推古天皇の崩御を受け、後継を誰にするかで朝廷内での意見が分かれましたが、結局は豪族の蘇我蝦夷(そがのえみし)が推す田村皇子(たむらのみこ)が、舒明(じょめい)天皇として即位されました。
舒明天皇の時代の大きな出来事といえば、初めて遣唐使(けんとうし)が送られたことが挙げられます。久しぶりに中華大陸の統一を果たした隋(ずい)でしたが、無謀な外征や内政の混乱もあって、建国後わずか30年足らずで滅亡しました。そして618年に李淵(りえん)が隋にかわって大陸を統一し、唐(とう)を建国しました。
我が国は、隋と同じように唐に対しても文化の交流をはかるべく、630年に犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)らを遣唐使として送りました。ただし、大陸文化の吸収のために朝貢(ちょうこう)はしても、冊封(さくほう)されない国、すなわち「不臣(ふしん)の朝貢国」という立場を維持し続けました。
なお、遣唐使はその後も続けられましたが、大陸や朝鮮半島における情勢の大きな変化に伴い、一時期中断しています。なぜそのような事態となってしまったのでしょうか。
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こうなると困ったのは新羅です。高句麗と百済の両方から攻められたうえに、我が国の支援も得られず、追いつめられた新羅は、起死回生の策として、唐との軍事同盟を選択しましたが、これは、ある意味非常に危険な賭けでした。
新羅が唐と同盟を結べば、間に挟まれた高句麗や百済と戦いやすくはなりますが、問題はその後です。高句麗や百済が滅んだ後は、唐と新羅の両国が残されます。ということは、唐は新羅のみを相手に、じっくりと時間をかけて滅ぼすことが可能となるわけです。
その後の展開が読めていた唐は、新羅からの誘いを喜んで受けました。唐から見て、遠く(=新羅)の相手と結んで、近く(=高句麗・百済)の敵を倒す、という政策のことを「遠交近攻」といいます。
一方、新羅にしてみれば、将来の不安よりも、「今そこにある危機」の打開のためには、やむを得ない選択でした。そして新羅は、唐の信頼を得るために、常識では考えられない政策を始めるのです。
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つまり、民族の風俗や服装、官制や年号だけでなく、名前のあり方(名字を漢字一文字に変えました)に至るまで、すべてをチャイナ風に改めたのです。
百済の有名な将軍である鬼室福信(きしつ・ふくしん)がそうであったように、それまでの新羅を含む朝鮮半島の人々の名字は、我が国の姓(かばね)である「中臣(なかとみ)」「物部(もののべ)」などと同じく「二文字」が基本でした。
しかし、これ以降の新羅では、当時の武烈王(ぶれつおう)が本名を「金春秋(きん・しゅんじゅう)」と名乗るなど、名字を漢字一文字に統一し、これは現代でも「金正恩(キム・ジョンウン)」あるいは「文在寅(ムン・ジェイン)」のように、全く変わっていません。
この後、新羅は唐を追い出して統一国家を創立することに成功しますが、文化的には完全にチャイナに背骨をつくり変えられてしまっており、この点が、公地公民といった律令制をチャイナからほぼ完全なかたちで輸入しても、日本文明の基本を一切変えなかった我が国との非常に大きな違いといえるでしょう。
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こうして唐と同盟を結んだ新羅は、やがて反撃に転じました。660年には唐と共同で百済を攻め、首都を落とされた百済は滅亡してしまいました。
百済の遺臣たちの多くは、かねてから同盟を結んでいた我が国に逃れ、百済の復興を訴えました。彼らに同意した朝廷は、翌年の661年に斉明(さいめい)天皇ご自身が先頭となって軍勢を率いて、百済救済のために九州へ向けて出発しました。
しかし、斉明天皇は九州から動けぬまま、病のためにその年の夏に68歳で崩御されました。斉明天皇の崩御後は、子である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が即位しないままで政治を行いました。これを「称制(しょうせい)」といいます。
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白村江の戦いの敗北によって、百済の王族以下多くの人々が我が国に亡命し、その後帰化しました。我が国は唐や新羅の報復を恐れて、国境沿いの対馬(つしま)や壱岐(いき)、筑紫(つくし)に当時の兵士にあたる防人(さきもり)を置いたり、九州北部の行政機関であった大宰府(だざいふ)に大規模な水城(みずき=大宰府を守るための堀や土塁のこと)を築いたりしました。
なお、水城は今もその多くが残存しており、現地(福岡県太宰府市)に行けば当時の様子が容易に分かります。
さて、朝鮮半島では668年に高句麗が滅ぼされた後、ついに唐と新羅とが国境を接して争う事態となりました。我が国にも緊張感が高まりましたが、結局は唐や新羅が我が国に攻め寄せることはなく、逆に新羅が我が国の後ろ盾を求めて、唐へ朝貢すると同時に、我が国へも朝貢するようになりました。
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その後、旧高句麗領の北部を中心に渤海(ぼっかい)が建国されたり、唐自体の内乱もあったりして、兵を集中できなくなった唐は、朝鮮半島の支配をあきらめ、やがては新羅の存在を認めたのでした。
長いあいだ勢力争いが続いた朝鮮半島は、結局は新羅による統一で幕を下ろしました。我が国は任那(みまな)や百済の問題などで、新羅とはかねてより敵対関係にありましたが、状況が変化すると、新羅は手のひらをかえして、我が国に朝貢するなど後ろ盾として頼るようになり、また我が国も新羅を防波堤とすることで、唐の侵略を受けるのを防ぐことができました。
要するに、新羅は自国の生き残りのために唐と同盟を結び、唐と共に我が国と戦って勝利するや、今度は唐を裏切って我が国に朝貢して接近するという、いわゆる「二枚舌外交」を貫き通したのです。新羅によるこうした姿勢こそが、現在の朝鮮半島の情勢を、本当の意味で理解する流れにもつながるといえるのではないでしょうか。
なお、渤海は唐や新羅と対立することが多く、支援を求めて我が国とは友好的な関係が結ばれ、日本海では交易が活発に行われました。いわゆる「敵の敵は味方」ですね。
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我が国が原則どおりに行動できた背景の一つに、新羅との友好関係の構築が挙げられます。百済との関係が深かった我が国にとって、それまでの外交姿勢を180度転換させるような政策は、そう簡単にできるものではありませんでした。
しかし、実際に7世紀後半には遣唐使が行われないかわりに、遣新羅使(けんしらぎし)が短期間に何度も行われているのです。我が国がそこまでの政策転換ができた理由は何だったのでしょうか。
その背景には、白村江の戦いの後の外交路線を、「反新羅」でいくのか、あるいは「親新羅」でいくのかで対立した、「兄弟」による骨肉の争いがあったのです。
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同じ年に、新羅の僧である道行(どうぎょう)が、三種の神器(=天皇であることを証明する大事な神器のこと)の一つである「草薙(くさなぎ)の剣」を盗むという事件が起きたのです。道行は新羅まで逃げようとしましたが、途中で嵐にあって失敗に終わりました。
この事件は、新羅が天智天皇のご即位を妨害しようとした事実の一つとされています。天智天皇はかつて百済再興をめざして白村江の戦いを起こされました。ということは、天智天皇が、百済を滅ぼした新羅に対して良い感情をお持ちでないことは明らかだったのです。
当時、天智天皇には後継者として二人の人物がいました。息子である大友皇子(おおとものおうじ)と、弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)です。このうち、大友皇子は父同様に「反新羅」の外交路線を継承する考えだったようですが、大海人皇子は「親新羅」路線への転換を考えていました。
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しかし、こうした「現実的」な考えは、「新羅憎し」の感情を優先させる天智天皇や大友皇子には受けいれられず、両者はいつしか対立するようになりました。そして671年10月、天智天皇は大海人皇子を宮廷内に呼びつけられると、「天皇の地位を譲る」と仰られました。
「これは罠(わな)だ」と直感した大海人皇子はこの誘いを断り、直ちに出家して吉野へ向かい、政治的野心のないことをアピールしました。
天智天皇は、同じ年の12月に46歳で崩御されました。天皇の崩御は、単なる後継争いのみならず、我が国の今後の外交路線も含めた大きな流れの中で、避けることの出来ない波乱の予感を漂(ただよ)わせていました。
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東国の兵士を味方に付けた大海人皇子は、近江や大和へ向かって軍を進めました。近江朝廷側も善戦しましたが、結局は敗北し、大友皇子は自殺しました。大海人皇子が大友皇子を破ったこの戦いを、当時の十干十二支(じっかんじゅうにし)から「壬申(じんしん)の乱」といいます。
乱の後、大海人皇子は都を飛鳥に戻して、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位され、天武(てんむ)天皇となられると、新羅との国交を回復させ、遣新羅使を何度も派遣される一方で、唐との国交を一時的に断絶されました。
この結果、我が国は新羅という独立国家をはさんで、唐との外交関係修復に時間を費やすことができたのです。なお、遣唐使の復活は8世紀当初まで待つことになります。
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チャイナや朝鮮半島などの国々が、王朝が変わるごとに国名が変わってきたことと比較すると、それが特別のことであるのが理解できますね。
我が国の国名が長い年月のあいだ変わっていないのは、チャイナや朝鮮半島などのように王朝が変わって国が途絶えたり、あるいは他の民族にとってかわられたりすることがなかったからです。
「我が国は世界でもっとも長い歴史を持つ国である」。この事実を、現代の日本国民たる私たちがもっと意識すべきではないでしょうか。
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大陸の政治制度や文化を学ぶために、多くの留学生が唐へ渡りましたが、造船や航海技術が未熟であった当時は、遣唐使による航海は命がけであり、中には帰国できずに、そのまま唐で生涯を終えた留学生もいました。
717年に吉備真備(きびのまきび)らが入唐(にっとう)した際、彼らに同行していた阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は、唐の超難関の試験である科挙(かきょ)に合格し、後に唐の高い役職を歴任しました。詩人の李白(りはく)と親交を持ち、また唐の皇帝の玄宗(げんそう)の厚い信任を得ましたが、才能が高かったゆえに、皇帝がなかなか仲麻呂の帰国を許しませんでした。
やがて、遣唐大使(けんとうたいし)の藤原清河(ふじわらのきよかわ)らの要請によって、753年にようやく仲麻呂の帰国が許されましたが、清河らとともに彼を乗せた船が、無情にも暴風雨にあって難破し、安南(あんなん、今のベトナム)に漂着しました。命からがら長安まで戻った仲麻呂は、その後もついに帰国することなく、770年に唐で73歳の生涯を閉じました。
そんな彼が残した望郷の和歌は、小倉百人一首にも取り上げられ、長く我が国で知られています。
「天(あま)の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠(みかさ)の山に いでし月かも」
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仏教を学ぶ際に重要であった戒律(かいりつ)を日本に広めるために、我が国の留学僧が鑑真を訪問しました。鑑真は弟子たちに「誰か日本に渡る人はいないか」と問いかけましたが、誰も手を挙げようとしないので、「それなら私自身が行く」と自らの渡日(とにち)を決意しました。
しかし、鑑真のような高僧が日本へ渡るということは、大変な苦難を伴いました。弟子たちの密告などによってことごとく失敗し、ようやく船に乗ったと思ったら、嵐にあって難破してしまいました。5度にわたる渡日に失敗するうちに、鑑真の両目は失明状態になったと伝えられています。
752年に遣唐大使の藤原清河らが来唐し、翌年に帰国する際に、鑑真は船に同乗させてくれるよう依頼しましたが、渡日を許さない玄宗皇帝の意を受けた藤原清河は、これを拒否しました。
しかし、副使の大伴古麻呂(おおとものこまろ)の機転で、密かに別の船に乗ることができた鑑真は、清河と阿倍仲麻呂を乗せた船が難破した一方で、無事に我が国にたどり着き、ついに悲願の渡日を果たしました。
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ちなみに、彼の死後に造られた彫像(ちょうぞう)は、我が国最初の肖像彫刻(しょうぞうちょうこく)とされています。
余談ですが、大伴古麻呂は唐における753年の新年の儀式の際に、我が国の席次が新羅(しらぎ)より下になっていることに対して猛烈に抗議し、結果的に席次を入れ替えさせたというエピソードが残っています。
席次の件といい、また鑑真を密かに渡日させたことといい、気骨(きこつ)ある人物でなければ外交官は務まらないのは、今も昔も同じなのかもしれませんね。
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その背景には、いつまでも大陸からの文明に頼らなくても、独立国として自力の文化を発展させることができるという強い自負もありました。そして先述のとおり、894年に菅原道真が遣唐使の中止を進言して認められた直後の907年に、唐がついに滅亡しました。
唐の滅亡後は、五代十国(ごだいじっこく)による諸王朝の興亡が続いた後に、960年に宋(そう)が建国されました。既に独自の文化が発展しつつあり、大陸からの積極的な文化の交流の必要性がなかった我が国は、臣下の礼をとらなければならない朝貢外交を嫌って、宋とは正式な国交を結びませんでした。
我が国では商船が宋へ渡航することも禁じましたが、その一方で北九州に来航した宋の商人が私的な貿易を行ったことにより、書籍や陶磁器(とうじき)などの工芸品や薬品などが輸入されました。また、我が国の僧侶(そうりょ)が新たな教えを求めるために朝廷の許可を得て宋に渡ることも珍しくありませんでした。
なお、この時代の宋は、12世紀に一旦滅亡した後に再興されましたので、後代(こうだい)と区別するために「北宋(ほくそう)」とも呼ばれています。
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また、朝鮮半島では新羅(しらぎ)が9世紀末に衰えて分裂した後に、10世紀始めに建国された高麗(こうらい)によって滅ぼされました。高麗は後に朝鮮半島を統一しましたが、我が国は高麗とも正式な国交を結ぼうとはしませんでした。
我が国と隣国との正式な外交関係は、こうして10世紀のあいだにぷっつりと途切れました。その背景には、後に「国風(こくふう)文化」と呼ばれた我が国独自の文化が発展し、諸外国からの文化の交流を必要としなくなるほどに隆盛を極めたという事実が確かにありました。
しかし、いかに我が国が海で囲まれているからとはいえ、諸外国と正式な国交を結ばなかったうえに、軍隊すら持っていなかったという現実は、あまりにも無防備でしかありませんでした。
では、後述する「元寇(げんこう)」のように、この時代に我が国が諸外国の軍勢や海賊などに襲われたことはなかったのでしょうか。
実はあったのです。
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この非常事態に、当時の大宰権帥(だざいごんのそち)であった藤原隆家(ふじわらのたかいえ)は、各地の地方武士を率いて奮戦し、わずか十数日間で刀伊を撃退しました。記録上、我が国の領土に上陸した敵軍を倒した初めての出来事であったこの戦いは、後に「刀伊の入寇(にゅうこう)」と呼ばれています。
さて、海賊による我が国への侵略を撃退した藤原隆家の勇敢な行為は、現代から見ても表彰ものですが、当時の朝廷は、隆家にどんな褒賞(ほうしょう)を与えたと皆さんは思われるでしょうか。
実は何も与えていないのです。それどころか、彼の行為を叱責(しっせき)すらしているのです。
その理由としては、刀伊の入寇が起こったことの朝廷への報告が遅れて、朝廷が侵略を知ったときには既に女真族が撃退された後だったから、という「手続上の問題」が挙げられていますが、そんな形式的な理由よりも、当時の朝廷による「鉄則」が背景にあったからでした。
では、その「鉄則」とは何でしょうか。カギを握るのは、我が国固有の文化である「和歌」です。
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「力の一つも入れずに天地の神々を動かし、目に見えないあの世の霊魂(れいこん)を感激させ、男女の仲を良くして、武人の心すら和(なご)やかにすることができるのが和歌なのです」。
要するに、和歌さえ詠(よ)んでいれば、それに潜(ひそ)む超自然的な存在によって、自分たちの思いどおりに世の中を動かすことができる、ということなのです。
当時の朝廷は、和歌によって我が国の「平安」を祈っていれば、その力によって我が国が平和になる、と本気で信じていた傾向がありました。その「鉄則」からすれば、藤原隆家が武力で海賊を撃退したことは「余計なこと」であり、だからこそ当時の朝廷は隆家に恩賞を与えなかったばかりか、彼を叱責すらしたのでした。
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あるいは、日本国憲法の「平和主義」を過信して、9条をいっさい改正することなく、ひたすら守り続けていれば、我が国がいつまでも平和であり続けると思い込んではいないでしょうか。
何事も起きなければ良いに越したことはありません。しかし、危機管理を普段から施(ほどこ)すとともに、私たちも「万が一」のことを普段からしっかりと意識しておかなければ、いざというときの災害や侵略を防ぐのが難しくなることは明らかです。
「刀伊の入寇」は、現代にも通じる我が国にとっての大きな教訓を与えているといえるでしょう。
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清盛は摂津(せっつ)の大輪田泊(おおわだのとまり、現在の神戸港の一部)を修築したり、音戸(おんど)の瀬戸(せと、現在の広島県呉市付近)の海峡を開いたりして、瀬戸内海の航路を整備して貿易を拡大しました。
貿易の主な輸出品は金や水銀、硫黄(いおう)などの鉱物や刀剣などの工芸品、あるいは木材などで、主な輸入品は宋銭(そうせん)や陶磁器、香料や薬品、書籍などでした。宋銭は我が国の通貨として流通し、貿易で得た莫大(ばくだい)な利益は、そのまま平氏の貴重な財源となりました。
こうして政治的・経済的に磐石(ばんじゃく)の体制を築いた平氏政権でしたが、やがては源氏によって滅ぼされ、さらには北条氏(ほうじょうし)が幕府の執権(しっけん)となって政治を行った鎌倉時代に、我が国は未曾有(みぞう)の危機を迎えることになるのです。
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13世紀の世界は激動の時代でした。モンゴル高原にあらわれたチンギス=ハーンや彼の後継者によって、アジアから東ヨーロッパにまたがる大帝国が誕生したからです。さらにはチンギス=ハーンの孫のフビライ=ハーンによって、中華大陸や朝鮮半島まで支配され、国号を「元」に改めたフビライは、ついに我が国に服属を求めてきました。
しかし、若き権力者であった鎌倉幕府8代執権の北条時宗(ほうじょうときむね)が、これらの圧力に一切屈せず、元との2度にわたる戦いを制し、神代から続く我が国を守り抜いたのです。
北条時宗がここまで戦う意思をあらわにしたのはなぜでしょうか。また、大帝国たる元軍の日の出の勢いを、なぜ当時の我が国がはね返すことができたのでしょうか。
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