「日本は1931(昭和6)年の満州事変以来、足掛け15年にも及ぶ長い戦争状態となり、アジア太平洋地域全体を侵略し、世界中の人々に多大な迷惑をかけた。これを『十五年戦争』と呼び、また1941(昭和16)年からアメリカなどを相手に仕掛けた戦争を『太平洋戦争』、または『アジア太平洋戦争』と呼んでいる」。
これは、いわゆる「太平洋戦争」に関する記載ですが、そもそも我が国は当時の戦争を「大東亜戦争」と命名していました。ところが、戦後にGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)によって使用が禁止され、以後は太平洋戦争と呼ばざるを得なくなったのが真相です。
いずれにせよ、大東亜戦争または太平洋戦争は、本当に教科書どおりの「日本による一方的な侵略戦争」だったのでしょうか。この謎を解くためには、単に戦争前後のみならず、少なくとも明治時代にまでさかのぼらなければ、真実の姿を見出すことはできません。
折しも、今年(平成27年=2015年)は、終戦から70周年にあたります。当講座では、今回から4回に分けて、大東亜戦争の全体像を探っていきたいと思います。
ところで、歴史の真実を探究するには、特定の重要な事象に関して後世の人間が勝手に名称を改めるというようなことをするべきではありません。名は体を表すと言います。「大東亜戦争」という呼び名で戦った戦争の意味は、その名でしか浮かび上がらせる事はできません。従いまして、当講座では「大東亜戦争」という呼称で統一します。
※下記の映像は4月10日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
以前にも黒田さんのブログで
この大東亜戦争についての記述がございましたが
私は初めて、この戦争がアメリカから仕掛けられた
戦争だと知り驚きました。
それ以前は、それまでの世界との戦いの中で
勝利し列強だと傲慢になっていた
日本が勝手に仕掛けて起こした戦争だと思っていました。
ここにもアメリカ側のプロパガンダが存在していたのですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、アメリカを含む連合国全体によるプロパガンダですね。
いわれなき誹謗中傷を打ち破るためにも、日本人自身の手で真実を見出さねばなりません。
懲りない面々
青田です。 黒田先生
青田です。
アメリカ・中国は、国際法を知らない。
ロシアは、国際法を知っていて、破る。
フランスは、戦争に負け続けるが、なぜか、いつも最後は、戦勝国の大国になる。
本当に懲りない面々です。
やはり、一番、まともなのがイギリスのような気がします。
青田さんへ
黒田裕樹 イギリスは騎士道がありましたからね。
白人国家の気質は他国と五十歩百歩ですが、この違いは大きいです。
やはり、立憲君主制が良かった気がします
青田です。 黒田先生
青田です。
イギリスは、立憲君主制の民主主義でした。
つまり、伝統的なイイモノは、残し、それに
新しいモノを組み合わせるハイブリッドな民主主義です。日本もハイブリッド化した民主主義ですが、
それにたいして、
〇 ソ連は、共産主義による恐怖政治。
〇 フランスは、王政→共和政→帝政をひたすら繰り返します。
〇 アメリカは、自分勝手な民主主義。
〇 中国の歴史は
① 新王朝の成立。
② 功臣の粛清。
③ 対外侵略戦争。
④ 漢字の改変と歴史の捏造。
⑤ 閨閥、宦官、官僚など官僚の権力の増大。
⑥ 秘密結社の乱立と農民の反乱の全国化。
⑦ 地方軍閥の中央侵入。
①に戻る。
中国の歴史は、この繰り返しです。
そう考えると、立憲君主制は、一番、安定した民主主義を築けると思います。
青田さんへ その2
黒田裕樹 立憲君主制が、現在のところ一番良い制度であることを、はからずも歴史が証明しているようですね。
これは、外国を征するのに別の外国を利用するという「以夷制夷(いいせいい)」と呼ばれた、中国の伝統的発想に基づくものでありましたが、領土の返還を受けて喜んだのもつかの間、日清戦争の敗北で「眠れる獅子」のメッキがはがれた清は、欧米列強から成功報酬ともいうべき「落とし前」をきっちりと付けさせられることになってしまいました。
例えば、ドイツは膠州(こうしゅう)湾を清から租借(そしゃく、他国の領土の一部を一定の期間を限って借りること)したほか、山東省内の鉄道敷設(ふせつ)権を獲得し、イギリスは九龍(きゅうりゅう)半島や威海衛(いかいえい)を租借し、さらにフランスが広州(こうしゅう)湾の租借権と付近の鉄道敷設権を得るなど、欧米列強が清を「生体解剖」するかのように支配権を強めていった当時の流れは、今日では「中国分割」と呼ばれています。
このようにして、列強によって着実に進められていった中国分割でしたが、この流れに出遅れてしまったのがアメリカでした。
※下記の映像は4月10日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
考えてみれば、中国もこうした屈辱を味わったが為に、急速に経済成長を成し遂げる必要に駆られた訳ですね。
けれど、急いては事を仕損じるではありませんが、
駆け上がった階段の足下から、見る間にガタガタと
踏みしめたはずの階段の崩壊が始まって居るのようにみえるのは私だけでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 現代の中華人民共和国の発展ぶりはめざましいですが、仰るような一面も否定できないのも事実ですよね。
急発展は何がしかの犠牲をもたらすともいえます。
このため、アメリカは1899(明治32)年に、国務長官のジョン=ヘイが「門戸開放・機会均等」を列強に通告しました。国務長官の宣言の背景には、中国分割に関して「自国の分も残してほしい」というアメリカの本音がうかがえます。
アメリカの思惑をよそに、清の生体解剖は着々と進んでいきましたが、もっとも露骨に動いたのは、我が国と国境を接するロシアでした。ロシアは1896(明治29)年に清と対日軍事同盟を結び、シベリア鉄道を清の領土を挟(はさ)むように延長して、ウラジオストックへ至る東清(とうしん)鉄道の敷設権を得ました。
また、ロシアは清が我が国から返還を受けた遼東半島の旅順(りょじゅん)・大連(だいれん)の港をも租借しましたが、これはロシアが間接的に我が国の領土を奪ったことを意味していました。さらにロシアは、東清鉄道から大連湾までの鉄道敷設権をも獲得しましたが、これらによって、ロシアが鉄道開通後に自国と満州や遼東半島とを自由自在に通行できるようになることから、結果的に満州や遼東半島全体がロシアの支配を受けることを意味していました。
こうしたロシアの圧迫に悩まされた我が国は、明治37(1904)年に日露戦争を戦い、苦難の末に勝利をつかむことができたのですが、このことが、皮肉にも我が国とアメリカの関係の悪化をもたらすことになってしまったのです。
※下記の映像は4月10日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
ロシアの様に確かに広い国土を有する事は
自国にとっては良いことなのでしょうけれど、
私達が住む持ち家などもそうですが、余りにも大きな家を購入した事で、その後の維持費に手間取り
それだけに見合う様な収入も維持していかなければなりませんので、大変だと思います。
なんでも身の丈に合った広さだけ保有できれば良いのでは無いかと存じます。
結局は管理不足になり疎かになれば、他国にも迷惑を掛けることにもなることでしょうし。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんのお考えは、おそらくは平均的な日本人の思想そのものだと拝察します。
ところが、他国を侵略することが当然の国家からすると、膨張主義が国是になってしまうんですよね…。
しかし、我が国が日露戦争に勝利したという事実は、アメリカをして我が国に警戒感を植え付けせしむ結果をもたらしました。なぜなら、アメリカが東アジアにおける権益を得るためには、ロシアに勝つまでに強国となった日本の存在が目障りになるからです。
もっとも、アメリカ自身も当初は平和的な妥協の道を探っていました。我が国がポーツマス条約で得た長春(ちょうしゅん)以南のいわゆる南満州鉄道(=満鉄)に対して、アメリカの鉄道王のハリマンが、明治38(1905)年に我が国との共同経営を呼びかけたのです。
ハリマンの申し出は、いわば「満州の権益の一部をこちらにもよこせ」というアメリカの意思でもありました。これに対し、元老の井上馨(いのうえかおる)や伊藤博文(いとうひろぶみ)、あるいは首相の桂太郎(かつらたろう)らは、日米関係の安定を重視して共同経営に賛同しようとしました。
ところが、当時の外務大臣で、ポーツマス条約の全権大使でもあった小村寿太郎(こむらじゅたろう)が猛反対したことで、我が国はハリマンの申し出を断ったのです。
※下記の映像は4月10日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
日本がアメリカに先制攻撃を仕掛けたという
思いを抱かせた小さな芽はもしかしたら今日の
お話が発端だったのでしょうかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 日本がアメリカに先制攻撃を仕掛けたという
> 思いを抱かせた小さな芽はもしかしたら今日の
> お話が発端だったのでしょうかね?
直接のきっかけではないですが、アメリカにとって不満が高まったことは間違いないですね。
その後の歴史を見ると…。
しかし、満州での権益を得られなかったアメリカは、この件を境に我が国への態度を硬化させ、翌1906(明治39)年にはサンフランシスコで日本人学童排斥(はいせき)事件が起きるなど、日本からの移民に対して厳しい政策を行うようになりました。
我が国に対して敵意を持つようになったアメリカは、この頃から日本を仮想敵国とみなし、やがては「オレンジ計画」という名の戦争計画を立案するようになるのです。
果たして我が国はハリマンの申し出を受けいれるべきだったのでしょうか。少なくとも、いわゆる「ハリマン問題」によって一度こじれた日米関係が、その後も好転することがなかったことだけは間違いありません。
また、単なる日米両国間の関係のみならず、この後の世界における日米の立場も微妙に変化していったのも事実であり、そのきっかけとなったのが「第一次世界大戦」でした。
※下記の映像は4月10日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
そうですね。。
それでも
いづれ
遅かれ早かれアメリカがこういう傲慢な
態度を改めなければ
日本との対立は避けられなかった事だと
思います。
例えば、ある男が気の優しい友人に借金を願い出て
貸してくれるだろうとある程度踏んでいたものの、
思わぬ誤算から断られたとして、それを恨みに
その友人を脅したり、襲撃したりしたら、それは立派な犯罪行為になると同じように、
その時のアメリカの考え方、態度は
間違っていたと思います。
そもそも、自国が乗り遅れてしまった事に対して
なんの反省もせずに、後から
横取りする様な邪さ。
更に自分の至らなさを認めず、今度は他国に
責任をなすりつけるなど、言語道断!気に入らないですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんのお考えは、日本人として至極当然のことです。
ところが、それに比べて世界は余りにも「腹黒い」んですよ。ただ、私自身もここでアメリカに「アメ」をしゃぶらせることが正しかったかどうかは分かりませんが。
いずれにせよ、我が国の命運がどこでどんな分かれ道になるのか、見極めるのは至難の技ですね。
万里ママ 譲るか断るか、難しい決断ですね・・・。
ただ、これによってアメリカがグッと
態度を硬化させた事は間違いないと思います。
外交の大変さ、譲歩すべきかどうかの
難しさを、改めて考えてしまいます。
このように、第一次世界大戦までには、
色々な伏線があったのですね。
万里ママさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、非常に難しい決断だったと思います。
ハリマン問題は結果として日米関係をこじれさせましたが、もし受けいれていれば安定していたかといえば、それも分かりませんからね。
明治時代ですら難しい外交は、大正期にさらに複雑になっていきます。
日英同盟の範囲がインドまでと定められていたこともあって、当初は参戦をためらった我が国でしたが、イギリスからの再三の要請を受けた末に、ようやく大正3年8月に、ドイツに対して宣戦布告しました。
中国大陸の山東半島に出兵した我が国は、ドイツが租借していた膠州(こうしゅう)湾の青島(チンタオ)を占領したほか、太平洋へと逃れたドイツの東洋艦隊を追撃して、ドイツ領だった南洋諸島も占領しました。また、我が国は海軍を地中海やインド洋・太平洋など各地へ派遣して、連合国の商船や輸送船の護衛などを担当しましたが、ヨーロッパ戦線に陸軍を派遣することはなく、どちらかと言えば限定的な参戦に留まりました。
一方、第一次世界大戦を欧州各国との友好関係の構築の好機と見たアメリカは、1917(大正6)年に参戦し、ヨーロッパ各地を転戦して多くの犠牲者を出しながらも、連合国側に最終的に勝利をもたらすことに成功しました。
この結果、イギリスなどの連合国と、参戦に消極的な(と見られた)我が国と積極的に貢献したアメリカとの関係が、第一次世界大戦を通じて明らかに変化したほか、ヨーロッパにおけるアメリカの発言権が大きくなりました。そして、このことが結果として我が国に不幸をもたらすことになるのです。
※下記の映像は4月10日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
狩猟民族の血が騒ぐのでしょうか。
アメリカという国は、戦う事に対しては
何処かしら積極性を感じます。
けれど
今回のお話は、それに加え
明らかに日本を出し抜こうという意図が
見えますね。
日本の欠点を見出して、上手く突いてくる所は
天才的だなと思います。
現在でも金で解決するのではなく、人を
駆り出させようと日本をセッセと突いて居る事は
今も昔も変わらない体質なんですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
まさに「敵ながらあっぱれ」。見習うところは見習うべきです。
正規の戦争において獲得した権益の返還を求められたのであれば、相手国に対しその代償を求めるのは当然の権利です。かくして、我が国は大正4(1915)年1月に、袁世凱政府に対して、中国における満州や内蒙古(ないもうこ)などの、日本の権益の強化と保全を目的とした内容の文書を提出しましたが、これが後に「二十一箇条の要求」と呼ばれるようになりました。
提案した主な内容は、山東省におけるドイツの権益を日本が継承すること、南満州や東部内蒙古における日本の優越権の承認、旅順・大連および南満州鉄道の租借期間の延長、日中合弁事業の推進などでした。
中国との交渉は難航の末に、我が国が最後通牒(さいごつうちょう)を出したこともあり、同年5月に提案の大部分を中国に承諾させましたが、これら一連の動きが諸外国にねじ曲げられて伝えられたことが、我が国の立場を後々まで悪化させる原因となってしまったのです。
※下記の映像は4月10日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
その「捻じ曲げた」原因の中に
アメリカの陰謀が隠されていたという結末なのでしょうか・・(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > その「捻じ曲げた」原因の中に
> アメリカの陰謀が隠されていたという結末なのでしょうか・・(^_^;)
この回答は次回の更新までお待ちください。
いずれにせよ、唖然とする話です。
しかし、少しでも我が国からの干渉を逃れたいと思った袁世凱は、極秘のはずだった提案内容を外部へ漏(も)らしたほか、我が国からの提案を「要求」と捏造(ねつぞう)して、我が国の「不当」を喧伝(けんでん、盛んに言いふらすこと)しました。
この動きに対して中国世論は敏感に反応し、袁世凱が「要求」を受けいれた5月9日を「国恥(こくち)記念日」としたほか、以後の排日運動の活発化をもたらしてしまいました。
しかも、こうした中国の「捏造」による悪影響が、日中両国間のみならず、海外においても「欧米列強がヨーロッパ戦線にかかりきりになっていたことに乗じて、日本が中国に権益拡大要求を強引に押し付けた」という印象が定着してしまったのですが、その原因を中国とともにつくった国こそがアメリカだったのです。
※下記の映像は4月10日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
やはり、そうでしたか。
こういうお話を伺っていると
世界とのお付き合いというのは、
片方の手は相手国と友好を結ぶために
握手をしながら、片方の手には常に
槍を持ちながら牽制していなければいけない
という図式が想像されますねぇ・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そのとおりです。
外国との真の友好関係というのは、余程のことがない限り有り得ません。
まして隣国同士や、共通の利益目標がある場合は…。
これらの「攻撃」に対して、我が国は明確な対策を講じることが結局はできず、日本に対する「意図的につくられた不当なイメージ」だけが独り歩きする結果を残してしまったのです。こうなった原因の一つとしては、元老がその威厳によって我が国を支えていた明治の頃と比べ、政党が自己保全のために政争を最優先することが多かった大正時代には、軍事や政治の安定したバランスが崩れていたことが挙げられます。
なお、こうした一方で、大正6(1917)年に日米間において、前外務大臣の石井菊次郎(いしいきくじろう)とランシング国務長官とが石井・ランシング協定を結び、中国の領土保全・門戸開放の原則と、中国における我が国の特殊権益の保有とを確認しあいました。
しかし、この協定が結ばれた当時は、アメリカが第一次世界大戦に参戦している時期であり、アメリカが我が国と協定を結んだのは、自国が参戦中に、中国大陸に対して日本が余計な手出しをしないように抑え込もうと考えたのが主な目的でした。それが証拠に、この協定は大戦終了後の大正12(1923)年に早くも破棄されています(詳しくは後述します)。
そもそも「門戸開放・領土保全」という言葉の聞こえは良いですが、先述したように、要するに出遅れたアメリカにも中国の利権をよこせ、という意味であることは、当時の誰もが分かっていたことでした。
※下記の映像は4月10日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
確かに相手国ばかりを全面的に責める訳にもいかないものですよね。
日本国内情勢もまた混沌としていたからこそ、
そこへ上手く漬け込まれたのでしょうしね。
よく家族関係がギクシャクしていると世間様との
関係も上手く行かなくなるのと同じですね。
特殊詐欺なども、家族間の連携が上手くいかない隙を突かれるものだし、今回の●●家具の親子確執問題も、世間からすれば、ただただ嫌悪感を植え付けるだけで、喜ばれる話ではありませんものね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るあたりが外交の難しさでもあります。
何でも相手国のせいにしているばかりでは、某国(?)のように国益を害するばかりですからね。
翌1919(大正8)年1月に、フランスのパリで講和会議が開かれましたが、我が国も連合国の一国として、当時の原敬(はらたかし)内閣が、西園寺公望(さいおんじきんもち)を全権として会議に派遣しました。
会議の結果、同年6月にドイツと連合国との間で講和条約が結ばれましたが、ドイツは全植民地を失ったほか、本国領土の一部を割譲させられたのみならず、軍事を制限されたうえに多額の賠償金が課せられることになりました。なお、この講和条約はヴェルサイユ条約と呼ばれており、また、条約に基づく新たなヨーロッパの国際秩序をヴェルサイユ体制といいます。
ヴェルサイユ条約によって、我が国は山東半島におけるドイツの権益を譲り受けたほか、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を得ました。なお、このときに我が国が委任統治した島々の一つに、現在のパラオ共和国があります。
パリ講和会議は敗戦国となったドイツにとって非常に厳しい内容となりましたが、実は我が国にとっても、権益など得るものが多かった一方で、国際的に苦しい立場に追い込まれることになったというもう一つの事実があり、またそうなった原因をつくったのがアメリカと中国でした。
※下記の映像は4月20日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
どうして日本は、アメリカと中国から
毎回、毎回睨まれる運命を辿らなければいけないのでしょうかね?
封じ込めようとする力が強いということは、
それだけ日本は世界に影響を及ぼす国だと
警戒され、恐れられる存在なのだと判断されている
からなのでしょうかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰る一面が確かにありますね。
大正時代の大きな教訓を、今の私たちは活かさねばなりません。
だからこそ、いまから「負の歴史」を紹介していきます。
大統領が悪かった気が。。
青田です。 黒田先生
青田です。
日本は、アメリカと同じ連合国側に属して、
戦いました。
いわば、カタチ上は、同盟国です。
アメリカが日本を嫌いというよりも
ウィルソンが日本を大嫌いだったことが災いした気がします。
ウィルソンは、徹底的な君主嫌いで、有名で
第一次世界大戦で、ドイツ帝国、オスマントルコ帝国、ハクスブルク帝国の君主を廃止させました。
ウィルソンは、次は、日本の天皇制を失くしたと思っていたそうです。
あのフロイトでさえも、ウィルソンを完全なサイコパスだと言ってました。
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、アメリカの当時の大統領の資質もあったというわけですね。
一国の為政者が諸国に様々な問題をもたらすのは、いつの時代も同じなようです。
かくして、講和会議はアメリカ・イギリス・フランスを中心に行われただけでなく、アメリカは自国の立場を利用して、会議にオブザーバーとして参加した中国の発言権を認めました。
会議において、中国はドイツの旧権益を、我が国を通さずに直接返還することを申し出るなど強気な発言を繰り返し、最終的にヴェルサイユ条約の調印を拒否しましたし、中国国内における排日活動も、アメリカの支持を得て激しくなっていきました。
また、先述した十四ヵ条の平和原則に基づいて、国際紛争の平和的解決と国際協力のための機関として、大正9(1920)年に国際連盟が設立されましたが、連盟で行われた会議において、日米両国がまたしても激しく対立することになったのです。
※下記の映像は4月20日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
確かにより多くの血が流れる戦い方をした国に対しては、それだけの多大な犠牲を出した見返りという
特典が認められるのは仕方が無い事だとは思います。
けれど、日本人の一般的な考え方から
思うに、わざわざより多くの血を流すことよりも、最小限の被害で踏み留まる方が、よほど勇気が居る気がしてなりません。
戦争とは狂気な沙汰ですが、
日頃の常識的な考え方が、戦争では通用しなくなる
所がまた怖い所でもありますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
当時の世界常識が、我が国の理想とかけ離れていたことが、我が国のみならず世界全体の悲劇だったのかもしれません。もっとも、これは今も同じことですが…。
我が国が提出した撤廃案は、会議に出席した16ヵ国中11ヵ国という多数の賛成を得ましたが、議長であったアメリカのウィルソン大統領が、「このような重要な事項は全会一致でないと認められない」と主張して強引に否決しました。
アメリカからすれば、日本人移民の迫害ができなくなることへの危機感もありましたし、何よりも欧米列強にとって、これまでの「白人を中心とする世界秩序」や「有色人種を奴隷(どれい)扱いする植民地制度」を破壊する可能性が高い提案は、「危険思想」以外の何物でもなかったのです。
かくして我が国は、アジアやアフリカの独立諸国や植民地支配を受けていた有色人種の民族に大きな勇気を与えた一方で、欧米列強からますます警戒されるようになり、特にアメリカの日本敵視がさらに強くなってしまいました。
ちなみに、世界平和の実現に大きな期待が寄せられた国際連盟でしたが、常任理事国として日本・イギリス・フランス・イタリアが選ばれたものの、そもそもの提案国であったアメリカが上院の反対で加盟できなかったり、またロシア(=ソビエト)や敗戦国であったドイツが除外されたりするなど、運営は当初から順調ではありませんでした。
※下記の映像は4月20日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんにちは!
人間の性なのでしょうね。
いつでも自分が相手よりも僅かでも「優位」に立っていないと気がすまない人が私のすぐ身近にも居ますが、その最たる国がアメリカという国なのでしょうね。
ビジネスなどでもそうでしょうけれど、結局
出世が早いという人間の特徴は、いかに人に対して非情になれるかという事だと何処かの本で見かけましたが、確かに情に絆されてばかりでは、なかなか
大儲けはムリですが、それでも強引で、手厳しすぎる考えでは、何時かは敵を多く生むことになり、自分で自分の首を締める事にもなり兼ねないと思います。相手を利用したり、頭を常に抑えこもうとすれば、その反動も覚悟しなければなりません・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰る内容は、まさにアメリカの歴史でもありますね。
繰り返しになりますが、わが国の伝統的な国家運営こそが世界平和につながると思うのですが…。
アメリカの思惑に気付いた我が国は、これに対抗する目的で、艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、八八艦隊の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメリカは、やがて世界各国に海軍の軍備制限を呼びかけました。
かくして大正10(1921)年に、アメリカ大統領ハーディングが中心となって、海軍軍備制限と極東及び太平洋問題に関する国際会議がワシントンで開かれました。これは、今日ではワシントン会議と呼ばれています。
ワシントン会議には、アメリカや日本の他に、イギリス・フランス・イタリア・中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルの計9ヵ国が参加して行われ、我が国からは、当時の海軍大臣で後に首相となった加藤友三郎(かとうともさぶろう)を全権とする代表団が派遣されました。
この会議によって、アメリカが大きな利益を得たのに対して、我が国は第二次世界大戦、あるいは大東亜戦争にもつながる国際社会での孤立を招くことになってしまうのです。
※下記の映像は4月20日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
個人的に軍事力を強化していくことには賛成しかねますが、アメリカは自国の力だけを糧にして
一番になろうと懸命に努力する所には凄さを感じます。目標を達成するためには、是非が非でも頑張ろうとする所が、強さを差し引いても
世界から一目置かれる理由の一つなのかも知れないと思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かにそうですね。「他国を押し退けてでも自国の発展に努める」という姿勢は、一目置かれると同時に、不必要な恨みも買ってしまいそうですが…。
日本の外交能力の欠如
青田です。 黒田先生
青田です。
この当時の日本の政治家の外交能力は
根本的に欠如していました。
明治時代に岩倉使節団は、ドイツのビスマルク首相から
「万国公法は列国の権利を保存する不変の法というが、
大国にとっては利があれば公法を守るだろうが、不利とみれば公法に代わって武力を用いるだろう。」という言葉を聞き、
当時の明治の政治家は、国際社会の本質を知り、
感動しました。
それれから、明治の政治家は、小国といえども
国際社会のバランサーとして、日英同盟という曲芸的な外交能力を発揮しました。
(伊藤博文、山縣有朋は、ビスマルクを大尊敬していました。)
ただ、第一次世界大戦の頃には、日本の政治家は、このビスマルクの言葉さえ、すっかり、忘れていた気がします。
この時に日本は、政党政治が根づき、学歴貴族が政治の中枢にいたのが、アメリカ、中国に振り回された気がします。
青田さんへ
黒田裕樹 確かにそのとおりですね、
ネタバレになりますが(笑)、今後は仰った内容を中心に展開することになります。
しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカは、ドイツが敗れて同盟の必要がなくなったことを口実として、カナダとともに日英同盟の破棄を強く迫りました。
イギリスは日英同盟の破棄までは必要ないと考えていましたが、第一次世界大戦において経済的あるいは軍事的に大きな恩恵を受けたアメリカの強硬な態度に抗しきれず、日英同盟を破棄する代わりに、イギリス・アメリカ・日本・フランスの四ヵ国条約が大正10(1921)年に結ばれました。
しかし、同盟というものは「1対1」だからこそ威力を発揮するのであり、数ヵ国が連帯すれば責任の所在が分からなくなることから、何の意味もなくなってしまうのが常識でした。まさに「共同責任は無責任」であり、太平洋の現状維持を取り決めた四ヵ国条約が、この後に役立つことはなかったのです。
※下記の映像は4月20日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
なるほど~!
私は逆に4カ国も連帯を組めば、より強固な
意味を成すのかと思いましたが、現状は全く
正反対だったのですね。
確かに、家族でも子供の数が多ければ、親は老後安泰かとおもいきや、子供同士で親の面倒を誰が看るのかを押し付けあったりして、誰もその責任を果たそうとしない現状があったりしますもんね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
物事は「一対一」だからこそうまく回ります。
立憲君主制でないアメリカの暴走
青田です。 黒田先生
青田です。
二国間の同盟で
日露戦争です。
日本は、イギリスと同盟を結んでいました。
ロシアは、フランスと同盟を結んでいました。
ということは、
ロシア以外の強国であるフランスに釘を刺すことができました。
これは、、ロシアからすると同じで、日本と戦っている時にイギリスに釘を刺すことができます。
これって、世界常識なんですが、
民主主義世界で、キリストになりたと考えていたアメリカ大統領のウィルソンには、通用しなかったようですね。(ちなみに、このウィルソンをヒトラーは、尊敬していたそうです。)
正直、ウィルソンは、写真を観るだけ、血圧が上がります。
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、時の大統領の資質で大きく世界が動くということになりますね。
理由はどうあれ、日英同盟の破棄によって、我が日本は強力な同盟国であるイギリスを失うことになりました。この後、アメリカは事実上孤立無援となった日本を狙い撃ちし、我が国をますます追いつめるようになるのです。
一方、日英同盟の破棄はイギリスにとっても致命的でした。日英同盟があったからこそ、イギリスはアジアに気を配らずに済み、第一次世界大戦においてヨーロッパ大陸に兵力を集中させることができたのです。
しかし、日英同盟が破棄されてからわずか20年で大東亜戦争が始まり、イギリスは戦艦プリンス・オブ・ウェールズが日本によって轟沈(ごうちん)させられるなど大きな損害を受けました。さらには、同じ有色人種である日本の奮戦に勇気づけられた、インドやシンガポールなどが戦後に次々と独立し、気が付けば植民地の大半を失ってしまいました。
一つの外交同盟の存在の有無が、世界中にかくも大きな影響をもたらすようになってしまうのです。日英同盟の終わりこそが、その後の我が国と世界の運命に甚大な影響を与えたことを、現代の日本人は忘れてしまっていますが、この事実はもっと意識されるべきことです。
※下記の映像は4月20日までの掲載分をまとめたものです。





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青田です。 黒田先生
青田です。
アメリカは、日本を国際的に孤立させた原因として
日本軍を怖がっていたこともあると思います。
アメリカは、軍備増強は進め、徴兵制を始めましたが、それでも、日本よりも軍事力は、全く、及びませんでした。
つまり、ガチンコで、日本と戦っても勝てる自信がなかったわけです。
だから、眠れる獅子(????)と思っている中国を日本にぶつけならが、日本と戦おうとします。
ぴーち こんばんは!
今日のお話を伺って
やはり日本という国は、もしかしたら
世界で一番脅威になる存在になるのではと確信
いたしました。
今でこそ、軍事に関しては消極的ですが、
これが一旦、戦力を有する国と化した時には
アメリカをも凌ぐパワーを発揮してしまう力を秘めている気がします。
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、怖がっていたからこそ封じようとしたわけですね。
戦国時代後期にイスパニアやポルトガルが我が国の実力の高さを警戒したのと同じ構図ですが、その後の対応が…。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私もそう思います。
ただ、他国にとっては脅威であっても、そもそもの発想が、外国とは違って「八絋一宇」の精神を持つ我が国は、本来は和を求める民族である、ということも忘れてはいけません。
聖徳太子を見習って欲しいです
青田です。 黒田先生
青田です。
たしかに、アメリカは、大国ですし、やり方は
陰険です。
ただ、それを何とかするのが、外交です。
日本の外交能力は、あまりにも低いです。
かつて、
小国の日本が、隋の煬帝と対等外交を実現した聖徳太子の外交能力を考えると、たとえ、小国でもバランサーとして、全体を観る力があれば、難局を乗り越えたはずですね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 私もそう思います。
我が国の海軍は、米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎が、これを抑えるかたちで調印しました。また、条約締結後は各国が10年間戦艦を建造しないことも取り決められました。
軍縮条約によって、西太平洋における防備に関して各国が制限を受けることになりましたが、なぜかアメリカのハワイとイギリスのシンガポールはその例外とされました。つまり、「日本だけが西太平洋における防備を一方的に削られた」格好となったのです。
後に我が国が大東亜戦争の際に、ハワイの真珠湾を最初に攻撃し、またシンガポールにも激しい攻撃を加えた理由には、この不平等ともいえる条約がもたらした軍事的な不均衡(ふきんこう)もその一つがありました。
※下記の映像は4月20日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんにちは!
なるほど・・
お話を伺っていると、アメリカがいかにも
仕掛けそうなやり口だと思いましたが、
その根底には、日本を絶対負かしてやろうという
陰湿な魂胆が秘められていたので
尚更の事だった訳ですね。
こういう卑怯な手口を使う国を嫌う国が他にも
現れるのは仕方が無い思いが更に強まりました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 残念ですが、そう考えないとつじつまが合いませんね。
まさに「世界は腹黒い」。正統派だけでは御しきれないことも理解しなければなりません。
なぜなら、石井・ランシング協定で、アメリカは中国における日本の特殊権益の保有を認めていたにもかかわらず、九ヵ国条約によって、中国の権益は「すべての国が平等」となってしまったからです。
アメリカにとって石井・ランシング協定は、自国が第一次世界大戦に参戦中に日本が中国大陸に対して余計な手出しをさせないために、その場しのぎで結んだに過ぎなかったのです。事実、先述のとおり、この協定は九ヵ国条約が発効した大正12(1923)年に破棄されてしまいました。
この後、我が国が中国大陸に何らかの立場で関わる度に、アメリカを中心とする世界が九ヵ国条約違反を強硬に主張したことで、我が国のみが国際的な非難を浴びる遠因となりました。さらに、我が国は九ヵ国条約に基づいて、ヴェルサイユ条約という名の国際的にも「正当な手段」で手に入れた山東半島における旧ドイツ権益を、大正11年に中国に返還することになってしまいました。これを山東懸案解決条約といいます。
※下記の映像は4月20日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
目的の為には手段を選ばないアメリカのやり口が
まかり通ってしまう所がまた皮肉なものですね(*_*;
どうしても、声を大きく発する所に世界は注目してしまい、それがあたかも真っ当な言い分だと通用してしまう所が怖い所ですよね。
押しの強いアメリカのプロパガンダに
世界がまんまと乗せられてしまうのは悔しさを覚えますが、それでもその強引さには必ずしっぺ返しが訪れるのではないかと思いたいです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、強引すぎますよね。
その流れを今も引きずっているようですが、いつかは痛い目にあうでしょう。もっとも、我が国がそれに巻き込まれないように気を付けねばなりませんが。
ワシントン体制は、ヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに、第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては、第一次大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して、列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄によって、国際的な孤立にもつながるようになりました。
しかも、このワシントン体制には大きな欠陥(けっかん)がありました。ワシントン会議後に成立したソビエト連邦が会議に参加していないことで、九ヵ国条約をはじめ数々の国際条約の制約を受けなかったことから、アジアにおいて他国に構うことなく、自由に侵略を行うことが可能だったのです。
巨大な軍事国家でもあったソ連の誕生は、やがてアジアの赤化をもたらすとともに、我が国を苦境に追いつめることになりましたが、そんな我が国に対して、別の方向からさらに追い打ちをかける法律が1924(大正13)年に成立しました。
それは、アメリカによる日本人排斥移民法のことです。
※下記の映像は4月20日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
まあ。。次から次へと試練をよくも与えてくださいますねぇ・・(^_^;)
けれど、日本という国は、逆境に立たされてこそ、
その真価を発揮できる国だと信じております!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、我が国は逆境に強い国でもあります。
しかし、ここから先の展開までは…。
1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止されました。続いて1922(大正11)年には、アメリカの最高裁判所で黄色人種、すなわち日本人のアメリカへの帰化権が否定されたのみならず、すでに帰化した日本人移民の帰化権まで奪われることになりました。
そして1924(大正13)年に、日本人排斥移民法がアメリカ全土に適用される連邦法として成立し、アメリカは国家全体として日本人移民すべてを排斥することを宣言したのです。
アメリカによる一方的かつ冷酷な態度に、日本人の多くはアメリカに対するそれまでの感情を激変させ、敵視するようになりました。後に我が国がアメリカと大東亜戦争を始めた際、日本国民の多くが「大変なことになった」と思ったと同時に、「積年の思いが晴れてスッキリした」と考えた人々も決して少なくなかったのです。
なお、日本人排斥移民法が成立した当時は摂政宮(せっしょうのみや)であられた昭和天皇は、後年に「先の大戦の遠因はアメリカ移民の問題であり、近因は石油が禁輸されたことである」と仰っておられます。
※下記の映像は4月20日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
私は、白と黒、どちらの色が好みですか?と聞かれたら、黒と答えます。
黒色の方が、落ち着きがあり品格が有ると思うからです。
どうして、白が優勢だと言うのでしょうか?
白色である事がそんなに偉い事なのでしょうか?
何を持ってして、白が良いと言うのでしょうか?
白人が勝手にそう決めた事で、自分たちが世界中で一番凄いんだという事をただ誇示したいだけの
手段が、人間の肌の色の違いだとすれば、
これは人間としてはそれこそ、低レベルな考えだと思わずには居られません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、白人の優位性など、私たちには全く理解できません。
ただ、悲しいかなそれがまかり通っていたのが、20世紀前半までの歴史なのです。
日露戦争の敗北は、ロシアを支配していたロマノフ王朝にとって大きなダメージとなっていましたが、その後も第一次世界大戦でドイツに敗北を重ねたことや、生活物資の不足にあえいだことなどによって不満を爆発させた民衆が、1917(大正6)年3月に大規模な暴動を起こし、それがきっかけとなって、ついにロマノフ王朝が倒されました。これを三月革命といいますが、ロシアが当時使用していた暦に合わせて二月革命とも呼ばれています。
三月(=二月)革命後のロシアは不安定な政治情勢が続きましたが、その中から勢力を拡大したのは、共産主義を標榜(ひょうぼう、主義・主張や立場などを公然と表すこと)するレーニンでした。マルクスに由来する「貧富の差を憎むとともに私有財産制を否定して、資本を人民で共有する」という耳に心地よい思想が、それまでの長い帝政に苦しめられてきたロシアの民衆の熱烈な支持を集めたのです。
かくしてレーニンは、1917年11月にクーデターによって政治の実権を握ることに成功し、世界で初めての社会主義(=共産主義)政権であるソビエト政権を樹立しました。これを十一月革命、またはロシアの暦に合わせて十月革命といいます。
ソビエト政権は、1922(大正11)年にソビエト社会主義共和国連邦を成立させましたが、その裏でロマノフ王朝の一族をすべて処刑したばかりか、共産主義に賛同しないと見なした人民を数百万人も虐殺(ぎゃくさつ)するなど、血にまみれた恐怖政治を行い続けました。そして、広大な領土を持つ共産主義国家が突然誕生した現実は、我が国を含めた周辺諸国に甚大な影響を与えることになってしまうのです。
※下記の映像は5月1日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
今でもアメリカからの真綿攻撃は変わっていない気もしますね(^_^;)
共産主義に関しては、あまりにも極端な考え方に
傾倒している項目もあるので、首をかしげてしまう部分も有りますが、その極端な考え方が必要な時もあるとは思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 共産主義の考えの中には、社会保険制度などの有益なものもありますが、国家全体で行うことは、その後のソ連の失敗で明らかですからね。さて、この後我が国はどのような道を歩むのでしょうか…。
ドイツに戦力を集中されることを恐れたイギリス・フランス・イタリアの三国は、当時シベリアで孤立していたチェコスロバキア軍を救援するという目的で、我が国にシベリアへの出兵を要請してきましたが、出兵によってアメリカをこれ以上刺激したくなかった我が国はこれを拒否しました。
その後、チェコ軍が危機に陥(おちい)っているという情報が流れて、アメリカ国内でチェコ軍の救援に向けて派兵すべしとの世論が高まり、アメリカが我が国に共同出兵を要請してきたことで、当時の寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣がようやく重い腰を上げて、大正7年8月にアメリカ・イギリス・フランスとともにシベリアへ派兵しました。これをシベリア出兵といいます。
しかし、出兵に際してそれぞれの思惑を持っていた各国は意思の疎通(そつう)を欠き、特に我が国はアメリカと激しく対立しました。なぜなら、アメリカが出兵した本音が「日本が満州北部やシベリアに進出するのを防止すること」であったのに対して、我が国には「ソビエトによる共産主義支配の危機が迫った満州を守る」という強い意思があったからです。
シベリア出兵は思ったよりもはかばかしい効果があげられないまま、大正9年初頭には各国が撤兵を開始しました。我が国もアメリカからの共同出兵打ち切りの報を受けて、撤兵への機運が高まりましたが、そんな折にとんでもない惨劇が起きてしまいました。
※下記の映像は5月1日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
このシベリア出兵に関しては、たまにテレビの特集などで帰還した元兵士の方の生々しい体験談を耳にしますが、その悲惨な話を聞かされる度に、居たたまれない思いで聞いています。
実際にその場に行かされるのも人間。それを命じているのも人間。同じ人間なのにどうしてこうも違いがあるのかと憤りを覚えます。
指示するだけなら、簡単でしょうけれど
実際に命を落とされた方を思うと、なんとも言えません。国同士の思惑の為に命が犠牲になることがあってはならないなと改めて思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんの仰る内容は、ひょっとすると大東亜戦争終結後に旧ソ連が行ったシベリア抑留かもしれませんが、いずれにせよ悲劇であることに変わりはないと思います。
特に今回、すなわちシベリア出兵の場合は、余りにも一方的な記述が多いことがさらに問題ですね。
ぴーち おはようございます!
内容をよく把握して居なかった様ですね(^_^;)
失礼しましたm(_ _)m
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 いえいえ、どうぞお気になさらずに。
今後ともよろしくお願いします。