で一生を終えるはずでした。
しかし、延宝(えんぽう)8(1680)年に徳川家綱が後継者のないままに死去したことで、綱吉が5代将軍となったのですが、彼が将軍に就任した頃は、江戸をはじめとする全国でいわゆる「戦国の遺風」が未だに残っており、至るところで血なまぐさい事件が起こるという殺伐とした雰囲気が、わが国全体における道徳心の低下をもたらすという有様でした。
そんな暗い世情を一掃するために、綱吉は先代将軍の家綱の頃からの文治政治を一層強めましたが、そのキーワードとなったのが、彼が生来好んでいた朱子学がもたらす道徳心でした。
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それまでの武家諸法度では弓馬、すなわち武芸に励むことが武士の心得とされていたのですが、綱吉はこれを忠孝の道、すなわち人として生きる道や、道徳に励むことこそが武士にとって重要なことであるとして、意識の変革や新たな社会秩序の制定を図りました。
次に綱吉は、武士だけでなく庶民に対しても「忠孝の道」を求めさせようとしましたが、その方法として、武士に対する武家諸法度のように、法令を用いて庶民に道徳心を身につけさせようとしました。
そして、貞享2(1685)年に「鳥類を銃で撃ってはならない」というお触れが出されると、以後も約20年間に渡って、次々と新しい法令が追加されていきました。世にいう「生類憐みの令」の始まりです。
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数多くの法令の中には、「鳥類などを口にしてはいけない」という食卓での禁令など、次第にエスカレートしたものが多かったのは確かです。しかし、法令の底辺にあったのは「動物愛護」から「人命尊重」へとつながっていった、確固たる綱吉の意思でした。
この当時は、作業に使役させる目的で牛や馬が飼われていましたが、年老いたり病気になったりすると、動けるうちから追放して死なせることがよくありました。
野ざらしにされて死んだ牛馬から発生した病原菌が、その肉を食べた野犬が人々に噛み付くなどして人間に伝染することで、疫病(えきびょう)が広がることが多かったのです。
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この他、生類憐みの令では、病気になった牛馬をきちんと療養させることや、捨て子の禁止、あるいは人が旅先で病気になっても旅籠(はたご)で面倒をみることなども義務付けています。
また、中野の巨大な犬小屋ですが、これは「いくら禁令を出しても捨て犬などの行為が後を絶たないため、幕府でまとめて保護をする」という考えから造られた「野犬化防止施設」でもありました。しかも、犬小屋の運営費用は幕府が出す一方で、エサ代は飼い主から出させているのです。
飼っていた犬や猫を捨ててしまうことで野生化し、問題になることは現代でもありますよね。それを公費で養う一方で、飼い主にも相応の負担をさせているのですから、綱吉の考え方は、結果として現代よりもよっぽど進んでいるとも考えられます。
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生類憐みの令によって処罰された例は、約20年間でわずか69件に過ぎません。しかも、処罰の対象者のうち3分の2に当たる46件は下級武士であり、町人や農民よりもはるかに多くなっています。
さらに69件のうち、死罪になったのはたったの13件であり、流罪も12件しかないのです。こうした現実は「多数の死者を含む数十万人の罪人」という伝説を信じ切っていた人々には耳を疑う話ではないでしょうか。
このように、現代においても多くの人々から誤解されている生類憐みの令ですが、実はわが国の歴史に輝かしい功績を残していることを皆さんはご存知でしょうか。キーワードとなるのは、現代の私たちに当たり前のように備わっている「ある精神」です。
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そんな風習が、生類憐みの令によって、綺麗さっぱり一掃されてしまったのです。確かに人間よりも動物の方が大切であるかのような法令には、行き過ぎた問題がありましたが、年月の経過とともに骨の髄にまで染み付いてしまった「戦国の遺風」をなくすためには、ある意味では「劇薬」ともいえるショック療法が必要でした。
生類憐みの令の他に「劇薬」として知られているものに、織田信長(おだのぶなが)の領地における「一銭斬り」がありますが、これはたとえ一銭であっても盗めば首が飛ぶというとんでもない内容でした。
しかし、この法令があったお陰で、信長の領地では、夜道を女性が一人で歩けるほど安全になったという記録が残されています。信長の無茶な法令に比べれば、約20年間で69件しか処罰されず、死罪も13件しかなかった生類憐みの令の方が、よほど人道的であったというべきでしょう。
江戸時代には、落語の世界の「熊さん八っつあん」に代表されるような「助け合いの精神」があったと一般に知られていますが、初期はむしろ全く逆でした。しかし、綱吉の出した法令がそれを180度転換し、生命を大切にするとともに相手の立場を尊重するという道徳心をもたらし、現代にまで続いているのです。
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綱吉とセットで「悪人」とされている人物として、側用人の柳沢吉保が知られていますが、吉保の本来の業務は、老中からの意見をまとめて綱吉に報告し、意見をうかがうことであり、彼が私腹を肥やしていたというのは濡れ衣です。
ところで、吉保のような側用人を置くというシステムは、綱吉自身が考え出したものでした。家康の独断によって始まった江戸時代の政治は、2代将軍の徳川秀忠(とくがわひでただ)以後は、老中が意見をまとめて将軍に決裁を依頼し、将軍が事実上何の意見も述べずに承認するという形式が続きました。天下が平穏に治まった頃には、家柄や身分で政治を行ってもそれほど大きな問題にはならなかったのです。
しかし、世の中が変革を必要としているときは、その道に詳しい者でないと政治を任せられませんから、たとえ身分が低くても優秀であれば登用したいのですが、従来の身分秩序を基本とした合議制ではどうにもなりません。そこで、綱吉は老中の上に側用人を置き、彼をワンクッションとして、将軍自身の意見が通るようにシステムを一新したのです。
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綱吉の時代は、幕府財政の転換期でもありました。それまで大量に発掘していた鉱山からの金銀が急激に減り始めた一方で、度重なる火災による江戸城や市街の復興、あるいは東大寺大仏殿の再建に象徴される寺社の造営などによる支出の大幅な増額が、幕府財政の著しい悪化をもたらしていました。
こうした非常事態に、綱吉は経済に詳しかった勘定吟味役の荻原重秀(おぎわらしげひで)を抜擢(ばってき)して、彼に経済対策を一任しました。
重秀は綱吉の期待に応え、同じ一両でも、金の含有率を従来の84%から57%に落とすことで貨幣の量を増やし、従来の小判と同じ一両として引き換えることで、含有の金の量の差がそのまま幕府の収入につながるという、まさに一石二鳥の策で乗り切りました。なお、この時に発行された小判を元禄小判といいます。
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江戸時代の初期には、新田開発や都市機能の整備といった多くのインフラが必要とされましたが、その原資として農民からの年貢(ねんぐ)が利用されたため、当時は「七公三民」のような厳しい税率となりました。
しかし、綱吉の治世の頃までには、インフラが一段落したことで次第に減税となり、人々の暮らしに余裕が生まれ、その中から人々の多くが「遊び」を求めるようになり、ニーズに応える形で様々な文化が生まれました。これが元禄文化なのです。
また、生活の余裕はそれまでの自給自足から消費経済、さらには貨幣経済の暮らしへと変化していったことで好景気をもたらし、結果として都市の人口が急増しましたが、それに見合うだけの物資がそろわず、供給が追いつかなかったために、物価が上昇してインフレーションが発生していたのです。
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元禄小判の発行は、世の好景気をもたらすとともに幕府の収入を増やしましたが、貨幣の価値が下がったことに対して「金の価値を落とした偽物を市中に出回らせることで不正な利益を上げているのはケシカラン」という批判が幕閣の中で起きました。
これらの声に対し、荻原重秀は「幕府が一両と認めるのであれば、たとえ瓦礫(がれき)であろうと一両の価値に変わりはない」と反論しましたが、重秀の考えは、瓦礫を紙切れに換えれば、私たちが普段から使用している紙幣と全く同じことになります。
「お金の信用はその材質ではなく、裏打ちとなっているのは政府の信用である」という思想が、20世紀の経済学者であるイギリスのケインズによって世界中に広まりましたが、それより200年以上も早く実践していた重秀の先見性に対して、私たちはただただ脱帽するばかりです。
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最初に挙げられるのは、生類憐みの令を原因とする「治安の劇的な変化」でしょう。生類憐みの令によって培(つちか)われた道徳心が治安の良化をもたらし、安心して暮らせる環境によって、人々は精神面での余裕を実感するようになりました。
二つ目は元禄小判がもたらした「経済の発展」です。精神面の余裕に加えて、それまでの減税によって人々の購買意欲が高まりつつあったところへ貨幣価値の低下を行ったことが景気を刺激し、経済面での大いなる発達をもたらしました。
また、元禄小判の発行は勘定吟味役だった荻原重秀の進言でしたが、彼の意見が採用されやすいように側用人など政治のシステムを改革したことも大きかったでしょう。綱吉による治世は、実は経営者が学ぶべき視点も多く備わっているのです。
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その背景には、間違いなく「わが国の倫理を復活させた」という偉大な功績があり、その流れが丸山先生の「絶対倫理」に明確につながっているのです。
正しい歴史を学ぶことで、私たちは本当の意味での「明朗」「愛和」「喜働」そして「純情」を実践できる「万人幸福の道」を、これからも歩み続けていきたいですね。
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