卑弥呼は「鬼道(きどう)」に優れ、宗教的な権威によって国を治めており、また邪馬台国は大人(たいじん)や下戸(げこ)などの身分差があり、ある程度の統治組織や租税・刑罰の制度も整った国であったとされています。
なお、邪馬台国や卑弥呼は「倭」と同じくチャイナから見た当て字で、それぞれ「大和(やまと)の国」「日(ひ)の巫女(みこ)」がなまって伝わったと考えられています。「倭」同様、中華思想が色濃く反映されていますね。また、鬼道については様々な説があり、呪術(じゅじゅつ)や祈祷(きとう)ではないかともいわれています。
239年、卑弥呼は魏に使者を遣(つか)わすと、皇帝より「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印を授(さず)けられ、多数の銅鏡(どうきょう)などが贈られました。
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ぴーち こんばんは!
卑弥呼のルーツを初めて知りました!
そう言う意味から付けられた名前だったのですね!
勉強になりましたm(_ _)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 恐らくはそうではないかと思われます。その方が語感からも納得できますよね。
そして266年、魏にかわった晋(しん)の首都である洛陽に、倭国の女王(=壱与か?)が使者を遣わしたと「晋書(しんじょ)」に書かれたのを最後に、約150年間、倭に関する記載はチャイナの歴史書から姿を消しました。この時代以降、大陸では政治の混乱が続き、歴史書をまとめる余裕がなかったからだと考えられています。
ところで、邪馬台国の記載がある「魏志倭人伝」の内容には様々な解釈があり、現代でも研究や論争が続いています。邪馬台国の位置についても、九州説と畿内(きない)説があり、それによって、日本側の伝承にある「大和朝廷(やまとちょうてい)」との関係についても意見が分かれています。
3世紀当時の我が国では小国家の統一が進み、その最大勢力が、現在の皇室の祖先を中心にして形成された、大和地方を中心とする政治連合である大和朝廷であると考えられています。なぜなら、現在の大和地方を中心に、3世紀後半から巨大な古墳(こふん)がつくられているからです。
その後も、大和地方と同じ形の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が各地につくられたことから、大和朝廷の支配が順次拡大していったと推定され、おそらく4世紀半ばまでには、関東地方から九州北部までの我が国の広い範囲が、大和朝廷の支配下に入ったと考えられています。
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ぴーち こんばんは!
そうですか。。
女性でなければ統治出来ない時代も
あったという事なんですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 この時代はそういうことだったのでしょうね。
トップが権威で君臨するあたりは、男女の違いはあれど現在の皇室と似ているところはあります。
大陸の混乱状態によって、周辺の諸民族に対するチャイナの影響力が弱まると、それを待っていたかのように、東アジアの諸地域は次々と国家形成へと進んでいきました。
朝鮮半島では、現代の満州(または「中国東北部」)からおこった高句麗(こうくり)が南下して、313年にチャイナの植民地であった楽浪郡を滅ぼしました。一方、南部では馬韓(ばかん)・辰韓(しんかん)・弁韓(べんかん)の3つの地方に分かれ、それぞれ小国の連合が形成されていましたが、4世紀の半ば頃には馬韓から百済(くだら)が、辰韓から新羅(しらぎ)がそれぞれおこりました。
こうして、朝鮮半島には北部に高句麗、南西部に百済、南東部に新羅の三国が成立したのです。なお、弁韓と呼ばれた朝鮮半島南部の地域は国家統一がなされず、小国分立の状態が続いたとされています。
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ぴーち こんばんは!
>馬韓(ばかん)・辰韓(しんかん)・弁韓(べんかん)などという名前は初めてお聞きしました(^_^;)
そこまでしっかり勉強しておかないと
歴史を語る事は出来ないという事ですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 一般的にはそこまで知られていないですが、歴史を語る際には必須ですね。
一方、北方の高句麗も、同じように半島南部の鉄資源や先進技術を求めて南下策を進めていました。こうして、高句麗と大和朝廷とは交戦状態となりました。
現代の中華人民共和国と北朝鮮との国境付近には、6mの高さを持つ、見上げるように大きな碑(ひ)が残されています。それは高句麗の好太王碑(こうたいおうひ、または「広開土王碑(こうかいどおうひ)」)です。実在した高句麗の好太王の戦績を称(たた)えた碑文(ひぶん)には、4世紀末から5世紀初めにかけての、高句麗と大和朝廷との激しい戦闘の記録がつづられています。
なお、我が国の歴史書である「日本書紀(にほんしょき)」には、神功皇后(じんぐうこうごう)が朝鮮へ出兵をしたという記述が見られ、好太王碑に残された碑文との関連性が指摘されています。また、同じく日本書紀には「任那日本府」という名称が登場しており、神功皇后以来の朝鮮半島への出兵に際し、弁韓地方での拠点(きょてん)として存在していたのではないか、と考えられています。
ちなみに、多くの歴史教科書では、なぜか「任那」が使用されず、「加羅(から)」あるいは「加耶(かや)」と称しているのもが多いようです。
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ぴーち おはようございます!
確かに
加羅という名称で勉強をした記憶が有ります。
しかし、名称を変えて伝えると言うことは
本来、致命傷な事なのではないでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > しかし、名称を変えて伝えると言うことは
> 本来、致命傷な事なのではないでしょうか?
私も同感です。
どうやら近隣諸国への「配慮」が絡んでいるようですが…。
「宋書倭国伝(そうじょわこくでん)」などによれば、倭王の讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)が相次いで南朝の宋や斉(せい)に使者を遣(つか)わし、朝鮮半島南部への軍事指揮権を認めてもらおうとしています。
つまり、我が国にはチャイナの皇帝の権威を借りて、朝鮮半島における政治的立場を有利にしようという思惑(おもわく)があった、ということです。
倭の五王が我が国のどの天皇にあてはまるか、ということについては様々な説がありますが、「済」は第19代の允恭(いんぎょう)天皇、「興」は第20代の安康(あんこう)天皇、「武」は第21代の雄略(ゆうりゃく)天皇だと考えられています。
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なぜなら、熊本県の江田船山古墳(えたふなやまこふん)や埼玉県の稲荷山古墳(いなりやまこふん)から出土(しゅつど)したそれぞれの鉄剣(てっけん)に「獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)」と刻(きざ)まれていたからです。
雄略天皇の別名は「大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)」であり、「幼武(わかたける)」の部分が一致するので間違いないとされています。
ところで、倭の五王がチャイナの南朝に使者を送った際の形式は、大王(おおきみ)と呼ばれた我が国の天皇が、皇帝の権威に屈してその臣下(しんか)となるという、いわば「臣下の朝貢国(ちょうこうこく)」になるというものでした。
これは、先述した「冊封(さくほう)体制」そのものであり、大和朝廷にとっては「屈辱(くつじょく)」以外の何物でもありませんでした。この関係を解消するには、さらなる時間の経過が必要だったのです。
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