パルチザンは我が国の守備隊と一旦は講和しましたが、やがて共産主義に同調しないニコライエフスクの市民を革命裁判と称して次々に虐殺するなど乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を繰り返し、同年3月には日本軍守備隊を全滅させ、また一部の日本人居留民を捕虜(ほりょ)としました。
日本政府は雪解けを待ってニコライエフスクに救援軍を派遣しましたが、パルチザンは救援軍が到着する前に、捕虜としていた日本人をことごとく惨殺したほか、市民のおよそ半分にあたる約6,000人を反革命派として虐殺し、最後には市外に火を放って逃走しました。
ニコライエフスクにいた約7百数十名の日本人全員が、戦死あるいは虐殺されるという大惨事に対し、我が国内で「元寇(げんこう)以来の国辱(こくじょく)だ」と対ソ強硬論が高まったのは当然でした。なお、この悲惨な事件はニコライエフスクの当時の呼称から、尼港(にこう)事件と呼ばれています。
※下記の映像は5月1日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
そんなに沢山の日本人が犠牲になったことなど
今の今まで全く知りませんでした。
どちらかと言うと、現代の感覚だけで言わせて頂くと
日本人が海外で狙われるのは
お金目当てで・・という意識が強く、その他の理由で日本人が殺害される理由は何処にも無いのではないかと高を括っていた部分が有りました。
どこかで日本人は優遇されるはずだと思い込んでいる筋が有りましたので。
日本の常識はやはり海外では通用しないのが
常だという事なのですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 尼港事件は今から95年前になりますが、外国の、しかも革命が起きた国での悲惨な出来事ですからね。
今の常識では計り知れない様々な問題があると思われます。
後になって、ソビエトの革命政府が事件の非を認めてパルチザンの責任者を処刑しましたが、我が国が求めた賠償を革命政府が拒否したこともあって、現地での安全保障を重視した我が国は、大正11(1922)年までシベリアから撤兵ができませんでした。
シベリア出兵は最終的に当時で約10億円を費やしたほか、将兵約72,000人を現地に派遣し、そのうち約3,500名を失うこととなりましたが、結果としては何も得るものがなかったばかりか、領土的野心を周辺諸国に疑われ、特に日米関係に大きな溝をつくってしまいました。
ところで、我が国の多くの住民や兵士が虐殺された尼港事件ですが、これだけの大惨事でありながら、なぜか我が国の高校での歴史教科書の多くが取り上げていません。そればかりか、チェコ軍の孤立を自国の領土的野心を満たす好機として、我が国が進んで出兵したとか、あるいは我が国がシベリアでズルズルと駐留を続けたことで国際的な非難を浴びたというような、余りにも一方的な記述が見られる教科書もあり、当時の我が国が置かれた深刻な状況を判断することが極めて難しくなっています。
なお、我が国が保障占領した北樺太ですが、国家としてのソ連が成立した後の大正14(1925)年に日ソ基本条約が締結され、両国の国交が樹立したのを受けて我が国が撤兵しています。
※下記の映像は5月1日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
確かに日本人的な考え方として
良く言えば、自分を謙遜することが美徳とし
悪く言えば、卑下してしまう傾向が強いですが
事実をねじ曲げてまでも、卑下する事も無いと
思いますね。
事実は事実として、しっかり後世の者に
自国の身の潔白を伝えていくべきだと思いますが・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 事実をねじ曲げてまでも、卑下する事も無いと
> 思いますね。
> 事実は事実として、しっかり後世の者に
> 自国の身の潔白を伝えていくべきだと思いますが・・
まさしく仰るとおりです。
バンドン会議の際の安倍首相のお言葉のように「反省」はあっても、いわれなきねじ曲げを受けいれる必要は全くありません。
しかし、共産党による一党独裁の政治を始めたソビエトは、共産主義社会の実現を名目として、反対する民衆を、裁判にかけることもなく有無を言わさず大量に虐殺しました。政治や言論の自由を失った民衆からしてみれば、ロマノフ王朝以上に抑圧された、非民主国家での圧政の日々と言えたかもしれません。
自国での革命に成功したソビエトは、世界の共産化をめざして1919(大正8)年にコミンテルンを組織しました。コミンテルンの主な目的は、各国の知識人や労働者をそそのかして、共産主義の革命団体を世界中に旗揚げし、そのすべてをソビエトからの指令によって動かすことで、各国の内部を混乱させて共産革命を引き起こそうというものでした。
コミンテルンはやがて目標の一つを東アジアに定め、中国大陸内で民衆に共産主義を広めたほか、我が国にもコミンテルン日本支部ともいうべき組織を、日本共産党という名で大正11(1922)年に秘密裏(ひみつり)に立ち上げました。
そもそも我が国は、ソビエトと国境を接した満州に権益を持ち、あるいは朝鮮半島を自国の領土としていましたから、ロマノフ王朝を皆殺しにするなど、君主制の廃止を何とも思わなかった共産主義による脅威(きょうい)を、天皇陛下に万が一のことがあっては大変なことになると、世界で最も強く感じていました。共産主義への恐怖と内部で密かに進んだコミンテルンの工作とが、大正時代以降の我が国の歩みを大きく狂わせる結果を招くようになるのです。
※下記の映像は5月1日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんにちは!
共産主義そのものの考え方には
共感出来るものがあったとしても、その内容を
利用して全て自国の思い通りになるように
仕向ける国が存在した事がこの思想を
最悪なものにしてしまったのですね。
なんでもそうでしょうけれど、
人間の欲が絡んで悪用されてしまうと
末路は悲しいですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、共産主義の思想を国家レベルに引き上げ、自分の理想通りの国をつくろうという段階でどうしようもないですね。それまでの歴史が完全に闇に葬られるのですから、国民の抵抗が強いのも当然です。
しかし、第一次大戦が終結して、ヨーロッパ諸国の産業が復興すると、アジア市場は再びヨーロッパの商品であふれるようになったことで、我が国は大正8(1919)年から再び輸入超過となり、特に重化学工業の輸入品の増加が国内の生産を圧迫しました。
そして大正9(1920)年には、株価の暴落をきっかけとして戦後恐慌(せんごきょうこう)が起こり、銀行で取り付け騒ぎが続出したほか、綿糸や生糸の相場が半値以下に暴落したことで、紡績業や製糸業が事業を縮小せざるを得なくなって失業者が増えたほか、物価の下落によって中小農民が没落しました。
さらには、こうした不況に追い打ちをかけるかのように、大正12(1923)年9月1日午前11時58分に関東大震災が発生し、東京を含む京浜地帯が壊滅的な被害を受けたほか、震災によって多くの銀行の手形が決済不能となりました。
政府は日本銀行に約4億3,000万円という巨額の特別融資をさせて何とか一時はしのいだものの、不況が慢性化してその後の決済が進まず、3年後の大正15(1926)年になっても約2億円の未決済分が残るなど、日本経済が大きな打撃を受けたまま、時代は昭和を迎えるのです。
※下記の映像は5月1日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんにちは!
この所、航空機の故障、事故などが頻発していますが、あるニュースの解説の方が、航空機事故というのは一つだけの原因ではなく、いくつかの悪条件が重なって起こるものだと言っていたのを思い出しました。
悪いことが幾重にも重なる事で、日本経済が
ドン底に冷え込んでしまったのですね。
きっとそれも見落とされた小さな原因の積み重ねが
どんどん膨れ上がってしまったのでしょうけれど。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 第一次大戦後の我が国は、いわゆる「恐慌」が相次いで発生してしまいます。
中には大震災という不可抗力もありましたが、不況がなぜ発生したのかを振り返ることによって、我が国が置かれた環境を振り返るとともに、今に生かす何らかの処方箋を見出すことができるでしょう。
しかし、当時の与党であった憲政会率いる第一次若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣が、新たな公債を発行して手形を整理しようと考え、そのための法案を議会に提出しましたが、立憲政友会を中心とする野党の反発が強く、審議が進まないうちに、昭和2年3月の大蔵大臣の片岡直温(かたおかなおはる)の失言がきっかけで、多くの中小銀行に預金を求める人々が殺到するという取り付け騒ぎが発生しました。
さらには、翌4月に総合商社の鈴木商店の倒産をきっかけとして、台湾での紙幣発行権を持っていた台湾銀行が休業に追い込まれたことで、いわゆる金融恐慌が最高潮に達してしまったのです。
その後、総辞職した若槻内閣に代わって成立した、立憲政友会を与党とする田中義一(たなかぎいち)内閣の大蔵大臣となった高橋是清(たかはしこれきよ)が、手形の決済や預金の払い戻しなどを一時的に猶予した3週間の支払猶予令(=モラトリアム)を枢密院(すうみついん)に出させて、そのあいだに高橋蔵相が日本銀行に巨額の特別融資を行わせたことで、金融恐慌はようやく収拾へ向かいました。
ちなみに、日本銀行は特別融資のために急きょ大量の200円札を発行しましたが、余りに巨額であったために準備が間に合わず、裏面が白紙のままでした。また、休業した台湾銀行についても議会で審議され、2億円の救済法案が成立して再建されています。
※下記の映像は5月1日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
高橋是清の判断の俊敏さや、正確さが
日本を救ったわけですね。
それにしても、裏面が真っ白とは!
今なら子供の遊び道具にされてしまいそうですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、高橋是清の速やかな判断で危機は救われましたが、この後に新たな問題が発生してしまいます…。
この紙幣は別名を「裏白」といいますが、確かに今では考えられないですね。
1929(昭和4)年10月、ニューヨークのウォール街において株価が大暴落したことをきっかけにアメリカで恐慌が起きると、その影響がヨーロッパなどにも飛び火して、世界恐慌(または世界大恐慌)となりましたが、大恐慌を乗り切るためには国内産業を保護するしかないと考えたアメリカは、翌1930(昭和5)年にホーリー・スムート法を成立させ、アメリカに輸出される多数の品目に対して、途方もなく高い関税をかけました。
突然のアメリカの仕打ちに激怒した他国が、報復としてアメリカ製品に対する関税を引き上げたことで、アメリカの貿易量は半分以下となり、恐慌が長期化しました。景気を回復させようとしたアメリカの政策が、かえって不況を増長させるという最悪の結果となったのです。
ホーリー・スムート法によって、それまでの自由貿易から一気にブロック経済に入ったアメリカに対し、イギリスも1932(昭和7)年に、カナダやオーストラリア・ニュージーランド・インドなどの英連邦諸国を集めてオタワ会議を開き、英連邦やイギリスとの間で、アメリカと同じように排他的なブロック経済の体制を構築しました。
世界恐慌によって各国がブロック経済へと移行するようになった一方で、絶体絶命の危機を迎える国も現れました。それはドイツと我が日本です。
※下記の映像は5月1日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
こういうお話を伺っていると
世界と繋がっている以上、
自国だけを守ろうとして保守的になり過ぎたり
あるいは攻撃的になり過ぎたりと
極端な政策を打ち出してしまうと
それが返って自国を苦しめる材料となり
仇となってしまうこともあるものだなと思いました。
世界と足並みを揃えて行くのは、本当に難しいものですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、難しいですよね。
この当時は資本主義に対する理解がまだ不足していたからなおさらでした。
そして、その隙をついてある勢力が…。
なぜなら、アメリカは広大な領土とそこに眠る資源を持っており、またイギリスも世界各地に植民地を持っていたことから、両国とも自給自足による国家の運営が可能だったからです。その他にもフランスやオランダ、あるいはソ連といった国々も、同じく自給自足によってブロック経済を乗り切ろうとしました。
しかし、第一次世界大戦によってすべての植民地を失ったドイツにとって、ブロック経済による貿易の抑止は死活問題でした。ブロック経済によって多くの失業者が町にあふれるという危機を迎えたドイツでしたが、そんなときに救世主が現れました。
彼こそが、ナチス(=国家社会主義ドイツ労働者党)を率いて1933(昭和8)年に政権を握ったヒトラーでした。ヒトラーは賠償金の支払いの破棄を宣言したほか、新たな体制の構築によって自給自足が可能な国家の建設をめざし、やがては他国との戦争を模索(もさく)するようになるのです。
なお、同じように経済的に苦しんでいたイタリアでは、1922(大正11)年に政権を得ていたファシスタ党のムッソリーニが、領土の獲得をめざして1935(昭和10)年にエチオピアへ侵入しています。
※下記の映像は5月1日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
そうですか・・
そう考えると
ヒトラーもムッソリーニも
大国の圧倒的経済力に押し潰れそうになった中から
生まれたその国を救う為の風雲児だった訳ですね。
世界からは良い印象を持たれない彼らだと思いますが
元はといえば、大国が富を独り占めしようとした
結果生まれた存在だという事を認識しなければ
ならないのでしょうね。
本当の悪
青田です。 黒田先生
青田です。
ドイツ=悪のように歴史ドラマで、描かれますが
ドイツの帝政は失くし、ワイマール憲法を押し付け領土を減らせれ、莫大な賠償金を払わされました。
その黒幕は
アメリカ(ウィルソン大統領)です。
何となく、日本の戦後のアメリカの占領政策の方向性に似ている気がします。
「一見、紳士風。実は、ドラキュラン」がアングロサクソンの特徴と言われていますが、うまい、表現です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
もしヒトラーの存在を否定したいのであれば、彼が世に出ることをうながしたブロック経済の是非についても真剣に検討すべきでしょう。
青田さんへ
黒田裕樹 確かにその側面は見逃せませんね。
そう考えれば、ちょうど今日の安倍首相とオバマ大統領の関係が、我が国のみならず世界にとっても理想なのかもしれません。
やはり、リーダー(人材で決まりますね。)
青田です。 黒田先生
青田です。
正直、国家の命運は、リーダー(人材)で、
決まってしまうと思う。
この当時の世界の指導者層は、かなり、ひどかったです。
自分のことしか考えてない中国の蒋介石(1923年に孫文の指示でソ連の軍政を視察して、1928年には、反日・反共・対英米善隣外交。)
優生思想のロクでもないルーズベルト、
馬鹿なヘタレのムッソリーニ、
残虐非道な謀略王のスターリン、
学歴貴族化した日本の指導者層、
経済的能力があるが誇大妄想狂のヒトラー
という悪いサイクルでした。
そう考えると
今回の安倍総理とオバマ大統領の会談が成功したのは、世界の健全な秩序創りには、重要なファクターになりますね。
安倍氏は、正直、かなり、優れています。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおり、優れたリーダーが存在するとそうでない国の現状と未来は歴史が証明していますね。
我が国に安倍首相がご存在くださることは有難いです。
当時の世界全体が「自国の経済安定のためには他国を顧(かえり)みる余裕はない」という流れだったこともあり、やがて日本国内から「アメリカやイギリスを見習って、我が国だけの自給自足圏(けん)をつくる以外に生き残る術(すべ)はない」という声が挙がるのは、むしろ当然だともいえました。
こうした考えが、当時我が国が権益を持っていた満州を自給自足の、すなわち我が国が他国からの干渉を受けずに統治するという発想に至り、ドイツと共に第二次世界大戦への遠因の一つとなるのですが、そもそもアメリカやイギリスなどがブロック経済を行わなければ、日独両国はここまで追いつめられることはなかったのです。
いずれにせよ、英米を中心とするブロック経済体制は、共産主義という全く異なる経済体制であったために大きな影響を受けなかったソ連も含めて、世界の構図を大きく変えましたが、そんな中での当時の我が国による内政や外交の動きが、世界全体にさらなる影響をもたらすようになるのです。
※下記の映像は5月1日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
自国の安定の為に、他の国のことなど構っていられなくなる。確かに追い詰められると何とか自分だけでも助かれば・・と思うのは人情ですものね。
しかしこの世は不思議なもので、他の者が窮地に陥れば、それに引きづられるかの様に、助かるはずの我が身までがそれに飲み込まれてしまうという
法則が存在するようですね。結局、この世の中
周りの人間が居るからこそ生きていけるというもので、たまたま自分一人だけが生き残れたとしても、いづれは生きながらえる事が出来なくなるものですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに不思議ですよね。
業の深さを思い知らされる話でもあります。
経済の自助作用から政府主導での経済立て直しへと政策を大きく転換した点では、むしろ社会主義的な色彩の濃いものと言えるかもしれません。なお、ニューディール政策によってアメリカは大規模な公共事業を起こし、国民の雇用と賃金を確保することで不況を乗り切ろうとしました。
もっとも、アメリカが本格的に不況を脱出する要因となったのは、我が国と大東亜戦争に突入したことによって、第二次世界大戦へ参戦したことで、戦争特需が生まれたことが挙げられ、ニューディール政策にどれだけの影響があったかどうかは意見が分かれています。
なお、アメリカで12年ぶりの民主党政権となったことで、フランクリン=ルーズベルトが、それまでの共和党政権が拒否してきたソ連の国家承認を就任早々行うなど、容共政権(=共産党に理解を示す政権のこと)の性格を持っていましたが、この事実は今後の歴史を振り返る際に重要な意味を有することになります。
※下記の映像は5月1日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
やはり共産主義を完全否定することは出来ないという事なのでしょうかね・・?
意に沿わない主義でもあえて受け入れる事で
上手く中和され、それまで煮詰まっていた問題に流れが生まれたという事なのかもしれませんよね。
いよいよ極悪人の登場ですね。
青田です。 黒田先生
青田です。
いよいよ、ヒトラーと並ぶ、極端な優生思想を
持つ、極悪人の登場ですね。
日本にとっては、百害あって一利なしの
大統領です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > やはり共産主義を完全否定することは出来ないという事なのでしょうかね・・?
> 意に沿わない主義でもあえて受け入れる事で
> 上手く中和され、それまで煮詰まっていた問題に流れが生まれたという事なのかもしれませんよね。
共産主義の考えそのものがすべて悪というわけではありません。
ただ、それを自らの政治に都合の良いように巧みに利用すればどうなるのか…。
このことが、世界に大きな不幸を招くようになったのが歴史的な事実です。
青田さんへ
黒田裕樹 結果から見れば、確かにそういわざるを得ませんね。
もっとも、彼の本格的な「活躍」に関しては、次回(第48回)の歴史講座で紹介することになりますが…。
時代は繰り返す
青田です。 青田です。
つくづく、人間というのは、同じことを繰り返す生き物だと思います。
(1)今度の大統領選では、アメリカの9割の若者が
社会主義者のバーニー・サンダースを支持しました。
(格差にたいする社会主義思想を受け入れる。)
(2)さらに、トランプ氏が打ち出そうとしているのは、
かつてのアメリカのニューディール政策にかなり、近いものです。(ようは、保護貿易にして、国の政策で経済を変えようというものです。)外国からの輸入品に高い関税を掛けながら、
① CCC(民間資源保存局)による大規模雇用。
② NIRA(全国産業復興法)による労働時間の短縮や超越論的賃金の確保。
③ AAA(農業調整法)による生産量の調整
ワグナー法「全国労働関係法」による労働者の権利拡大。
さらに、似ているのは、このニューディール政策をしていた時の大統領のルーズベルトは、白人至上主義者です。
トランプのブレインのスティーブン・ダノンは、超白人主義者です。
(3)さらにトランプ大統領とルーズベルト大統領が似ているのは、トランプは、ロシアをかなり、好意的であり、ルーズベルト大統領は、ソ連をスグ承認したことです。
これらの共通点から、未来を考えると、未来にたいして、嫌な予感が。。
青田さんへ その2
黒田裕樹 もしそう思われるのであれば、少しでも行動をすることですね。
元首相の外交力に私は期待します。
ところが、1914(大正3)年に第一次世界大戦が始まると、我が国を含む各国は、流出を防ぐ目的で金の輸出入を禁止したため、金本位制は一時停止されました。そして大戦後に、世界各国が相次いで金本位制に復帰しましたが、その中で我が国だけが、関東大震災や金融恐慌といった混乱が続いたために遅れていたのです。
昭和4(1929)年7月に成立した立憲民政党の浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣は、大蔵大臣に井上準之助(いのうえじゅんのすけ)を起用し、金の輸出入を解禁して(これを「金解禁」といいます)、列強と同じく金本位制に早期に復帰することを大きな目標としました。
金本位制では貿易赤字が続くと、その分だけ通貨(=金貨)が海外に流出して、国内の通貨量が減ると同時にモノの売り上げも落ち込むため、困った国内企業が経営合理化によってモノの値段を下げることで、結果として国内外で再び売り上げが伸びるようになる、という経済上での大きな特徴がありました。
我が国が金本位制に復帰すれば、世界における円の為替相場も安定するため、経営合理化によって輸出を拡大して、国内産業を活性化させると同時に、企業の国際競争力を確保することで、不況が続く日本経済を立て直すことが可能になるであろう、と浜口内閣は考えていたのです。
※下記の映像は5月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
何やら、浜口内閣の思惑に
一波乱起きそうな展開ですねぇ・
その後が気になります。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 何やら、浜口内閣の思惑に
> 一波乱起きそうな展開ですねぇ・
> その後が気になります。
鋭いですね(笑)。
果たしてこの後の展開はどうなるのでしょうか…。
金解禁の際に問題となったのが、円とドルとの交換比率でした。当時の為替相場が100円=44ドル前後(1ドル=2.300円前後)であった一方で、金の輸出入を禁止する前は「1ドル=2.005円」でした。もし現在の相場を基準とした新平価(平価とは「外貨と比べての価値」のこと)で金解禁を行えば円安となり、日本製品の輸出に有利となります。
しかし、浜口内閣は新平価での金解禁を主張した国内の反対の声を押し切る形で、旧平価である「金2分=1円=0.49875ドル(1ドル=2.005円)」での交換によって、昭和5(1930)年1月11日に金解禁を断行しました。これでは円高となって輸出に不利となりますが、円の価値を下げて解禁に踏み切れば国としてのメンツが立たないのと、国内の企業をあえて逆境の中に放り出すことによって合理化と体質改善を行わせ、結果として国際競争力を強化させるという狙いがあったとされています。
ところが、浜口内閣や井上蔵相によるこうした目論見(もくろみ)は、完全に裏目となってしまったのです。
※下記の映像は5月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち おはようございます!
なるほど。。
やはり器量以上のものを望み過ぎては
いけないという事でしょうか・・
まだハイハイ状態の赤ちゃんに、駆け足を
しろと強いても無駄な様に。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > やはり器量以上のものを望み過ぎては
> いけないという事でしょうか・・
> まだハイハイ状態の赤ちゃんに、駆け足を
> しろと強いても無駄な様に。
母親らしい上手い例え方ですね。
仰る一面もありますし、当時の世界情勢を意識していなかった面もあります。それは…。
だからこそ浜口内閣は金解禁を断行したのですが、当時はアメリカの大不況によって我が国の輸出額は激減していました。不況にあえぐ国が、他国からモノを買う余裕などなかったのです。このため、売れなくなった生糸や繭(まゆ)の価格が大暴落し、養蚕(ようさん)農家が大きな打撃を受けることになりました。
さらに我が国に深刻な影響をもたらしたのが、正貨(=金貨)の大量の海外流出でした。世界恐慌の嵐が吹き荒れる中では、各国の正貨の保有が死活問題となりますが、そんな折に我が国が金解禁をしたものですから、世界各国が日本からの金の輸入に殺到し、我が国の金の保有量があっという間に減少してしまったのです。
加えて、金解禁をめざしていた浜口内閣が緊縮財政を行っていたことが、不況をさらに拡大させました。景気が悪化した際には、現代の「アベノミクス」のような積極的な経済政策が求められているにもかかわらず、その真逆を行ったことにより、全国各地で企業の倒産や操業短縮が相次いで、多数の失業者があふれるようになり、昭和恐慌と呼ばれた甚大な恐慌に陥ってしまいました。
※下記の映像は5月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
木を見て森を見ず・・という所でしょうか。
やはり全体の様子を把握しないと
何事も上手く行かないようですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
世界中を眺める視野が必須だと思いますが、この時は全く逆でしたね…。
折からの恐慌で農家の兼業が望めなくなったうえに、都市の失業者の多くが帰農した際に大凶作となったことから、農村では甚大な危機となりました。農家の多くは翌年の種籾(たねもみ)まで食い尽くしたほか、欠食児童や婦女子による身売り(=親が給与を前借りして働きに出すこと)が続出しました。
金解禁を断行した浜口内閣への非難の声は、外務大臣の幣原喜重郎による協調外交がもたらした軍縮に関する問題(詳しくは後述します)もあって日増しに高まり、浜口首相が昭和5年11月に東京駅で狙撃(そげき)されると、翌昭和6年4月に内閣が総辞職し、後継の第二次若槻礼次郎内閣も短命に終わりました。
その次の立憲政友会による犬養毅(いぬかいつよし)内閣が、組閣直後の昭和6年12月に金輸出再禁止を行ったほか、大蔵大臣の高橋是清による経済政策によって、我が国の景気はようやく回復へと向かうのですが、それまでの昭和恐慌の爪痕(つめあと)は予想外に大きく、我が国の将来に重大な影響を与えることになるのです。
※下記の映像は5月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
豊作貧乏などと言いますものね。
なんでもそうですが、「過ぎたるは及ばざるが如し」ですね・・
農業は携わったことはありませんが、
自然相手の事ですので、毎年、毎年ご苦労があると思います。
それに農業が不作だと一国の食料問題に直結したでしょうから、大変な時代だったでしょうね。
現代社会では
消費者の立場からすると
外国からの輸入にばかり頼るのも、何かしら心配なことも
多くです。本来は国内の農産物、地産地消で
賄う事が出来れば、それに越したことはないと思っていますが・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、自然に左右される農業は大変な苦労を伴うと思います。
それだけに自給率をもっと上げるべきなのですが…。
一方、共産主義国家のソ連では、いわゆる五ヵ年計画が成功しているかのように見えたことで、世界の経済政策は、先述したアメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領によるニューディール政策や、ドイツのヒトラーなど、自由主義から社会主義へとシフトし始めるものも現れました。
我が国でも、金融恐慌から昭和恐慌へと不況が続くなかで、北一輝(きたいっき)や大川周明(おおかわしゅうめい)などを中心として、次第に国家社会主義思想が広まるようになりました。国家社会主義とは、天皇を中心としながらも、その思想は「貧富の差を憎むとともに私有財産制を否定して、資本を人民で共有する」という社会主義(=共産主義)そのものでした。
要するにドイツのヒトラーや、当時のソ連の指導者であったスターリンを天皇に置き換えただけであり、天皇という「錦の御旗(みはた)」を利用することで、社会主義の本質をごまかしているに過ぎなかったのです。しかし、当時の我が国が大不況であったがゆえに、この国家社会主義思想は当時の軍人、特に青年将校を中心に大きな広がりを見せるようになりました。
※下記の映像は5月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
人間の考えることは例え人種が違えども
同じなのですね。
今置かれている現状が悪化してくると
何処かに救われる道はないものかと模索し始めますが、結局、どんな道を選んでも多少の不具合や我慢すべき所が生じてくるものですよね。
一つの信念をしっかりと見極めないと、あちらこちらに流されるだけの風潮で終わってしまうのかもしれません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今置かれている現状が悪化してくると
> 何処かに救われる道はないものかと模索し始めますが、結局、どんな道を選んでも多少の不具合や我慢すべき所が生じてくるものですよね。
そのとおりです。
現状打破は誰しもが目指すことですが、不具合や辛抱を伴うことに変わりはありません。
無理してそれらを避けようとすれば、その報いを受けてしまうんですよね。
ココが重要ですね。
青田です。 黒田先生
青田です。
ここがまさに、戦後教育の誤解の
最大のポイントですね。
多くに日本人は、この青年将校=右翼思想(国粋主義者=保守)と勘違いしています。
そして、ナチスのヒトラーも右翼思想(保守政党)の政権だと勘違いしています。
しかし、ナチスの正式名称がドイツ社会主義労働党という左翼政党です。
そのナチス党が、議会で多数派を占めていた共産党を徹底的に弾圧しました。
しかし、ソ連も無茶苦茶です。
そもそも、みんな平等を標榜していた共産主義から、独裁者が出ます。
これは、現代でも、同じだと思います。
某大〇市の某市長は、
最初は、保守的な発言をして、保守政党と一緒になったと思ったら、今度は、左翼的な発言をして、おまけに言論弾圧をし、独裁者になろうとしています。
こういうことをする人間がいるから、
私は、自分を保守とも左翼とも言いません。
(支持を得るための表面的な思想発言は、大嫌いです。)
青田さんへ
黒田裕樹 鋭いご指摘を有難うございます。
現代にもつながる重要なポイントですね。
しかし、その優秀さとは裏腹に、彼らの給料は決して高くなく、また預かった兵士からは、東北地方を中心に欠食児童や婦女子の身売りなどの悲惨な境遇の話を聞かされたことで、多くの青年将校たちが、当時の経済体制を不満に感じるとともに憎むようになりました。
彼らの怒りは富裕層である地主や資本家、そして財閥(ざいばつ)に向けられ、さらにはそんな体制を許しているとともに、財閥と癒着(ゆちゃく、好ましくない状態で強く結びつくこと)している(と彼らが思い込んでいた)政党政治をも敵視し始めました。
そんな彼らが、先述した国家社会主義思想に染まっていくのは、ある意味自然な流れでもありました。頭脳明晰で文武両道の青年将校たちは、自分の思想に絶対の自信を持っており、そんな彼らの様々な行動によって、やがて我が国の運命が大きく暗転することになるのです。
※下記の映像は5月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
人の心を忘れた財閥が、人の心を持ち合わせた青年将校を雇った結果ですね。
結局は、他人を軽視し、人情を踏みにじるとまわりまわって
自分の身も危うくなってしまうという事でしょうか・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 これは判断が難しいですね…。
真っ当な商行為といえども、国民の心を忘れれば、その報いを受けるということでしょうか。
マルクス・レーニン主義の一番の問題点
青田です。 黒田先生
青田です。
私は、当初、226事件など、青年将校によりクーデター行為にいたる思想がどうしても
理解できませんでした。
というのも、この当時は
● 政党政治が成熟化し
● 立憲君主制の議会制民主政治も根付き
● 軍も組織として、上下関係がしっかりしたものであり
● 治安維持法で、社会主義への警戒心もある社会だったからです。
しかし、マルクス・レーニン主義の最大の特徴を知ると理解できました。
それは、マルクス・レーニン主義は、『暴力革命』を大肯定していたことです。
つまり、『革命のためには、暴力をOK』という考えです。
不思議なもので、最初は、労働者のために立ち上がるのに、後に『暴力革命』だけが拡大し、独裁者が出るのは、この後の世界の歴史が証明していますね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
『革命のためには、暴力をOK』。統帥権干犯問題ともリンクします。
このため、補助艦についても主力艦同様に制限をかけるため、昭和2(1927)年にスイスのジュネーヴで、アメリカ・イギリス・日本の3ヵ国間で討議されましたが、アメリカとイギリスとの意見の衝突によって物別れに終わりました。これをジュネーヴ軍縮会議といいます。
その後、昭和3(1928)年には、アメリカやフランスの提案によって各国の代表がパリに集まり、国際紛争の解決や国家の手段としての戦争を放棄することを規定した、パリ不戦条約が結ばれました。
もっとも、不戦条約によって一切の戦争を放棄したわけではなく、自衛のための戦争は認められるという見解を、我が国を含む各国が持っていました。ただし、自衛戦争の範囲がどこまで認められるかについての明確な規定がなかったために、後に中国大陸などでの我が国による政策や軍事的行動が、「不戦条約違反」として各国から非難されるようになったのです。
なお、パリ不戦条約には、違反した場合の制裁の規定はありませんでした。
※下記の映像は5月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
自衛戦争の範囲を定めるのは確かに難しいですよね。
傷害事件で相手から殺されそうになったら、必死に抵抗して、正当防衛で相手を逆に刺してしまった・・などという案件だとしたら、何処までが正当防衛と認められるか、判断に苦しむ場合も有りますものね。
けれど、最初に何も制定されなかったというのも、問題があったと言えば、そうでしょうし・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり難しいですが、相手方の戦闘行為を自衛と一切認めずに、問答無用で非難しても始まらない、というのもありますよね。
明らかな自衛の場合だってあるのですから。
会議では各国の意見が対立して難航しましたが、主力艦の建造禁止を昭和6(1931)年末から昭和11(1936)年末までさらに5年延長することや、補助艦の総トン数をアメリカ10・イギリス10.29・日本6.97の比率にまとめることになりました。
しかし、かねてよりアメリカを仮想敵国として、政府から軍事予算を引き出させるとともに、対米戦に備えて補助艦たる潜水艦の建造を増やしていた日本海軍の軍令部は、補助艦の建造が不可能となる軍縮条約の締結に猛反対しました。
これに対して、当時の浜口雄幸内閣は、幣原喜重郎外務大臣による協調外交を展開しており、また金解禁の実施のために徹底した財政緊縮の必要があったことから、ロンドン海軍軍縮条約の締結を決断しましたが、このことが日本国内に大きな波紋を呼ぶことになるのです。
※下記の映像は5月13日までの掲載分をまとめたものです。





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なるほど、確かに大日本帝国憲法(=明治憲法)の第11条には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあり、条文を素直に読めば、統帥権は天皇のみが有するという規定となりますが、実際にはもちろん天皇ご自身が指揮を取られることはなく、陸軍や海軍の責任者が握っていました。
また、そもそも国の軍備について決定を下すことは統治権の一部であり、統治権は天皇の名の下に内閣が行うものです。従って、軍部による主張は統帥権の拡大解釈に過ぎず、統帥権干犯問題は軍部による反撃材料の一つでしかありませんでした。
ところが、時の野党である立憲政友会が、「与党の攻撃材料になるのであれば何でもよい」とばかりに、統帥権干犯問題を政争の具として、軍部と一緒になって政府を攻撃したことで、話が一気に拡大してしまったのです。ちなみに、この時に政府を激しく非難した政友会の議員の一人である鳩山一郎(はとやまいちろう)は、鳩山由紀夫(はとやまゆきお)元首相の祖父です。
※下記の映像は5月13日までの掲載分をまとめたものです。





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青田です。 黒田先生
青田です。
まさに『統治権は天皇の名の下に内閣が行うものです。』が重要なポイントですね。
なぜなら、日本をしっかりと、議会があり、内閣が機能していました。カタチ上は、シビリアン・コントールです。
しかし、
この「統帥権」の問題が戦後教育でも
かなり、曲解されて、教えられていますね。
ただ、冷静に考えて、立憲君主制の国で
ほとんどの君主は、統帥権を持っていますが
統帥権干犯問題など起こっていません。
むしろ、立憲君主制の国のほうがシビリアン・コントロールが健全に行われています。
逆に共産主義や、帝政・王政のない国のほうが、無茶苦茶です。(軍政になりやすい。)
ぴーち こんばんは!
これが実際に、陛下ご自身が全て取り仕切れる制度であったのなら、横槍を入れる事が出来なかったのでしょうけれど、天皇の名のもとに、天皇の存在を上手く利用して・・という都合の良さに付け入る隙を与えてしまったのも、落ち度では無かったのかなと思いますね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、憲法上においても本来であれば何の問題もないはずなのですが、政党側が政争のために統帥権干犯を肯定したことが致命的でしたね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 憲法上の文言の解釈として、スキを与えてしまったのは確かですね。
とはいえ、正しく運用すべき政党側が解釈を曲解することまでは想定外だったとも思えますが…。
ところが、軍部が火をつけ、政友会が油を注いだ統帥権干犯問題はもはや止めることができず、ロンドン海軍軍縮条約そのものは何とか批准(ひじゅん、国家が条約の内容に同意すること)に成功したものの、先述のとおり、浜口首相が昭和5(1930)年11月に東京駅で狙撃されて重傷を負い、翌昭和6(1931)年4月に内閣総辞職をした後、同年8月に死亡しました。
統帥権干犯問題は、確かに大日本帝国憲法における欠陥ともいえましたが、憲法制定当初は全く問題視されていませんでした。それがなぜ、制定から40年以上も経ってから、我が国に深刻な影響を与えるようになったのでしょうか。
その背景には、例えば伊藤博文のような明治維新の元勲(=国家に尽くした大きな功績のある人のこと)たる元老の存在があったのです。
※下記の映像は5月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
その当時は何も問題視されなかった
事が時代が変化した事で、対応出来なくなってしまったのでしょうか。。?
伊藤博文の件が引っかかりますね(゜゜)
元老の誤解
青田です。 黒田先生
青田です。
高校の時、馬鹿な歴史教師は
『元老が内閣を支配するくらいの影響力・発言力』があったから、日本は太平洋戦争に突入した。』
まるで、『元老』=『老害』のように語っていました。
しかし、日露戦争の時は、オール元老のパワーが勝因に繋がっていたと思います。
もし、あの時、政党(特に自由民権運動上がりの)が元老。たとえば、板垣退助だったら、日露戦争に負けていました。
時々、黒田先生がバックトゥーザフューチャーで30年前にタイムスリップして、歴史を教えて頂いているのを夢でみます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > その当時は何も問題視されなかった
> 事が時代が変化した事で、対応出来なくなってしまったのでしょうか。。?
鋭いですね。そのあたりを詳しく紹介することになると思います。
> 伊藤博文の件が引っかかりますね(゜゜)
伊藤は元老の代表的人物ですからね。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに、元老に対する誤解や曲解はひどいものがありますね。
> 時々、黒田先生がバックトゥーザフューチャーで30年前にタイムスリップして、歴史を教えて頂いているのを夢でみます。
有り得ません(爆)。
そもそも明治維新や明治新政府は、元老たちが明治天皇の下で起こしたのですから、元老の意見は天皇の意見と同じだけの重みをもっていましたし、その元老たちの推薦によって内閣総理大臣が選ばれたことから、首相や内閣も天皇や元老と一体のものと考えられていたのです。
これだけの重みがある以上、たとえ大日本帝国憲法に規定のなかった内閣であっても、その指導力はいかんなく発揮され、日清戦争や日露戦争の際にも、その絶妙な政治的判断によって、我が国は国難を何度も乗り越えてきました。
しかし時が流れ、昭和を迎える頃には、元老のほとんどが死に絶えてしまい、大正期に元老となった西園寺公望のみとなってしまいました。こうなると、元老の意見が天皇の意見と同じであると誰も思わなくなり、同時に内閣の権威も低下してしまったことで、統帥権干犯問題が表面化してしまったのです。
そして、そんな統帥権干犯問題をさらに拡大してしまったのが、本来は軍部をコントロールする立場であるはずの政党であったことが、何とも言えない皮肉でもありました。
※下記の映像は5月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
なるほど。。
そういうカラクリでしたか。
その後、何十年も継続させていくというのは
並々ならぬ努力が必要という事が改めて感じました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうですね。
継続させるには(単なる学問だけでなく)優秀な人材が不可欠であるということがよく分かります。
なぜなら、政党政治を行う立場である政党人自らが、「軍部は政府の言うことを聞く必要がない=内閣は軍に干渉できない」ことを認めてしまったからです。事実、この問題をきっかけとして、我が国では軍部の暴走を事実上誰も止められなくなってしまうようになりました。
さらには、政府のいうことを聞く必要がなくなった軍部自体も似たような悩みを抱えることになりました。なぜなら、軍のトップが憲法を盾に政府の言うことを聞く必要がないということが、自身の部下に対して「政府の言うことはもちろん、陸海軍の中央の意向も確認する必要がない」という風潮を同時に生み出してしまったからです。
やがて我が国では、青年将校を中心に軍部による「血の粛清(しゅくせい)」が当たり前になったほか、陸軍首脳が全くあずかり知らないところで、現地の軍隊が勝手に軍事行動を起こすようになりますが、これらは元はといえば、国家全体の指揮系統を弱めた政治家や軍部の責任でもあるのです。
その後の我が国は、国家としての統制のとれない二重政府の状態と化してしまったことによって、やがては大東亜戦争へと突き進む理由の一つになったのですが、もちろんそれだけが直接の原因であるはずもなく、世界中で起きた様々な出来事を背景に、我が国は複雑な歴史をこの後も歩むのでした。
※下記の映像は5月13日までの掲載分をまとめたものです。
(※第47回歴史講座の内容はこれで終了です。次回[5月14日]からは第3回公民授業の講演部分の更新を開始します)





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ぴーち こんばんは!
他の国の事情は存じませんが、日本という国は
どうも最終的に足の引っ張り合いをして内輪揉めをしているうちに、結果自分で自分の首を締める傾向が強い様に思います。
それと言うのも、日本が余り他の国からの責め苦に悩んで来たことが無かったからでしょうか?
つまりは世界を相手にして来なかった内弁慶が
悪い結果に結びつく要因になっているのでは?などと考えてしまいます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、そのような見方もあり得そうですね。
いずれにせよ、大東亜戦争への流れは引き続き注目していきますので、次回以降もよろしくお願いします。