推古天皇の崩御を受け、後継を誰にするかで朝廷内での意見が分かれましたが、結局は豪族の蘇我蝦夷(そがのえみし)が推す田村皇子(たむらのみこ)が、舒明(じょめい)天皇として即位されました。
舒明天皇の時代の大きな出来事といえば、初めて遣唐使(けんとうし)が送られたことが挙げられます。久しぶりに中華大陸の統一を果たした隋(ずい)でしたが、無謀な外征や内政の混乱もあって、建国後わずか30年足らずで滅亡しました。そして618年に李淵(りえん)が隋にかわって大陸を統一し、唐(とう)を建国しました。
我が国は、隋と同じように唐に対しても文化の交流をはかるべく、630年に犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)らを遣唐使として送りました。ただし、大陸文化の吸収のために朝貢(ちょうこう)はしても、冊封(さくほう)されない国、すなわち「不臣(ふしん)の朝貢国」という立場を維持し続けました。
なお、遣唐使はその後も続けられましたが、大陸や朝鮮半島における情勢の大きな変化に伴い、一時期中断しています。なぜそのような事態となってしまったのでしょうか。
※下記の映像は8月12日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
こうなると困ったのは新羅です。高句麗と百済の両方から攻められたうえに、我が国の支援も得られず、追いつめられた新羅は、起死回生の策として、唐との軍事同盟を選択しましたが、これは、ある意味非常に危険な賭けでした。
新羅が唐と同盟を結べば、間に挟まれた高句麗や百済と戦いやすくはなりますが、問題はその後です。高句麗や百済が滅んだ後は、唐と新羅の両国が残されます。ということは、唐は新羅のみを相手に、じっくりと時間をかけて滅ぼすことが可能となるわけです。
その後の展開が読めていた唐は、新羅からの誘いを喜んで受けました。唐から見て、遠く(=新羅)の相手と結んで、近く(=高句麗・百済)の敵を倒す、という政策のことを「遠交近攻」といいます。
一方、新羅にしてみれば、将来の不安よりも、「今そこにある危機」の打開のためには、やむを得ない選択でした。そして新羅は、唐の信頼を得るために、常識では考えられない政策を始めるのです。
※下記の映像は8月12日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
つまり、民族の風俗や服装、官制や年号だけでなく、名前のあり方(名字を漢字一文字に変えました)に至るまで、すべてをチャイナ風に改めたのです。
百済の有名な将軍である鬼室福信(きしつ・ふくしん)がそうであったように、それまでの新羅を含む朝鮮半島の人々の名字は、我が国の姓(かばね)である「中臣(なかとみ)」「物部(もののべ)」などと同じく「二文字」が基本でした。
しかし、これ以降の新羅では、当時の武烈王(ぶれつおう)が本名を「金春秋(きん・しゅんじゅう)」と名乗るなど、名字を漢字一文字に統一し、これは現代でも「金正恩(キム・ジョンウン)」あるいは「文在寅(ムン・ジェイン)」のように、全く変わっていません。
この後、新羅は唐を追い出して統一国家を創立することに成功しますが、文化的には完全にチャイナに背骨をつくり変えられてしまっており、この点が、公地公民といった律令制をチャイナからほぼ完全なかたちで輸入しても、日本文明の基本を一切変えなかった我が国との非常に大きな違いといえるでしょう。
※下記の映像は8月12日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
こうして唐と同盟を結んだ新羅は、やがて反撃に転じました。660年には唐と共同で百済を攻め、首都を落とされた百済は滅亡してしまいました。
百済の遺臣たちの多くは、かねてから同盟を結んでいた我が国に逃れ、百済の復興を訴えました。彼らに同意した朝廷は、翌年の661年に斉明(さいめい)天皇ご自身が先頭となって軍勢を率いて、百済救済のために九州へ向けて出発しました。
しかし、斉明天皇は九州から動けぬまま、病のためにその年の夏に68歳で崩御されました。斉明天皇の崩御後は、子である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が即位しないままで政治を行いました。これを「称制(しょうせい)」といいます。
※下記の映像は8月12日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
白村江の戦いの敗北によって、百済の王族以下多くの人々が我が国に亡命し、その後帰化しました。我が国は唐や新羅の報復を恐れて、国境沿いの対馬(つしま)や壱岐(いき)、筑紫(つくし)に当時の兵士にあたる防人(さきもり)を置いたり、九州北部の行政機関であった大宰府(だざいふ)に大規模な水城(みずき=大宰府を守るための堀や土塁のこと)を築いたりしました。
なお、水城は今もその多くが残存しており、現地(福岡県太宰府市)に行けば当時の様子が容易に分かります。
さて、朝鮮半島では668年に高句麗が滅ぼされた後、ついに唐と新羅とが国境を接して争う事態となりました。我が国にも緊張感が高まりましたが、結局は唐や新羅が我が国に攻め寄せることはなく、逆に新羅が我が国の後ろ盾を求めて、唐へ朝貢すると同時に、我が国へも朝貢するようになりました。
※下記の映像は8月12日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
その後、旧高句麗領の北部を中心に渤海(ぼっかい)が建国されたり、唐自体の内乱もあったりして、兵を集中できなくなった唐は、朝鮮半島の支配をあきらめ、やがては新羅の存在を認めたのでした。
長いあいだ勢力争いが続いた朝鮮半島は、結局は新羅による統一で幕を下ろしました。我が国は任那(みまな)や百済の問題などで、新羅とはかねてより敵対関係にありましたが、状況が変化すると、新羅は手のひらをかえして、我が国に朝貢するなど後ろ盾として頼るようになり、また我が国も新羅を防波堤とすることで、唐の侵略を受けるのを防ぐことができました。
要するに、新羅は自国の生き残りのために唐と同盟を結び、唐と共に我が国と戦って勝利するや、今度は唐を裏切って我が国に朝貢して接近するという、いわゆる「二枚舌外交」を貫き通したのです。新羅によるこうした姿勢こそが、現在の朝鮮半島の情勢を、本当の意味で理解する流れにもつながるといえるのではないでしょうか。
なお、渤海は唐や新羅と対立することが多く、支援を求めて我が国とは友好的な関係が結ばれ、日本海では交易が活発に行われました。いわゆる「敵の敵は味方」ですね。
※下記の映像は8月12日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
我が国が原則どおりに行動できた背景の一つに、新羅との友好関係の構築が挙げられます。百済との関係が深かった我が国にとって、それまでの外交姿勢を180度転換させるような政策は、そう簡単にできるものではありませんでした。
しかし、実際に7世紀後半には遣唐使が行われないかわりに、遣新羅使(けんしらぎし)が短期間に何度も行われているのです。我が国がそこまでの政策転換ができた理由は何だったのでしょうか。
その背景には、白村江の戦いの後の外交路線を、「反新羅」でいくのか、あるいは「親新羅」でいくのかで対立した、「兄弟」による骨肉の争いがあったのです。
※下記の映像は8月12日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
同じ年に、新羅の僧である道行(どうぎょう)が、三種の神器(=天皇であることを証明する大事な神器のこと)の一つである「草薙(くさなぎ)の剣」を盗むという事件が起きたのです。道行は新羅まで逃げようとしましたが、途中で嵐にあって失敗に終わりました。
この事件は、新羅が天智天皇のご即位を妨害しようとした事実の一つとされています。天智天皇はかつて百済再興をめざして白村江の戦いを起こされました。ということは、天智天皇が、百済を滅ぼした新羅に対して良い感情をお持ちでないことは明らかだったのです。
当時、天智天皇には後継者として二人の人物がいました。息子である大友皇子(おおとものおうじ)と、弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)です。このうち、大友皇子は父同様に「反新羅」の外交路線を継承する考えだったようですが、大海人皇子は「親新羅」路線への転換を考えていました。
※下記の映像は8月12日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
しかし、こうした「現実的」な考えは、「新羅憎し」の感情を優先させる天智天皇や大友皇子には受けいれられず、両者はいつしか対立するようになりました。そして671年10月、天智天皇は大海人皇子を宮廷内に呼びつけられると、「天皇の地位を譲る」と仰られました。
「これは罠(わな)だ」と直感した大海人皇子はこの誘いを断り、直ちに出家して吉野へ向かい、政治的野心のないことをアピールしました。
天智天皇は、同じ年の12月に46歳で崩御されました。天皇の崩御は、単なる後継争いのみならず、我が国の今後の外交路線も含めた大きな流れの中で、避けることの出来ない波乱の予感を漂(ただよ)わせていました。
※下記の映像は8月12日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
東国の兵士を味方に付けた大海人皇子は、近江や大和へ向かって軍を進めました。近江朝廷側も善戦しましたが、結局は敗北し、大友皇子は自殺しました。大海人皇子が大友皇子を破ったこの戦いを、当時の十干十二支(じっかんじゅうにし)から「壬申(じんしん)の乱」といいます。
乱の後、大海人皇子は都を飛鳥に戻して、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位され、天武(てんむ)天皇となられると、新羅との国交を回復させ、遣新羅使を何度も派遣される一方で、唐との国交を一時的に断絶されました。
この結果、我が国は新羅という独立国家をはさんで、唐との外交関係修復に時間を費やすことができたのです。なお、遣唐使の復活は8世紀当初まで待つことになります。
※下記の映像は8月12日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
チャイナや朝鮮半島などの国々が、王朝が変わるごとに国名が変わってきたことと比較すると、それが特別のことであるのが理解できますね。
我が国の国名が長い年月のあいだ変わっていないのは、チャイナや朝鮮半島などのように王朝が変わって国が途絶えたり、あるいは他の民族にとってかわられたりすることがなかったからです。
「我が国は世界でもっとも長い歴史を持つ国である」。この事実を、現代の日本国民たる私たちがもっと意識すべきではないでしょうか。
※下記の映像は8月12日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。