大陸の政治制度や文化を学ぶために、多くの留学生が唐へ渡りましたが、造船や航海技術が未熟であった当時は、遣唐使による航海は命がけであり、中には帰国できずに、そのまま唐で生涯を終えた留学生もいました。
717年に吉備真備(きびのまきび)らが入唐(にっとう)した際、彼らに同行していた阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は、唐の超難関の試験である科挙(かきょ)に合格し、後に唐の高い役職を歴任しました。詩人の李白(りはく)と親交を持ち、また唐の皇帝の玄宗(げんそう)の厚い信任を得ましたが、才能が高かったゆえに、皇帝がなかなか仲麻呂の帰国を許しませんでした。
やがて、遣唐大使(けんとうたいし)の藤原清河(ふじわらのきよかわ)らの要請によって、753年にようやく仲麻呂の帰国が許されましたが、清河らとともに彼を乗せた船が、無情にも暴風雨にあって難破し、安南(あんなん、今のベトナム)に漂着しました。命からがら長安まで戻った仲麻呂は、その後もついに帰国することなく、770年に唐で73歳の生涯を閉じました。
そんな彼が残した望郷の和歌は、小倉百人一首にも取り上げられ、長く我が国で知られています。
「天(あま)の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠(みかさ)の山に いでし月かも」
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仏教を学ぶ際に重要であった戒律(かいりつ)を日本に広めるために、我が国の留学僧が鑑真を訪問しました。鑑真は弟子たちに「誰か日本に渡る人はいないか」と問いかけましたが、誰も手を挙げようとしないので、「それなら私自身が行く」と自らの渡日(とにち)を決意しました。
しかし、鑑真のような高僧が日本へ渡るということは、大変な苦難を伴いました。弟子たちの密告などによってことごとく失敗し、ようやく船に乗ったと思ったら、嵐にあって難破してしまいました。5度にわたる渡日に失敗するうちに、鑑真の両目は失明状態になったと伝えられています。
752年に遣唐大使の藤原清河らが来唐し、翌年に帰国する際に、鑑真は船に同乗させてくれるよう依頼しましたが、渡日を許さない玄宗皇帝の意を受けた藤原清河は、これを拒否しました。
しかし、副使の大伴古麻呂(おおとものこまろ)の機転で、密かに別の船に乗ることができた鑑真は、清河と阿倍仲麻呂を乗せた船が難破した一方で、無事に我が国にたどり着き、ついに悲願の渡日を果たしました。
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ちなみに、彼の死後に造られた彫像(ちょうぞう)は、我が国最初の肖像彫刻(しょうぞうちょうこく)とされています。
余談ですが、大伴古麻呂は唐における753年の新年の儀式の際に、我が国の席次が新羅(しらぎ)より下になっていることに対して猛烈に抗議し、結果的に席次を入れ替えさせたというエピソードが残っています。
席次の件といい、また鑑真を密かに渡日させたことといい、気骨(きこつ)ある人物でなければ外交官は務まらないのは、今も昔も同じなのかもしれませんね。
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その背景には、いつまでも大陸からの文明に頼らなくても、独立国として自力の文化を発展させることができるという強い自負もありました。そして先述のとおり、894年に菅原道真が遣唐使の中止を進言して認められた直後の907年に、唐がついに滅亡しました。
唐の滅亡後は、五代十国(ごだいじっこく)による諸王朝の興亡が続いた後に、960年に宋(そう)が建国されました。既に独自の文化が発展しつつあり、大陸からの積極的な文化の交流の必要性がなかった我が国は、臣下の礼をとらなければならない朝貢外交を嫌って、宋とは正式な国交を結びませんでした。
我が国では商船が宋へ渡航することも禁じましたが、その一方で北九州に来航した宋の商人が私的な貿易を行ったことにより、書籍や陶磁器(とうじき)などの工芸品や薬品などが輸入されました。また、我が国の僧侶(そうりょ)が新たな教えを求めるために朝廷の許可を得て宋に渡ることも珍しくありませんでした。
なお、この時代の宋は、12世紀に一旦滅亡した後に再興されましたので、後代(こうだい)と区別するために「北宋(ほくそう)」とも呼ばれています。
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また、朝鮮半島では新羅(しらぎ)が9世紀末に衰えて分裂した後に、10世紀始めに建国された高麗(こうらい)によって滅ぼされました。高麗は後に朝鮮半島を統一しましたが、我が国は高麗とも正式な国交を結ぼうとはしませんでした。
我が国と隣国との正式な外交関係は、こうして10世紀のあいだにぷっつりと途切れました。その背景には、後に「国風(こくふう)文化」と呼ばれた我が国独自の文化が発展し、諸外国からの文化の交流を必要としなくなるほどに隆盛を極めたという事実が確かにありました。
しかし、いかに我が国が海で囲まれているからとはいえ、諸外国と正式な国交を結ばなかったうえに、軍隊すら持っていなかったという現実は、あまりにも無防備でしかありませんでした。
では、後述する「元寇(げんこう)」のように、この時代に我が国が諸外国の軍勢や海賊などに襲われたことはなかったのでしょうか。
実はあったのです。
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この非常事態に、当時の大宰権帥(だざいごんのそち)であった藤原隆家(ふじわらのたかいえ)は、各地の地方武士を率いて奮戦し、わずか十数日間で刀伊を撃退しました。記録上、我が国の領土に上陸した敵軍を倒した初めての出来事であったこの戦いは、後に「刀伊の入寇(にゅうこう)」と呼ばれています。
さて、海賊による我が国への侵略を撃退した藤原隆家の勇敢な行為は、現代から見ても表彰ものですが、当時の朝廷は、隆家にどんな褒賞(ほうしょう)を与えたと皆さんは思われるでしょうか。
実は何も与えていないのです。それどころか、彼の行為を叱責(しっせき)すらしているのです。
その理由としては、刀伊の入寇が起こったことの朝廷への報告が遅れて、朝廷が侵略を知ったときには既に女真族が撃退された後だったから、という「手続上の問題」が挙げられていますが、そんな形式的な理由よりも、当時の朝廷による「鉄則」が背景にあったからでした。
では、その「鉄則」とは何でしょうか。カギを握るのは、我が国固有の文化である「和歌」です。
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「力の一つも入れずに天地の神々を動かし、目に見えないあの世の霊魂(れいこん)を感激させ、男女の仲を良くして、武人の心すら和(なご)やかにすることができるのが和歌なのです」。
要するに、和歌さえ詠(よ)んでいれば、それに潜(ひそ)む超自然的な存在によって、自分たちの思いどおりに世の中を動かすことができる、ということなのです。
当時の朝廷は、和歌によって我が国の「平安」を祈っていれば、その力によって我が国が平和になる、と本気で信じていた傾向がありました。その「鉄則」からすれば、藤原隆家が武力で海賊を撃退したことは「余計なこと」であり、だからこそ当時の朝廷は隆家に恩賞を与えなかったばかりか、彼を叱責すらしたのでした。
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あるいは、日本国憲法の「平和主義」を過信して、9条をいっさい改正することなく、ひたすら守り続けていれば、我が国がいつまでも平和であり続けると思い込んではいないでしょうか。
何事も起きなければ良いに越したことはありません。しかし、危機管理を普段から施(ほどこ)すとともに、私たちも「万が一」のことを普段からしっかりと意識しておかなければ、いざというときの災害や侵略を防ぐのが難しくなることは明らかです。
「刀伊の入寇」は、現代にも通じる我が国にとっての大きな教訓を与えているといえるでしょう。
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清盛は摂津(せっつ)の大輪田泊(おおわだのとまり、現在の神戸港の一部)を修築したり、音戸(おんど)の瀬戸(せと、現在の広島県呉市付近)の海峡を開いたりして、瀬戸内海の航路を整備して貿易を拡大しました。
貿易の主な輸出品は金や水銀、硫黄(いおう)などの鉱物や刀剣などの工芸品、あるいは木材などで、主な輸入品は宋銭(そうせん)や陶磁器、香料や薬品、書籍などでした。宋銭は我が国の通貨として流通し、貿易で得た莫大(ばくだい)な利益は、そのまま平氏の貴重な財源となりました。
こうして政治的・経済的に磐石(ばんじゃく)の体制を築いた平氏政権でしたが、やがては源氏によって滅ぼされ、さらには北条氏(ほうじょうし)が幕府の執権(しっけん)となって政治を行った鎌倉時代に、我が国は未曾有(みぞう)の危機を迎えることになるのです。
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