ここまで述べてきましたように、自由民権運動は決して単なる「反体制運動」だったのではなく、政府側と民権派側とが立場上は激しく争いながらも、結果的に両者が手を携(たずさ)えることによって我が国が憲法制定と議会政治を行う「立憲国家」として世界中に認められるまでに成長できた、ともいえるのです。
では、立憲国家として確立するための必須条件であった「大日本帝国憲法(=明治憲法)」を、現代の私たちはどう評価すればよいのでしょうか。
この件については、第2回黒田裕樹の公民授業「明治憲法と日本国憲法」で詳しく紹介しておりますので、ぜひご覧ください。
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実は、これら3つの条例などの「分かりやすい覚え方」があることを皆さんはご存知でしょうか。
自由民権運動が始まった当初は、国民の多くが運動そのものの存在を知らないというのが当然でした。運動をできるだけ多くの国民に知ってもらおうと思えば、口コミで広げるか、あるいは当時読みはじめられた新聞を利用して拡散するのが一番手っ取り早いです。
しかし、口コミにウソや誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)があったり、新聞の内容に政治を批判する内容があったりすれば、政府が黙っているはずがありません。そこで「讒謗律」や「新聞紙条例」を出して取り締まろうと考えたのです。
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もちろん政府は取り締まろうとしますよね。集会での反体制運動への対応ですから、条例の名称は「集会条例」になります。
やがて自由民権運動は激化事件をもたらし、政府は軍隊を派遣までしてようやく事態を収拾しました。その後、国会開設が近づくと大同団結運動によって多くの民権派が東京へと集結しましたが、その中に反政府的な運動家が混じっていれば…。
激化事件で対策に苦労した政府が、首都の東京での暴動を許すはずがありませんよね。だとすれば治安を守る、つまり「保安」するための条例を出すのは当然の流れであり、だからこそ「保安条例」なのです。
これらのように、様々な歴史上の出来事を「大きな流れ」でとらえることによって、私たちはより楽しく歴史を学ぶことが可能になるのです。
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明治14(1881)年に公布した国会開設の勅諭によって、明治23(1890)年に国会を開くと天皇の名で国民に約束した以上、政府は国会開設に向けて絶対に遅れが許されないという厳しい環境にその身を置くことになりました。
国会を開設すると一口に言っても、実際に国会を開いて政治を行うには、事前の様々な準備が必要でした。国家の運営などに関するあらゆる条文を盛り込んだ、国の基本法でもある憲法の制定はもちろんのこと、国会やそれ以外に関する様々な制度や規則を定める必要がありました。
政府は、まず軍政に関する整備を行いました。明治11(1878)年には、軍令機関たる天皇直属の参謀本部を設置して、軍政と軍令(=作戦)とを分離しました。これには、征韓論や士族の反乱、あるいは自由民権運動などで揺(ゆ)れ動く政局に軍隊が巻き込まれないように、天皇の権威をもって独立させるという狙(ねら)いがありました。
また、明治15(1882)年には軍人勅諭を発布し、権威に基づく統帥権(とうすいけん、軍隊を指揮する権利のこと)をお持ちの天皇の名において、軍人にとって欠かせない忠節や礼儀・武勇などを説くとともに、軍隊の政治活動を禁止するなど、以後の軍人にとっての精神面での大きな支えとなりました。
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そこで、明治17(1884)年に華族令を定め、従来の旧公家や旧藩主以外に、国家の功労者も新たに華族になれるようにしました。
また、華族の順列を公爵(こうしゃく)・侯爵(こうしゃく)・伯爵(はくしゃく)・子爵(ししゃく)・男爵(だんしゃく)の5つに分けるとともに、将来の我が国の上院たる貴族院(きぞくいん)の構成員に華族がなれるようにしました。
なお、爵位(しゃくい)のうち、侯爵の字は「侯」であり、「候」ではありませんので注意が必要です。
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これは、内閣総理大臣(=首相)が内務省や外務省などの各省の長官たる国務大臣を率いて内閣を組織し、天皇の輔佐(ほさ)として国政におけるすべての責任を負う制度でした。
初代の内閣総理大臣には伊藤博文(いとうひろぶみ)が就任しました。伊藤はこのとき満年齢で44歳の若さでしたが、この記録は今もなお破られていません。
なお、宮中(きゅうちゅう)の事務にあたる宮内(くない)省は内閣の外に置かれ、宮中と行政府とが明確に区別されました。なお、宮内省の長官としては宮内大臣が任じられましたが、初代は首相の伊藤博文が兼任しました。
また、天皇の印たる御璽(ぎょじ)や国家の官印たる国璽(こくじ)を保管するとともに、天皇の諮問(しもん、意見を求めること)に応じる内大臣(ないだいじん)も新たに置かれ、初代内大臣として三条実美(さんじょうさねとみ)が就任しました。
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明治21(1888)年には市制・町村制が、明治23(1890)年には府県制・郡制が相次いで公布されました。これらによって、人口が25,000人以上の町が市となったほか、従来の町村も大幅に合併して新しく組織されました。
市町村の議決機関としては市町村会が設置され、一定額の直接国税を納めた者のみが投票できるという制限選挙ではあったものの、議員が住民から直接選ばれました。一方、郡会は町村会の選出議員と大地主の互選で選ばれ、府県会議員は市会や郡会において間接的に選出されました。
また、府や県の代表たる府知事や県知事は政府が任命し、市長は市会が推薦する候補者の中から内務大臣が任命し、無給の名誉職であった町村長は町村会の公選で選ばれました。
このようにして、府県知事などに政府の強い指導があったものの、地域の有力者を中心とした地方自治制が我が国で確立することになりました。なお、郡制については大正12(1923)年に廃止されています。
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選挙の結果、定数300に対して、旧自由党を母体として結成された立憲自由党が131議席、立憲改進党が41議席を得て、両党だけで過半数を占めることになりました。なお当時は、両党のように政府と対立する傾向にあった政党は民党と、また政府寄りの政党は吏党(りとう)と呼ばれました。
この結果を受け、政府は大日本帝国憲法(=明治憲法)発布当時の首相であった黒田清隆(くろだきよたか)が主張した超然主義をそのまま引き継ぎ、民党との対立姿勢を明らかにしました。
超然主義とは、「政府が行う政策は政党の動向に左右されることは一切なく、超然として不偏不党(ふへんふとう)の姿勢を貫く」という意味であり、19世紀末の帝国主義の世界情勢の中で、我が国が欧米列強からの侵略を受けて植民地と化してしまうことのないように、政府の主導によって国難に正面から立ち向かっていく、という強い意思表示でもありました。
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山県首相は演説の中で、当時の厳しい世界情勢のもとで我が国が置かれている立場を冷静に分析し、他国との国境たる「主権線」と、国境を守るための朝鮮半島など我が国の周辺地域たる「利益線」を死守するためにも、軍備の増強が不可欠であると訴えました。
いわば国益を最優先させた山県首相の演説に対して、当時の民党が一斉に反発し、行政費を節約して地租の軽減や地価の修正を行うべきだと主張しました。これを「政費節減・民力休養」といいます。
山県内閣(第一次)は民党からの激しい攻撃を受けたものの、立憲自由党の議員を切り崩して、何とか当初の予算案を、一部修正のうえで成立させましたが、山県首相は翌明治24(1891)年5月に辞職しました。
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我が国を守るためとはいえ、ひたすら軍事力の増強を訴え続けた山県に対して当時の国民は冷たく、日比谷公園で行われた彼の国葬の参加者も大変少なかったそうです。
しかし、歴史の現実としては、予算案の通過からわずか3年後に日清戦争が起きており、山県の判断が結果として正しかったことが証明されています。
山県有朋の遺(のこ)した実績を振り返ったとき、国民的人気を得られなかったとしても、国益のために命がけで取り組んだ「本物の政治家」の生き様を、私たちは目にすることができるかもしれませんね。
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民党の仕打ちに激怒した海軍大臣の樺山資紀(かばやますけのり)は、議会の演説で「今日の我が国が安寧(あんねい)を保っているのは誰の功績か分かっているのか!」とぶち上げました。
樺山海相のいわゆる「蛮勇(ばんゆう)演説」に対し、民党が猛反発して議会は大混乱となり、進退窮(きわ)まった第一次松方内閣は、同年12月25日に衆議院を解散し、翌明治25(1892)年2月に総選挙が行われることになりました。
この総選挙の際に、内務大臣の品川弥二郎(しながわやじろう)を中心に大規模な選挙干渉が行われ、選挙中の死者が25名、負傷者が388名を数える惨事となってしまいました。
政府によるこうした干渉にもかかわらず、民党は過半数こそ達しなかったものの優勢での勝利となり、品川内相は引責辞任して、政府を支持する議員をまとめた国民協会を結成しました。なお、第一次松方内閣は、第三議会終了後に退陣しています。
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第二次伊藤内閣も第四議会で民党と対立しましたが、明治26(1893)年2月に、明治天皇から「和衷協同(わちゅうきょうどう、心を合わせて互いに協力して行動すること)の詔(みことのり)」が出されました。
和衷協同の詔の主な内容は、天皇お自らが宮廷費を6年間節約されて毎年30万円を下付(かふ、下げ渡すこと)され、また文武官の俸給(ほうきゅう)を10分の1出させることによって、軍艦の建造費に充(あ)てるので、議会も政府に協力するように、というものでした。民党は詔に従って政争を中止し、その年の予算案も、修正のうえで成立しました。
ただし、その後も条約改正交渉の進展などをめぐって議会が政府を攻撃したこともあり、政府と衆議院との対立は、明治27(1894)年の日清戦争直前の第六議会まで続きました。
なお、第一議会から第六議会までを総称して「初期議会」と呼ばれています。
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