当時の我が国は欧米列強による侵略の危機に常にさらされており、一日も早い近代的な立憲国家としての脱皮が悲願であったわけですが、そんな折に民間側から「自由民権運動」が起きたということは、明治政府からすればむしろ「願ったり叶ったり」だったのではなかったでしょうか。
今回は、一般的な歴史教育では見出すことの難しい「自由民権運動の真実」に関して、様々な視点から探ってみたいと思います。
さて、自由民権運動についての評価を論ずるにあたり、まずは明治当初の国内ならびに国際情勢について振り返ってみましょう。
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当時(19世紀後半)のアジアは、帝国主義(政治や経済、軍事などの面で他国の犠牲において自国の利益や領土を拡大しようとする思想や政策のこと)を歩み続けた欧米列強による植民地化が進んだ、いわゆる「草刈り場」と化していました。
何しろ東アジアの超大国と思われていた清ですら、アヘン戦争の敗北などによって香港などの主要都市を列強の支配下に置くことを認めざるを得ないという厳しい状況だったのです。
そのような大変な時期に我が国の命運を託された明治新政府の責任感や重圧、加えて周囲が外敵だらけという心細さは、現代の私たちには想像もつかないほど大きかったのではないでしょうか。大きな危機感をもった明治政府は、欧米列強と肩を並べるためにも、一刻も早い近代国家の確立を目指さなければなりませんでした。
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ただし、西南の役自体はもちろん単純な「不平士族の反乱」だったのではなく、急進的な近代化にこだわるあまり、日本の伝統を粗末に扱おうとした当時の明治政府への日本精神からの異議申し立てという面も含まれていました。
ちなみに有名なハリウッド映画「ラストサムライ」は、このような面までアメリカが日本を研究し尽くしていることによって制作することができたともいえます。
さて、西南の役が政府側の勝利で終わると、その後は「士族の反乱そのものは治まったが、代わって議会の開設などを求める自由民権運動が活発化し、その圧力によって政府はしぶしぶ憲法制定に取りかかった」と従来の歴史教育では教えられていることが多いようですが、これは事実ではありません。
実は、明治政府は、その成立の段階から、将来の憲法制定に向けての布石を着実に打っていたのです。
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「政治をなすには広く会議を行い、公(おおやけ)の議論によって決めるべきである」という意味のこの御誓文は、新政府による強権的な政治ではなく、公の議論、つまり議会政治によって何事も決めるべきであるという強い決意を、天皇が神前にて誓われるという形式で示されたものです。
つまり、明治政府は当初から議会政治を前提にした政策を目指していたのです。また、同年に出された「政体書」においても、五箇条の御誓文を国家の基本方針と改めて規定し、近代憲法の基本方針である三権分立が規定されています。
加えて、岩倉具視(いわくらともみ)を団長とする使節団が欧米列強を訪問した際、我が国と諸外国との大きな差を痛感するとともに、従来の不平等条約を解消し、我が国が近代国家として列強と肩を並べるためには、憲法などの国の基本となる法律の制定が不可欠であることを思い知りました。
しかし、繰り返しますが、その頃の政府には「不平士族の反乱」への対策などの解決すべき問題が山積しており、憲法制定や議会開設に着手するどころではなかったのです。
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それでも、政府は翌年の明治8(1875)年4月に、明治天皇の名において「漸次(ぜんじ、「次第に、だんだん」という意味)立憲政体樹立の詔(みことのり、天皇の命令による文書のこと)」を出して、憲法制定に向けての意欲を示しています。つまり、政府は建白書を黙殺しなかったとともに、詔すなわち「天皇のお言葉」を発表することによって国民と約束をしていることになります。
なお、漸次立憲政体樹立の詔は、同年1月に大阪・北浜で開かれた、大久保利通(おおくぼとしみち)や木戸孝允(きどたかよし)、板垣退助らの会談である、いわゆる「大阪会議」が下敷きとなっています。
つまり、我が国における議会政治の歴史の重要な局面の一つに、大阪が関わっていることになりますね。なお、当初は意見がバラバラだった会議を最終的にまとめ上げたのが、仲介役であった五代友厚(ごだいともあつ)であったと伝えられています。
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我が国が列強の植民地化を防ぐとともに、不平等条約を改正するための目的の一つに、我が国が「立憲国家」、すなわち近代憲法を有して議会政治を行う国家となることがありました。しかし、封建社会の幕府政治から明治新政府に移行してからわずか数年しか経っていない現状では、近代憲法の制定はおろか、議会政治の実現など出来ようはずがありません。
さらに付け加えれば、憲法の制定に関しては、政府が主導となって実現することは決して不可能ではありませんし、実際に「大日本帝国憲法(=明治憲法)」の発布というかたちで達成されましたが、議会政治に至っては、議会側、すなわち国民の代表から選ばれる議員の存在が不可欠であると同時に、民間から議員を誕生させるだけの力量、あるいは民度の高さも要求されます。
従来の封建社会の延長線上ともいえる「藩閥(はんばつ)政治」が、当時の政府で幅を利かせていた真の理由も、実はここにあるのです。民間から議員を誕生させるだけの民度が国民に備わっていない以上、他にどんな手段があるというのでしょうか。
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なお、民撰議院設立の建白書については、これを提出した板垣らが、いわゆる「征韓論争」に敗れて下野(げや)するまでは、参議として政府内で活躍していたことから、当時の政府の基本的な政策を補うかたちで、要するに国家や政府の体制を強化する目的もあったとされています。
ところで、漸次立憲政体樹立の詔の発布は、議会政治の実現を目標とする民権派の期待を高めると同時に、漸進的(ぜんしんてき、「漸進」とはじっくり時間をかけること)な動きしか見せない政府に対する批判が激しくなり、新聞や雑誌において政府への活発な攻撃が見られるようになりました。
このため、政府は過激な政治的言論を取り締まる目的で、明治8(1875)年に「讒謗律(ざんぼうりつ)」や「新聞紙条例」などを公布しています。
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