周りを海で囲まれた我が国では、早い時期から他国との積極的な外交が行われてきました。その結果、我が国が独立国家として今日まで続くきっかけをもたらすなど、大きな成果をもたらしたこともありました。
その一方で、当時の政治家の「頭の固さ」が、我が国を後々まで苦しめることにつながるなど、外交問題一つによって、何十年あるいは何百年先までの我が国の命運が決まってしまうという「恐ろしさ」も同時に存在しています。
当講座では、数回に分けて、我が国の外交面における様々な歴史を振り返ることにしました。1回目となる今回は、我が国が古代から「自主独立の国」となった背景について、詳しく紹介していきたいと思います。
※下記の映像は6月5日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
確かに初めが肝心な事って
有りますよね。
それでも何とかして
軌道修正して行こうという努力は大事な
事ですし、また、前向きに検討を重ねていけば
必ずや
より良い道に辿り着けると思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
国益を考えるのが外交にとって最重要なことですからね。
我が国で稲作中心の農耕社会が広まったことによって、社会のしくみや人々の生活にも大きな変化がもたらされました。
人々は水田の近辺で生活した方が便利なので、平地に定住するようになりました。住居も縄文時代の竪穴(たてあな)住居から、掘立柱(ほったてばしら)の平地式建物が多くなり、住居が集まってつくられた集落の規模(きぼ)も、住居が増えることによって次第に大きくなっていきました。
集落が大きくなるにつれて問題になるのは、いかにして集落全体を外敵から守るかということです。そこで、人々は集落の周りに深い濠(ほり)や土塁(どるい)をめぐらしました。このような集落のことを環濠(かんごう)集落といいます。
※下記の映像は6月5日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
確かに
農作物の供給が安定してくるという事は
人々の暮らしも豊かになってくるという
事ですものね。
そうなると、その安定を奪おうとする輩も
出てきたりするので、その確保の方に
尽力を尽くすようになる。
出来事の流れを感じました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、これは自然な流れです。
理屈や根拠だけではなく、素直に考えればおのずと分かりますよね。
このような環濠集落や高地性集落がなぜ広まったのでしょうか。それは、軍事的な緊張が高まったからなのです。
全国各地に大きな集落がたくさんできると、その中には、例えば収穫が少なかったりするのも出てきますから、現代のように秩序がしっかりしていなければ、大豊作で潤(うるお)っている他所(よそ)の集落をねらうなど、収穫物を求めて争うことになりますね。こうして、我が国もいつしか争いの時代に入っていくのです。
集落同士の争いは、より強い集落が周辺のいくつかの集落を統合し、さらに強大になっていく、という効果をもたらしました。強大な集落は、やがて「小国(しょうこく)」と呼ばれる政治的なまとまりと化し、こうした小国分立の状況は、チャイナの歴史書にも名を残すようになりました。
※下記の映像は6月5日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
皇帝は周辺民族の長に対して自己に従うことを求め、逆らえば有無を言わさずに滅ぼしました。こうした力関係のもとで、服属した長には「王」などの称号を与えて現地の支配を認めるかわりに、自己を支配者として尊敬させる(=君臣関係を結ぶ)とする、いわゆる「朝貢(ちょうこう)関係」を強制しました。
このような体制を「冊封(さくほう)」といい、古代の東アジアの国際秩序たる「華夷(かい)秩序」が構成されたと考えられています。そんな古代のチャイナの歴史書には、我が国の小国が様々な外交を展開したことが記されています。
例えば、前漢の歴史を述べた「漢書地理志(かんじょちりし)」によれば、紀元前1世紀頃の「倭人(わじん)」社会は百余国、つまり100余りの国に分かれ、楽浪郡(らくろうぐん)に使者を送ったとされています。楽浪郡とは朝鮮半島に置かれた四郡の一つで、当時は前漢の直轄地(ちょっかつち)でした。
なお、「倭」はチャイナから見た当て字で、なぜ我が国にその名がつけられたかについては様々な説があり、日本人が大切にする「和」から伝わったとも考えられています。「倭」には本来悪い意味が込められているとされており、仮にそうだとすれば、中華思想による差別意識が感じられますね。
※下記の映像は6月5日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
確かに漢字一つを取り上げても
読みは一緒でも
その漢字の意味は違いますものね。
そう言う所でもチャイナの
陰謀が伺えますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 今回の話はあくまでも可能性の一つではありますが、中華思想の流れからすると、信憑性が高いとも思われますね。
奴国は現在の福岡市付近にあった小国の一つとされ、同市の志賀島(しかのしま)からは、奴国王が光武帝から授かったとされる「漢委奴国王(かんのわのなこくおう)」>と刻まれた金印(きんいん)が江戸時代に発見されています。
これらの文献や金印の発見などから、弥生中期以後に北九州から本州の各地に分立した小国の王たちは、漢王朝の先進文化を積極的に取り入れて、自らの地位を高めようとしたのではないか、と考えられています。
さて、チャイナでは220年に後漢が滅び、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国時代となりましたが、このうち北部にあたる華北(かほく)を支配していた魏に、239年に使者を送った国がありました。その国こそが、有名な「邪馬台国(やまたいこく)」です。
※下記の映像は6月5日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
卑弥呼は「鬼道(きどう)」に優れ、宗教的な権威によって国を治めており、また邪馬台国は大人(たいじん)や下戸(げこ)などの身分差があり、ある程度の統治組織や租税・刑罰の制度も整った国であったとされています。
なお、邪馬台国や卑弥呼は「倭」と同じくチャイナから見た当て字で、それぞれ「大和(やまと)の国」「日(ひ)の巫女(みこ)」がなまって伝わったと考えられています。「倭」同様、中華思想が色濃く反映されていますね。また、鬼道については様々な説があり、呪術(じゅじゅつ)や祈祷(きとう)ではないかともいわれています。
239年、卑弥呼は魏に使者を遣(つか)わすと、皇帝より「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印を授(さず)けられ、多数の銅鏡(どうきょう)などが贈られました。
※下記の映像は6月11日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
卑弥呼のルーツを初めて知りました!
そう言う意味から付けられた名前だったのですね!
勉強になりましたm(_ _)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 恐らくはそうではないかと思われます。その方が語感からも納得できますよね。
そして266年、魏にかわった晋(しん)の首都である洛陽に、倭国の女王(=壱与か?)が使者を遣わしたと「晋書(しんじょ)」に書かれたのを最後に、約150年間、倭に関する記載はチャイナの歴史書から姿を消しました。この時代以降、大陸では政治の混乱が続き、歴史書をまとめる余裕がなかったからだと考えられています。
ところで、邪馬台国の記載がある「魏志倭人伝」の内容には様々な解釈があり、現代でも研究や論争が続いています。邪馬台国の位置についても、九州説と畿内(きない)説があり、それによって、日本側の伝承にある「大和朝廷(やまとちょうてい)」との関係についても意見が分かれています。
3世紀当時の我が国では小国家の統一が進み、その最大勢力が、現在の皇室の祖先を中心にして形成された、大和地方を中心とする政治連合である大和朝廷であると考えられています。なぜなら、現在の大和地方を中心に、3世紀後半から巨大な古墳(こふん)がつくられているからです。
その後も、大和地方と同じ形の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が各地につくられたことから、大和朝廷の支配が順次拡大していったと推定され、おそらく4世紀半ばまでには、関東地方から九州北部までの我が国の広い範囲が、大和朝廷の支配下に入ったと考えられています。
※下記の映像は6月11日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
そうですか。。
女性でなければ統治出来ない時代も
あったという事なんですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 この時代はそういうことだったのでしょうね。
トップが権威で君臨するあたりは、男女の違いはあれど現在の皇室と似ているところはあります。
大陸の混乱状態によって、周辺の諸民族に対するチャイナの影響力が弱まると、それを待っていたかのように、東アジアの諸地域は次々と国家形成へと進んでいきました。
朝鮮半島では、現代の満州(または「中国東北部」)からおこった高句麗(こうくり)が南下して、313年にチャイナの植民地であった楽浪郡を滅ぼしました。一方、南部では馬韓(ばかん)・辰韓(しんかん)・弁韓(べんかん)の3つの地方に分かれ、それぞれ小国の連合が形成されていましたが、4世紀の半ば頃には馬韓から百済(くだら)が、辰韓から新羅(しらぎ)がそれぞれおこりました。
こうして、朝鮮半島には北部に高句麗、南西部に百済、南東部に新羅の三国が成立したのです。なお、弁韓と呼ばれた朝鮮半島南部の地域は国家統一がなされず、小国分立の状態が続いたとされています。
※下記の映像は6月11日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
>馬韓(ばかん)・辰韓(しんかん)・弁韓(べんかん)などという名前は初めてお聞きしました(^_^;)
そこまでしっかり勉強しておかないと
歴史を語る事は出来ないという事ですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 一般的にはそこまで知られていないですが、歴史を語る際には必須ですね。
一方、北方の高句麗も、同じように半島南部の鉄資源や先進技術を求めて南下策を進めていました。こうして、高句麗と大和朝廷とは交戦状態となりました。
現代の中華人民共和国と北朝鮮との国境付近には、6mの高さを持つ、見上げるように大きな碑(ひ)が残されています。それは高句麗の好太王碑(こうたいおうひ、または「広開土王碑(こうかいどおうひ)」)です。実在した高句麗の好太王の戦績を称(たた)えた碑文(ひぶん)には、4世紀末から5世紀初めにかけての、高句麗と大和朝廷との激しい戦闘の記録がつづられています。
なお、我が国の歴史書である「日本書紀(にほんしょき)」には、神功皇后(じんぐうこうごう)が朝鮮へ出兵をしたという記述が見られ、好太王碑に残された碑文との関連性が指摘されています。また、同じく日本書紀には「任那日本府」という名称が登場しており、神功皇后以来の朝鮮半島への出兵に際し、弁韓地方での拠点(きょてん)として存在していたのではないか、と考えられています。
ちなみに、多くの歴史教科書では、なぜか「任那」が使用されず、「加羅(から)」あるいは「加耶(かや)」と称しているのもが多いようです。
※下記の映像は6月11日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
確かに
加羅という名称で勉強をした記憶が有ります。
しかし、名称を変えて伝えると言うことは
本来、致命傷な事なのではないでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > しかし、名称を変えて伝えると言うことは
> 本来、致命傷な事なのではないでしょうか?
私も同感です。
どうやら近隣諸国への「配慮」が絡んでいるようですが…。
「宋書倭国伝(そうじょわこくでん)」などによれば、倭王の讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)が相次いで南朝の宋や斉(せい)に使者を遣(つか)わし、朝鮮半島南部への軍事指揮権を認めてもらおうとしています。
つまり、我が国にはチャイナの皇帝の権威を借りて、朝鮮半島における政治的立場を有利にしようという思惑(おもわく)があった、ということです。
倭の五王が我が国のどの天皇にあてはまるか、ということについては様々な説がありますが、「済」は第19代の允恭(いんぎょう)天皇、「興」は第20代の安康(あんこう)天皇、「武」は第21代の雄略(ゆうりゃく)天皇だと考えられています。
※下記の映像は6月11日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
なぜなら、熊本県の江田船山古墳(えたふなやまこふん)や埼玉県の稲荷山古墳(いなりやまこふん)から出土(しゅつど)したそれぞれの鉄剣(てっけん)に「獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)」と刻(きざ)まれていたからです。
雄略天皇の別名は「大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)」であり、「幼武(わかたける)」の部分が一致するので間違いないとされています。
ところで、倭の五王がチャイナの南朝に使者を送った際の形式は、大王(おおきみ)と呼ばれた我が国の天皇が、皇帝の権威に屈してその臣下(しんか)となるという、いわば「臣下の朝貢国(ちょうこうこく)」になるというものでした。
これは、先述した「冊封(さくほう)体制」そのものであり、大和朝廷にとっては「屈辱(くつじょく)」以外の何物でもありませんでした。この関係を解消するには、さらなる時間の経過が必要だったのです。
※下記の映像は6月11日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
なぜなら、新たな統一国家である隋の誕生によって、それまで大陸の内に向けられていた巨大なエネルギーが外へ押し出されることとなり、東アジアにおける政治の情勢が微妙な状態になってしまったからです。
果たして、隋は陸続きの高句麗に積極的に攻め込むことで国力を高めようとしました。一度は隋の攻撃をはね返した高句麗でしたが、依然として危機にあることに変わりはありません。
隋の動向によっては、朝鮮半島がすべて侵略されるばかりか、我が国にも攻め寄せる可能性が十分考えられました。そうなれば、我が国は冊封体制から脱却するどころか、亡国の危機を迎えかねないという非常に難しい立場に追い込まれてしまいましたが、そんなピンチに際して、誰しもがあっと驚くような強気の外交を行った人物がいたことで、我が国は存亡の危機を回避することができました。
その人物こそが、かの有名な聖徳太子(しょうとくたいし)だったのです。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
さすがに仏法を広げようとした人物の
行動力は素晴らしいですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
これから、聖徳太子の実績をじっくり振り返りたいと思います。
この他にも、個人の才能や功績によって昇進も可能となる画期的な身分制度である、602年に定められた「冠位(かんい)十二階」など、聖徳太子の内政面での活躍は枚挙(まいきょ)に遑(いとま)がないですが、実は外交の面においても、聖徳太子はその実力を十二分に発揮(はっき)しているのです。
何よりも大国である隋の実力を知ることが重要であると考えた聖徳太子は、600年に初めて遣隋使(けんずいし)を送ったほか、高句麗の高僧であった恵慈(えじ)などから、東アジアにおける国際情勢を詳しく学びました。
ちなみに、恵慈は熱心な仏教徒であった聖徳太子によって、我が国で仏教を広めるために高句麗から招かれたのですが、仏教を学ぶことは、当時の最先端の情報や技術を入手する意味も込められていました。
その後、隋に対して共同で対抗するために、朝鮮半島の高句麗や百済と同盟を結ぶなど、事前の様々な準備を終えた聖徳太子は、満を持して607年に、小野妹子(おののいもこ)を使者として2回目の遣隋使を送りました。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
「何だ、この失礼な物言いは!」
「こんな無礼で野蛮な書は、今後は自分に見せるな!」
煬帝のあまりの怒りぶりに、隋の外交官たちが震え上がった一方で、我が国からの使者である小野妹子は涼しい顔をしていました。
さて、煬帝をここまで怒らせた国書は、以下の内容で始まっていました。
「日出(ひい)ずる処(ところ)の天子(てんし)、書を日没(ひぼっ)する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや(=お元気ですか、という意味)」。
果たしてこの国書のうち、どの部分が煬帝を怒らせたのでしょうか?
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
日没すると処の天子
の部分でしょうか^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 日没すると処の天子
> の部分でしょうか^^
やはりそう思われますよね。詳しくは次回の更新で紹介します。
それは「天子」という言葉です。天子とはチャイナでは皇帝、我が国では天皇を意味する君主の称号ですが、煬帝は自国よりも格下である(と思っていた)我が国が、この言葉を使ってくるとは予想もしていなかったのです。なぜなら、チャイナの考えでは、「皇帝」は世界で一人しか存在してはいけないことになっているからです。
今から2200年以上前に、大陸を史上初めて統一した秦(しん)の王であった政(せい)は、各地の王を支配する唯一の存在として「皇帝」という称号の使用を始め、自らは最初の皇帝ということで「始皇帝(しこうてい)」と名乗りました。これが慣例となって、後の大陸では、支配者が変わるたびに自らを「皇帝」と称し、各地の有力者を「王」に任命するという形式が完成しました。
そして、この構図はやがて大陸周辺の諸外国にも強制されることになり、皇帝の臣下となって許してもらうようにお願いするという朝貢(ちょうこう)外交を、先述のとおり我が国も行わざるを得なくなったのですが、こんな屈辱的な話はありません。
大陸に隋という新たな支配者が誕生したのを機会に、聖徳太子はこれまでとは違う態度によって、すなわち「『皇帝』=『天皇』と名乗れるのは我が国も同じだ」という強い意思で、対等な関係の外交に臨む姿勢を、「天子」という言葉で示したのでした。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
なるほど、そう言う事でしたか!
確かに天下に一人しか居ないと
思っていた存在にはかなりパンチの効いた
言葉ですよね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。聖徳太子の才能でもありますね。
我が国が隋に強気の外交姿勢を見せた一方で、かつて隋と激しく戦った高句麗は、自国が勝ったにもかかわらず、その後もひたすら低姿勢を貫き、屈辱的な言葉を並べて許してもらおうとする朝貢外交を展開し続けていました。
隋に勝った高句麗でさえこの態度だというのに、敢えて対等な関係を求めるという、ひとつ間違えれば我が国に対して隋が攻め寄せる口実を与えかねない、危険な国書を送りつけた聖徳太子には、果たして勝算があったのでしょうか。それとも、自国の実力を無視した、あまりにも無謀な作戦だったのでしょうか。
結論を先に言えば、当時の隋は、我が国へ攻め寄せる余裕が「全くといっていいほどなかった」のです。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
なるほど、聖徳太子は既に
相手の状態を把握していた事なのでしょうかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なるほど、聖徳太子は既に
> 相手の状態を把握していた事なのでしょうかね?
仰るとおりで間違いないと思われます。
本来、外交というのはこういうものですよね。
さらに、我が国が島国であることから、攻めようとすれば無数の大きな船が必要になるなど、多額の出費がかさむことも十分予測できました。
そんな状況のなかで、無理をして我が国へ攻め込んでもし失敗すれば、国家の存亡にかかわるダメージを与えかねないことが煬帝をためらわせましたし、我が国が高句麗や百済と同盟を結んでいることが、煬帝には何よりも大きな足かせとなっていました。
こうした外交関係のなかで隋が我が国を攻めようとすれば、同盟国である高句麗や百済が黙っていません。それどころか、逆に三国が連合して、隋に反撃する可能性も十分に考えられますから、もしそうなれば、いかに大国隋といえども苦しい戦いになることは目に見えていました。
つまり、隋が我が国を攻めようにも、リスクがあまりにも高すぎるためにできないのです。従って、国書の受け取りを拒否して我が国と敵対関係になるという選択は不可能であり、そうだとすれば、我が国からの国書を黙って受け取るしか手段がありませんが、その行為は、我が国が隋と対等外交を結ぶことを事実上認めることを意味していたのです。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
チャイナの皇帝が務まるほどですから、煬帝も決して愚かではありません。だとすれば、聖徳太子の作戦が理解できて、自分に対等外交を認める選択しか残されていないことが分かったからこそ、より以上に激怒したのかもしれませんね。
さて、煬帝は遣隋使が送られた翌年の608年に、小野妹子に隋からの返礼の使者である裴世清(はいせいせい)をつけて帰国させましたが、ここで大きな事件が起こってしまいました。
何と、小野妹子が隋からの正式な返書を紛失してしまったのです。外交官が国書を失くすという信じられないミスに大あわてとなった朝廷でしたが、本来なら死罪になってもおかしくなかった妹子は、結局軽い罪に問われたのみで、すぐに許されました。
これには、隋からの返書の内容があまりにも我が国にとって厳しく(例えば、同じ「天子」と称したことに対する激しい怒りなど)、とても見せられるものではなかったゆえに、敢えて「失くした」ことにしたからだという説があります。聖徳太子や推古天皇が小野妹子の罪を軽くしたのも、妹子の苦悩を以心伝心で察したからかもしれません。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
裴世清からの国書は「皇帝から倭皇(わおう)に挨拶(あいさつ)を送る」という文章で始まります。「倭王」ではなく「倭皇」です。これは、隋が我が国を「臣下扱いしていない」ことを意味しています。文章はさらに続きます。
「皇(=天皇)は海の彼方(かなた)にいながらも良く民衆を治め、国内は安楽で、深い至誠(しせい、この上なく誠実なこと)の心が見受けられる」。
朝貢外交にありがちな高圧的な文言(もんごん)が見られないばかりか、丁寧な文面で我が国を褒める内容にもなっていますね。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
一方、隋からの激しい攻撃をはね返しながらも朝貢外交を続けた高句麗に対して、隋は「いつでもお前の首をすげかえられるが、皇帝たる自分にそのような面倒をかけるな」と一方的に突き放した内容の国書を送りつけています。悲しいかな、これも歴史の真実なんですよね。
明くる608年、聖徳太子は3回目の遣隋使を送りましたが、この際に彼を悩ませたのが、国書の文面をどうするかということでした。一度煬帝を怒らせた以上、チャイナの君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって、再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は、以下のように書かれていました。
「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。
我が国が皇帝の文字を避けることで隋の立場に配慮しつつも、それに勝るとも劣らない称号である「天皇」を使用することで、両国が対等な立場であるという方針を変更しないという、断固たる決意を示したのでした。ちなみに、この国書が「天皇」という称号が使われた始まりとされています(ただし、これには異説もあり)。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
そして、聖徳太子による対等外交の方針は、それまでのチャイナによる冊封(さくほう)体制から脱却するきっかけとなり、我が国に自主独立の精神と独自の文化を生み出すきっかけにもなったのです。その意味においても、外交面において聖徳太子が我が国に残した功績は、極めて大きなものがありました。
ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として、ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用しないということが、聖徳太子と高句麗に対する隋の態度の大きな違いを見ればよく分かりますね。
我々日本人には、かねてより清廉潔白(せいれんけっぱく、心が清くて私欲がなく後ろ暗いところのないこと)を好む風潮があり、それ自体は非常に重要なことではありますが、対外的には全く通用しないどころか、逆に利用されてしまうという危険性すらあるのです。
聖徳太子と高句麗との外交姿勢の大きな違いは、現代に生きる私たちに大きな教訓を残しているといえるでしょう。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。