また、私は「黒田裕樹の歴史講座」以外でも、全国各地の皆様のご要望にお応えするかたちで、様々な内容の講演を行ってきましたが、その中には、これまでの歴史講座で紹介してこなかった内容が含まれていることが少なくありません。
そうした講演については、第59回の「東條英機(とうじょうひでき)」のように、後の歴史講座に「格上げ」しているものもありますが、様々な内容の歴史講座を常に行っている関係で、なかなか本格的に紹介する機会に恵まれません。
しかし、時間がないからといってそのまま埋没させてしまうのは申し訳ないのもまた事実ですので、本格的な「歴史講座」を行うまでの暫定(ざんてい)として、レジュメのみの紹介を不定期に行っております。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
また、同じように私が講演のみを行っているものに「自由民権運動の真実」があります。一般的には運動が政府の弾圧を受けたという一報的な記述が目立ちますが、真実の姿は全く異なります。
「自由民権運動の真実」については、これだけでも一つの歴史講座として成立する内容ではありますが、現在は先述のとおり「日本外交史シリーズ」を紹介しており、当分のあいだは実現できそうにありません。
そこで、「鎖国に至るまでの歴史」と同じように、いずれは「黒田裕樹の歴史講座」で取り上げるまでの暫定版として連載しますので、どうぞお付き合いください。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
当時の我が国は欧米列強による侵略の危機に常にさらされており、一日も早い近代的な立憲国家としての脱皮が悲願であったわけですが、そんな折に民間側から「自由民権運動」が起きたということは、明治政府からすればむしろ「願ったり叶ったり」だったのではなかったでしょうか。
今回は、一般的な歴史教育では見出すことの難しい「自由民権運動の真実」に関して、様々な視点から探ってみたいと思います。
さて、自由民権運動についての評価を論ずるにあたり、まずは明治当初の国内ならびに国際情勢について振り返ってみましょう。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
当時(19世紀後半)のアジアは、帝国主義(政治や経済、軍事などの面で他国の犠牲において自国の利益や領土を拡大しようとする思想や政策のこと)を歩み続けた欧米列強による植民地化が進んだ、いわゆる「草刈り場」と化していました。
何しろ東アジアの超大国と思われていた清ですら、アヘン戦争の敗北などによって香港などの主要都市を列強の支配下に置くことを認めざるを得ないという厳しい状況だったのです。
そのような大変な時期に我が国の命運を託された明治新政府の責任感や重圧、加えて周囲が外敵だらけという心細さは、現代の私たちには想像もつかないほど大きかったのではないでしょうか。大きな危機感をもった明治政府は、欧米列強と肩を並べるためにも、一刻も早い近代国家の確立を目指さなければなりませんでした。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
ただし、西南の役自体はもちろん単純な「不平士族の反乱」だったのではなく、急進的な近代化にこだわるあまり、日本の伝統を粗末に扱おうとした当時の明治政府への日本精神からの異議申し立てという面も含まれていました。
ちなみに有名なハリウッド映画「ラストサムライ」は、このような面までアメリカが日本を研究し尽くしていることによって制作することができたともいえます。
さて、西南の役が政府側の勝利で終わると、その後は「士族の反乱そのものは治まったが、代わって議会の開設などを求める自由民権運動が活発化し、その圧力によって政府はしぶしぶ憲法制定に取りかかった」と従来の歴史教育では教えられていることが多いようですが、これは事実ではありません。
実は、明治政府は、その成立の段階から、将来の憲法制定に向けての布石を着実に打っていたのです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
「政治をなすには広く会議を行い、公(おおやけ)の議論によって決めるべきである」という意味のこの御誓文は、新政府による強権的な政治ではなく、公の議論、つまり議会政治によって何事も決めるべきであるという強い決意を、天皇が神前にて誓われるという形式で示されたものです。
つまり、明治政府は当初から議会政治を前提にした政策を目指していたのです。また、同年に出された「政体書」においても、五箇条の御誓文を国家の基本方針と改めて規定し、近代憲法の基本方針である三権分立が規定されています。
加えて、岩倉具視(いわくらともみ)を団長とする使節団が欧米列強を訪問した際、我が国と諸外国との大きな差を痛感するとともに、従来の不平等条約を解消し、我が国が近代国家として列強と肩を並べるためには、憲法などの国の基本となる法律の制定が不可欠であることを思い知りました。
しかし、繰り返しますが、その頃の政府には「不平士族の反乱」への対策などの解決すべき問題が山積しており、憲法制定や議会開設に着手するどころではなかったのです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
それでも、政府は翌年の明治8(1875)年4月に、明治天皇の名において「漸次(ぜんじ、「次第に、だんだん」という意味)立憲政体樹立の詔(みことのり、天皇の命令による文書のこと)」を出して、憲法制定に向けての意欲を示しています。つまり、政府は建白書を黙殺しなかったとともに、詔すなわち「天皇のお言葉」を発表することによって国民と約束をしていることになります。
なお、漸次立憲政体樹立の詔は、同年1月に大阪・北浜で開かれた、大久保利通(おおくぼとしみち)や木戸孝允(きどたかよし)、板垣退助らの会談である、いわゆる「大阪会議」が下敷きとなっています。
つまり、我が国における議会政治の歴史の重要な局面の一つに、大阪が関わっていることになりますね。なお、当初は意見がバラバラだった会議を最終的にまとめ上げたのが、仲介役であった五代友厚(ごだいともあつ)であったと伝えられています。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
我が国が列強の植民地化を防ぐとともに、不平等条約を改正するための目的の一つに、我が国が「立憲国家」、すなわち近代憲法を有して議会政治を行う国家となることがありました。しかし、封建社会の幕府政治から明治新政府に移行してからわずか数年しか経っていない現状では、近代憲法の制定はおろか、議会政治の実現など出来ようはずがありません。
さらに付け加えれば、憲法の制定に関しては、政府が主導となって実現することは決して不可能ではありませんし、実際に「大日本帝国憲法(=明治憲法)」の発布というかたちで達成されましたが、議会政治に至っては、議会側、すなわち国民の代表から選ばれる議員の存在が不可欠であると同時に、民間から議員を誕生させるだけの力量、あるいは民度の高さも要求されます。
従来の封建社会の延長線上ともいえる「藩閥(はんばつ)政治」が、当時の政府で幅を利かせていた真の理由も、実はここにあるのです。民間から議員を誕生させるだけの民度が国民に備わっていない以上、他にどんな手段があるというのでしょうか。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
なお、民撰議院設立の建白書については、これを提出した板垣らが、いわゆる「征韓論争」に敗れて下野(げや)するまでは、参議として政府内で活躍していたことから、当時の政府の基本的な政策を補うかたちで、要するに国家や政府の体制を強化する目的もあったとされています。
ところで、漸次立憲政体樹立の詔の発布は、議会政治の実現を目標とする民権派の期待を高めると同時に、漸進的(ぜんしんてき、「漸進」とはじっくり時間をかけること)な動きしか見せない政府に対する批判が激しくなり、新聞や雑誌において政府への活発な攻撃が見られるようになりました。
このため、政府は過激な政治的言論を取り締まる目的で、明治8(1875)年に「讒謗律(ざんぼうりつ)」や「新聞紙条例」などを公布しています。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
一人ひとりは決して強くない兵力であっても、西洋の近代的な軍備と訓練によって鍛え上げたり、また人員や兵糧・武器弾薬などの補給をしっかりと行ったりすることで、士族の軍隊にも打ち勝つことが出来たのです。
逆に政府軍に敗れた士族たちは、自分たちが持つ武力では政府を倒せないことを嫌でも思い知らされる結果となり、西南の役の後、士族たちは反乱をあきらめるかわりに、言論の世界で政府に対抗するようになりました。
すなわち、我が国で自由民権運動が本格化する大きな理由となったのです。
一方、西南の役が終結した翌年の明治11(1878)年、政府は地方自治制度の整備のために郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則のいわゆる「地方三新法」を制定し、これらによって翌明治12(1879)年には府県会が全国で行われるなど、不完全ながらも地方政治が実現したことによって、自由民権運動は都市から地方の農村にも広がるようになりました。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
地方を含めた全国で自由民権運動が広がりを見せるなか、西南の役の最中の明治10(1877)年に、片岡健吉(かたおかけんきち)らが政府の太政大臣である三条実美(さんじょうさねとみ)に立志社建白(りっししゃけんぱく)を提出しましたが、却下されました。
翌明治11(1878)年には、各地の民権派が大阪に集まって、活動を休止していた「愛国社(あいこくしゃ)」を再興し、明治13(1880)年3月に行われた愛国社の第4回大会で「国会期成同盟」が結成され、運動目標の中心を国会の開設要求としました。
ちなみに、国会期成同盟が結成された際の会場は、何と現在の太融寺(たいゆうじ)です。自由民権運動が広がりを見せる節目において、またしても大阪が重要な役割を果たしたことになりますね。
なお、これらの動きに対し、自由民権運動の激化によって国内の治安が乱れるのを恐れた政府は、同年4月に「集会条例」を制定して、民権派の動きを抑えようとしました。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
黒田は、同じ薩摩出身の政商である五代友厚に安くて有利な条件で官有物を払い下げしようとしましたが、明治14(1881)年7月にその内容が新聞にすっぱ抜かれると、政府に対する非難の声が一斉に挙がりました。これを「開拓使官有物払下げ事件」といいます。
事件に乗じて、民権派は藩閥政府への攻撃と国会開設の早期実現を声高に主張しましたが、政府は、民権派によるこうした水際立った動きの裏には「何かがある」と察知しました。
やがて、民権派の背後に当時急進的な議会政治の実現を目指していた大隈重信(おおくましげのぶ)の策謀(さくぼう)があると判断した政府は、同年10月に大隈を罷免(ひめん)するとともに、民権派の動きを抑える意味も込めて「国会開設の勅諭(ちょくゆ)」を発表し、約10年後の明治23(1890)年に国会を開設することを公約しました。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
ところで、先の「讒謗律(ざんぼうりつ)」や「新聞紙条例」、あるいは「集会条例」などが政府から出されたという事実を考慮すれば、政府が自由民権運動を弾圧しようという意図を持っていたのは明白だ、という意見が出てくるかもしれません。
しかし、西南の役が終わってからの政府の動きを見れば、地方三新法の制定から府県会を実現させ、また「明治十四年の政変」がその原因とはいえ、国会開設の勅諭を発表して、国会を開設することを公約するなど、憲法制定や議会政治の実現に向けて着実に前進していることが分かります。
さらには、後に明治22(1889)年に「大日本帝国憲法(=明治憲法)」が発布され、翌明治23(1890)年には第一回の「帝国議会」が開催されているのですから、明治政府の計画力や実行力の高さには驚くばかりです。
こうした事実からすれば、明治政府が「自由民権運動に押されて仕方なく憲法制定や議会政治を目指した」わけではなかったのは、明らかではないでしょうか。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
つまり、政府からすれば、自分だけでは困難な道のりが予想された立憲国家の樹立や議会政治の実現を、わざわざ民権派の方から自主的にアシストしてくれたわけですから、建前はともかく、自由民権運動は政府にとって、心の底では「願ったり叶ったり」の流れだったのではないでしょうか。
もっとも、政府と民権派とが「立憲国家の樹立と議会政治の実現」という共通の目標を持っていたとしても、政府主導による「上からの改革」と、自由民権運動が目指す「下からの改革」といった手法の違いは当然のように存在していました。
当時の政府には、列強による植民地化を防ぎながらあらゆる分野において近代化を進めなければならないという厳しい情勢のなかでは、政府主体の強い権限で何事も実行しなければならないという信念がありました。
それゆえに、急進的に近代化を進めようとする自由民権運動とはしばしば対立関係となり、反体制運動に対する政府の厳しい取り締まりも当然であったともいえるのです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
国会開設の勅諭が出された直後の同じ明治14(1881)年10月、国会期成同盟を母体として板垣退助が党首となった自由党が結成されました。
続いて翌明治15(1882)年4月には、大隈重信を党首とする立憲改進党(りっけんかいしんとう)が結成されました。
両党は、自由党がフランス流の急進的な自由主義を目標として士族や豪農などの支持を得たのに対し、立憲改進党はイギリス流の議院内閣制を目指して、都市部の知識人や実業家の支持を集めるという違いがありました。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
ただし、これらの私擬憲法のほとんどは後の大日本帝国憲法(=明治憲法)と同じ立憲君主制を基本としており、ここでも政府と民権派との考えに大きな差がないことが明らかとなっています。
こうして国会開設への具体的な動きを受けてさらなる発展を見せようとした自由民権運動でしたが、この後に思わぬかたちで大きな挫折(ざせつ)を経験することになりました。
挫折の主な原因となったのは、皮肉にも自由民権運動が本格化するきっかけをつくった「あの戦争」だったのです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
紙幣が大量に流通するということは、紙幣の価値そのものを著(いちじる)しく下げるとともに、相対的に物価の値上がりを招いたため、激しいインフレーションをもたらしました。
物価の上昇は国民生活に深刻な影響をもたらしただけでなく、定額の地租(ちそ)の金納に頼っていた当時の政府の歳入が実質的に減少してしまうという結果にもつながりました。
こうした国家財政の危機に対して、政府の大蔵卿(おおくらきょう)となった松方正義(まつかたまさよし)は、政府の歳入を増やしながら、同時に歳出を抑えることによって財政危機から脱出する政策に取り組みました。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
また、余った歳入によって不換紙幣の処分を進め、市場における紙幣の価値を少しずつ高めたことによって、明治18(1885)年には銀との交換、つまり兌換(だかん)が可能な兌換銀行券が発行され、銀本位制の貨幣制度が確立しました。
松方正義による緊縮財政は「松方財政」とも呼ばれ、西南の役の後の政府の財政危機を立て直しただけでなく、発行紙幣と銀貨との兌換を可能とした銀本位制を確立したことで、当時の政府の世界における信用度を高めることにもつながるなどの大きな成果をもたらしました。
しかし、政府による歳出を抑えた厳しい緊縮政策は、市場における紙幣の流出が減少したことで物価が下落してデフレーションをもたらしたほか、増税による負担増もあって全国的な不況となってしまいました。松方財政が原因ともいえるこれらの経済不況は、結果としてそれまで熱を帯びていた自由民権運動にも重大な影響をもたらすことになってしまいました。
なぜなら、自由民権運動の支持者であった地主や農民が全国的な不況による経営難から脱落する者が多くなり、資金面で大きな影響を与えたからです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
板垣らの外遊については、政府が政商の三井を通じて資金援助していましたが、これについては自由党の内部からも批判の声が多く、また政府の資金援助を受けたことに対して立憲改進党が自由党を攻撃すると、逆に自由党が立憲改進党と政商の三菱との密接な関係を攻撃するなど、自由民権運動の指導部が混乱状態になってしまいました。
行きづまりを見せた自由民権運動に対して、追いつめられた熱心な運動家の中には急進的な考えから直接行動に訴える者も現われました。いわゆる「激化事件」の始まりです。
明治15(1882)年、福島県令の三島通庸(みしまみちつね)が県の道路建設を目的として地元農民に労役を強制させようとすると、自由党員で県会議長だった河野広中(こうのひろなか)らが反対運動を展開しました。
これらの動きを自由党弾圧の好機と見た三島は、河野をはじめ多数の自由党員を検挙しました。これを福島事件といいます。なお、事件のきっかけとなった県道はその後に完成し、現在でも国道の一部として使用されています。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
連続する激化事件の発生や運動資金の不足によって、党の運営に自信を無くした自由党の指導部は、明治17(1884)年10月末に党を解散しました。また、立憲改進党も同年末に大隈重信が離党したことで事実上の解散となってしまいました。
政党の解散(事実上も含む)によって指導者層を失った自由民権運動でしたが、激化事件はむしろ活発化して、自由党解散直後の明治17(1884)年10月には、埼玉の秩父(ちちぶ)で不況に苦しむ農民を中心に結成された困民党(こんみんとう)が負債の減免を求めて蜂起(ほうき)するという秩父事件が起きてしまい、政府は軍隊を使ってようやく鎮圧しました。
さらに翌明治18(1885)年には大阪事件も起きるなど、激化事件の発生と弾圧の連続によって自由民権運動は次第に衰退しましたが、国会開設の勅諭に基づいた国会の開設時期である明治23(1890)年が近づくと、再び盛り上がりを見せるようになりました。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
また、同年に外務大臣の井上馨(いのうえかおる)による条約改正交渉が失敗すると、片岡健吉が元老院に提出した建白書をきっかけに三大事件建白運動が起きました。
三大事件とは集会や言論の自由・地租の軽減・外交における失策の回復(=条約改正)であり、二つの運動によって自由民権運動は再び熱を帯びてきました。
しかし、かつての激化事件の再来を恐れた政府は、同年末に保安条例を公布し、片岡健吉らを即日東京から追放して、三大事件建白運動を鎮静化させました。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。