紙幣が大量に流通するということは、紙幣の価値そのものを著(いちじる)しく下げるとともに、相対的に物価の値上がりを招いたため、激しいインフレーションをもたらしました。
物価の上昇は国民生活に深刻な影響をもたらしただけでなく、定額の地租(ちそ)の金納に頼っていた当時の政府の歳入が実質的に減少してしまうという結果にもつながりました。
こうした国家財政の危機に対して、政府の大蔵卿(おおくらきょう)となった松方正義(まつかたまさよし)は、政府の歳入を増やしながら、同時に歳出を抑えることによって財政危機から脱出する政策に取り組みました。
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また、余った歳入によって不換紙幣の処分を進め、市場における紙幣の価値を少しずつ高めたことによって、明治18(1885)年には銀との交換、つまり兌換(だかん)が可能な兌換銀行券が発行され、銀本位制の貨幣制度が確立しました。
松方正義による緊縮財政は「松方財政」とも呼ばれ、西南の役の後の政府の財政危機を立て直しただけでなく、発行紙幣と銀貨との兌換を可能とした銀本位制を確立したことで、当時の政府の世界における信用度を高めることにもつながるなどの大きな成果をもたらしました。
しかし、政府による歳出を抑えた厳しい緊縮政策は、市場における紙幣の流出が減少したことで物価が下落してデフレーションをもたらしたほか、増税による負担増もあって全国的な不況となってしまいました。松方財政が原因ともいえるこれらの経済不況は、結果としてそれまで熱を帯びていた自由民権運動にも重大な影響をもたらすことになってしまいました。
なぜなら、自由民権運動の支持者であった地主や農民が全国的な不況による経営難から脱落する者が多くなり、資金面で大きな影響を与えたからです。
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板垣らの外遊については、政府が政商の三井を通じて資金援助していましたが、これについては自由党の内部からも批判の声が多く、また政府の資金援助を受けたことに対して立憲改進党が自由党を攻撃すると、逆に自由党が立憲改進党と政商の三菱との密接な関係を攻撃するなど、自由民権運動の指導部が混乱状態になってしまいました。
行きづまりを見せた自由民権運動に対して、追いつめられた熱心な運動家の中には急進的な考えから直接行動に訴える者も現われました。いわゆる「激化事件」の始まりです。
明治15(1882)年、福島県令の三島通庸(みしまみちつね)が県の道路建設を目的として地元農民に労役を強制させようとすると、自由党員で県会議長だった河野広中(こうのひろなか)らが反対運動を展開しました。
これらの動きを自由党弾圧の好機と見た三島は、河野をはじめ多数の自由党員を検挙しました。これを福島事件といいます。なお、事件のきっかけとなった県道はその後に完成し、現在でも国道の一部として使用されています。
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連続する激化事件の発生や運動資金の不足によって、党の運営に自信を無くした自由党の指導部は、明治17(1884)年10月末に党を解散しました。また、立憲改進党も同年末に大隈重信が離党したことで事実上の解散となってしまいました。
政党の解散(事実上も含む)によって指導者層を失った自由民権運動でしたが、激化事件はむしろ活発化して、自由党解散直後の明治17(1884)年10月には、埼玉の秩父(ちちぶ)で不況に苦しむ農民を中心に結成された困民党(こんみんとう)が負債の減免を求めて蜂起(ほうき)するという秩父事件が起きてしまい、政府は軍隊を使ってようやく鎮圧しました。
さらに翌明治18(1885)年には大阪事件も起きるなど、激化事件の発生と弾圧の連続によって自由民権運動は次第に衰退しましたが、国会開設の勅諭に基づいた国会の開設時期である明治23(1890)年が近づくと、再び盛り上がりを見せるようになりました。
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また、同年に外務大臣の井上馨(いのうえかおる)による条約改正交渉が失敗すると、片岡健吉が元老院に提出した建白書をきっかけに三大事件建白運動が起きました。
三大事件とは集会や言論の自由・地租の軽減・外交における失策の回復(=条約改正)であり、二つの運動によって自由民権運動は再び熱を帯びてきました。
しかし、かつての激化事件の再来を恐れた政府は、同年末に保安条例を公布し、片岡健吉らを即日東京から追放して、三大事件建白運動を鎮静化させました。
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ここまで述べてきましたように、自由民権運動は決して単なる「反体制運動」だったのではなく、政府側と民権派側とが立場上は激しく争いながらも、結果的に両者が手を携(たずさ)えることによって我が国が憲法制定と議会政治を行う「立憲国家」として世界中に認められるまでに成長できた、ともいえるのです。
では、立憲国家として確立するための必須条件であった「大日本帝国憲法(=明治憲法)」を、現代の私たちはどう評価すればよいのでしょうか。
この件については、第2回黒田裕樹の公民授業「明治憲法と日本国憲法」で詳しく紹介しておりますので、ぜひご覧ください。
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