一人ひとりは決して強くない兵力であっても、西洋の近代的な軍備と訓練によって鍛え上げたり、また人員や兵糧・武器弾薬などの補給をしっかりと行ったりすることで、士族の軍隊にも打ち勝つことが出来たのです。
逆に政府軍に敗れた士族たちは、自分たちが持つ武力では政府を倒せないことを嫌でも思い知らされる結果となり、西南の役の後、士族たちは反乱をあきらめるかわりに、言論の世界で政府に対抗するようになりました。
すなわち、我が国で自由民権運動が本格化する大きな理由となったのです。
一方、西南の役が終結した翌年の明治11(1878)年、政府は地方自治制度の整備のために郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則のいわゆる「地方三新法」を制定し、これらによって翌明治12(1879)年には府県会が全国で行われるなど、不完全ながらも地方政治が実現したことによって、自由民権運動は都市から地方の農村にも広がるようになりました。
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地方を含めた全国で自由民権運動が広がりを見せるなか、西南の役の最中の明治10(1877)年に、片岡健吉(かたおかけんきち)らが政府の太政大臣である三条実美(さんじょうさねとみ)に立志社建白(りっししゃけんぱく)を提出しましたが、却下されました。
翌明治11(1878)年には、各地の民権派が大阪に集まって、活動を休止していた「愛国社(あいこくしゃ)」を再興し、明治13(1880)年3月に行われた愛国社の第4回大会で「国会期成同盟」が結成され、運動目標の中心を国会の開設要求としました。
ちなみに、国会期成同盟が結成された際の会場は、何と現在の太融寺(たいゆうじ)です。自由民権運動が広がりを見せる節目において、またしても大阪が重要な役割を果たしたことになりますね。
なお、これらの動きに対し、自由民権運動の激化によって国内の治安が乱れるのを恐れた政府は、同年4月に「集会条例」を制定して、民権派の動きを抑えようとしました。
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黒田は、同じ薩摩出身の政商である五代友厚に安くて有利な条件で官有物を払い下げしようとしましたが、明治14(1881)年7月にその内容が新聞にすっぱ抜かれると、政府に対する非難の声が一斉に挙がりました。これを「開拓使官有物払下げ事件」といいます。
事件に乗じて、民権派は藩閥政府への攻撃と国会開設の早期実現を声高に主張しましたが、政府は、民権派によるこうした水際立った動きの裏には「何かがある」と察知しました。
やがて、民権派の背後に当時急進的な議会政治の実現を目指していた大隈重信(おおくましげのぶ)の策謀(さくぼう)があると判断した政府は、同年10月に大隈を罷免(ひめん)するとともに、民権派の動きを抑える意味も込めて「国会開設の勅諭(ちょくゆ)」を発表し、約10年後の明治23(1890)年に国会を開設することを公約しました。
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ところで、先の「讒謗律(ざんぼうりつ)」や「新聞紙条例」、あるいは「集会条例」などが政府から出されたという事実を考慮すれば、政府が自由民権運動を弾圧しようという意図を持っていたのは明白だ、という意見が出てくるかもしれません。
しかし、西南の役が終わってからの政府の動きを見れば、地方三新法の制定から府県会を実現させ、また「明治十四年の政変」がその原因とはいえ、国会開設の勅諭を発表して、国会を開設することを公約するなど、憲法制定や議会政治の実現に向けて着実に前進していることが分かります。
さらには、後に明治22(1889)年に「大日本帝国憲法(=明治憲法)」が発布され、翌明治23(1890)年には第一回の「帝国議会」が開催されているのですから、明治政府の計画力や実行力の高さには驚くばかりです。
こうした事実からすれば、明治政府が「自由民権運動に押されて仕方なく憲法制定や議会政治を目指した」わけではなかったのは、明らかではないでしょうか。
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つまり、政府からすれば、自分だけでは困難な道のりが予想された立憲国家の樹立や議会政治の実現を、わざわざ民権派の方から自主的にアシストしてくれたわけですから、建前はともかく、自由民権運動は政府にとって、心の底では「願ったり叶ったり」の流れだったのではないでしょうか。
もっとも、政府と民権派とが「立憲国家の樹立と議会政治の実現」という共通の目標を持っていたとしても、政府主導による「上からの改革」と、自由民権運動が目指す「下からの改革」といった手法の違いは当然のように存在していました。
当時の政府には、列強による植民地化を防ぎながらあらゆる分野において近代化を進めなければならないという厳しい情勢のなかでは、政府主体の強い権限で何事も実行しなければならないという信念がありました。
それゆえに、急進的に近代化を進めようとする自由民権運動とはしばしば対立関係となり、反体制運動に対する政府の厳しい取り締まりも当然であったともいえるのです。
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国会開設の勅諭が出された直後の同じ明治14(1881)年10月、国会期成同盟を母体として板垣退助が党首となった自由党が結成されました。
続いて翌明治15(1882)年4月には、大隈重信を党首とする立憲改進党(りっけんかいしんとう)が結成されました。
両党は、自由党がフランス流の急進的な自由主義を目標として士族や豪農などの支持を得たのに対し、立憲改進党はイギリス流の議院内閣制を目指して、都市部の知識人や実業家の支持を集めるという違いがありました。
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ただし、これらの私擬憲法のほとんどは後の大日本帝国憲法(=明治憲法)と同じ立憲君主制を基本としており、ここでも政府と民権派との考えに大きな差がないことが明らかとなっています。
こうして国会開設への具体的な動きを受けてさらなる発展を見せようとした自由民権運動でしたが、この後に思わぬかたちで大きな挫折(ざせつ)を経験することになりました。
挫折の主な原因となったのは、皮肉にも自由民権運動が本格化するきっかけをつくった「あの戦争」だったのです。
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