周りを海で囲まれた我が国では、早い時期から他国との積極的な外交が行われてきました。その結果、我が国が独立国家として今日まで続くきっかけをもたらすなど、大きな成果をもたらしたこともありました。
その一方で、当時の政治家の「頭の固さ」が、我が国を後々まで苦しめることにつながるなど、外交問題一つによって、何十年あるいは何百年先までの我が国の命運が決まってしまうという「恐ろしさ」も同時に存在しています。
当講座では、数回に分けて、我が国の外交面における様々な歴史を振り返ることにしました。1回目となる今回は、我が国が古代から「自主独立の国」となった背景について、詳しく紹介していきたいと思います。
※下記の映像は6月5日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち おはようございます!
確かに初めが肝心な事って
有りますよね。
それでも何とかして
軌道修正して行こうという努力は大事な
事ですし、また、前向きに検討を重ねていけば
必ずや
より良い道に辿り着けると思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
国益を考えるのが外交にとって最重要なことですからね。
我が国で稲作中心の農耕社会が広まったことによって、社会のしくみや人々の生活にも大きな変化がもたらされました。
人々は水田の近辺で生活した方が便利なので、平地に定住するようになりました。住居も縄文時代の竪穴(たてあな)住居から、掘立柱(ほったてばしら)の平地式建物が多くなり、住居が集まってつくられた集落の規模(きぼ)も、住居が増えることによって次第に大きくなっていきました。
集落が大きくなるにつれて問題になるのは、いかにして集落全体を外敵から守るかということです。そこで、人々は集落の周りに深い濠(ほり)や土塁(どるい)をめぐらしました。このような集落のことを環濠(かんごう)集落といいます。
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ぴーち おはようございます!
確かに
農作物の供給が安定してくるという事は
人々の暮らしも豊かになってくるという
事ですものね。
そうなると、その安定を奪おうとする輩も
出てきたりするので、その確保の方に
尽力を尽くすようになる。
出来事の流れを感じました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、これは自然な流れです。
理屈や根拠だけではなく、素直に考えればおのずと分かりますよね。
このような環濠集落や高地性集落がなぜ広まったのでしょうか。それは、軍事的な緊張が高まったからなのです。
全国各地に大きな集落がたくさんできると、その中には、例えば収穫が少なかったりするのも出てきますから、現代のように秩序がしっかりしていなければ、大豊作で潤(うるお)っている他所(よそ)の集落をねらうなど、収穫物を求めて争うことになりますね。こうして、我が国もいつしか争いの時代に入っていくのです。
集落同士の争いは、より強い集落が周辺のいくつかの集落を統合し、さらに強大になっていく、という効果をもたらしました。強大な集落は、やがて「小国(しょうこく)」と呼ばれる政治的なまとまりと化し、こうした小国分立の状況は、チャイナの歴史書にも名を残すようになりました。
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皇帝は周辺民族の長に対して自己に従うことを求め、逆らえば有無を言わさずに滅ぼしました。こうした力関係のもとで、服属した長には「王」などの称号を与えて現地の支配を認めるかわりに、自己を支配者として尊敬させる(=君臣関係を結ぶ)とする、いわゆる「朝貢(ちょうこう)関係」を強制しました。
このような体制を「冊封(さくほう)」といい、古代の東アジアの国際秩序たる「華夷(かい)秩序」が構成されたと考えられています。そんな古代のチャイナの歴史書には、我が国の小国が様々な外交を展開したことが記されています。
例えば、前漢の歴史を述べた「漢書地理志(かんじょちりし)」によれば、紀元前1世紀頃の「倭人(わじん)」社会は百余国、つまり100余りの国に分かれ、楽浪郡(らくろうぐん)に使者を送ったとされています。楽浪郡とは朝鮮半島に置かれた四郡の一つで、当時は前漢の直轄地(ちょっかつち)でした。
なお、「倭」はチャイナから見た当て字で、なぜ我が国にその名がつけられたかについては様々な説があり、日本人が大切にする「和」から伝わったとも考えられています。「倭」には本来悪い意味が込められているとされており、仮にそうだとすれば、中華思想による差別意識が感じられますね。
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ぴーち こんばんは!
確かに漢字一つを取り上げても
読みは一緒でも
その漢字の意味は違いますものね。
そう言う所でもチャイナの
陰謀が伺えますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 今回の話はあくまでも可能性の一つではありますが、中華思想の流れからすると、信憑性が高いとも思われますね。
奴国は現在の福岡市付近にあった小国の一つとされ、同市の志賀島(しかのしま)からは、奴国王が光武帝から授かったとされる「漢委奴国王(かんのわのなこくおう)」>と刻まれた金印(きんいん)が江戸時代に発見されています。
これらの文献や金印の発見などから、弥生中期以後に北九州から本州の各地に分立した小国の王たちは、漢王朝の先進文化を積極的に取り入れて、自らの地位を高めようとしたのではないか、と考えられています。
さて、チャイナでは220年に後漢が滅び、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国時代となりましたが、このうち北部にあたる華北(かほく)を支配していた魏に、239年に使者を送った国がありました。その国こそが、有名な「邪馬台国(やまたいこく)」です。
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