大東亜戦争の緒戦において我が国は快進撃を続け、開戦後わずか半年で、アジアにあった欧米列強の植民地のほとんどを占領あるいは支配し、石油などの重要資源も確保しました。
もし我が国が優勢な段階でアメリカなどの連合国と講和が出来れば、その後の歴史が大きく変わったことは間違いありませんが、果たしてそれは可能だったのでしょうか。
大東亜戦争より前に、我が国は圧倒的な国力の差がある相手と戦った経験がありました。もちろん日露戦争のことです。
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ぴーち こんばんは!
圧倒的な国力の差で勝利した余韻を残したまま
大東亜戦争にも勝利するのでは無いかという
皮算用が悲劇を産んだとも考えられるでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 圧倒的な国力の差で勝利した余韻を残したまま
> 大東亜戦争にも勝利するのでは無いかという
> 皮算用が悲劇を産んだとも考えられるでしょうか?
なるほど、仰るような「勝利感覚」が抜けなかった、という観点も重要ですね。
詳細はこれから更新してまいります。
このまま戦いを続ければ、国力に勝るロシアの逆襲も十分に考えられましたが、国内の政情不安に悩まされたロシアがアメリカの仲裁を受けて講和に応じたことで、我が国は辛くも勝利を収めることができました。
つまり、アメリカの仲裁やロシアの政情不安があったからこそ、我が国は日露戦争を制することができたともいえるのですが、勝利をもたらした背景には何があったのでしょうか。
実は、政治力による「政略」なのです。
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ぴーち こんばんは!
なるほど、言い方は悪いですが
日本はアメリカに弱みを握られて
いた事で今回の様な戦争にまで
発展して行った訳ですか・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 日露戦争に我が国が勝利したことでアメリカが警戒しだしたのは間違いないですが、今回の件のみが弱みではないと思われます。
むしろ、我が国側の問題になりますね。
我が国が日露戦争で勝利できたのも、この「大原則」に従ったからであり、明治政府は我が国の国力の限界を見極めたうえで、長期戦と化して日本軍が劣勢(れっせい)となる前に戦争を終わらせるため、ロシアとの開戦前から講和への道を探っていました。
日露両国に対して中立的な立場であったアメリカを我が国が仲介国に選び、当時のセオドア=ルーズベルト大統領と親交のあった金子堅太郎(かねこけんたろう)を特使としてアメリカへ派遣したり、明石元二郎(あかしもとじろう)による諜報(ちょうほう)活動が成果を挙げたりするなど、我が国は少しでも自国に有利な展開になるように、あらゆる努力を重ねました。
開戦前から講和への道を探るなど「政略」を練った政府と、現場において命がけで戦い続けた「戦略」担当の軍隊。政治家と軍人とがそれぞれの役割をしっかりと果たしていたからこそ、我が国は日露戦争において戦局が有利なうちにロシアと講和を結ぶことが可能となったのです。
戦争は始めることよりも「終わらせること」の方がはるかに重要であり、日露戦争はそれを実現できた代表例だったのですが、日露戦争と大東亜戦争とで大きな違いが出来てしまったのはなぜでしょうか。
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ぴーち こんばんは!
確かに
始めることよりも
終わらせる事の方が重要かも知れませんよね。
政府と軍部との間の連携になにやら
秘訣がありそうですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 政府と軍部との間の連携になにやら
> 秘訣がありそうですね!
さすがはぴーちさん、鋭いですね。
次回以降の更新をぜひご覧ください。
しかし、昭和に入る頃には元老の多くが死に絶えており、元老の権威が必然的に低下したことで、彼らが推薦して組織された内閣の指導力も同時に低下したのみならず、大日本帝国憲法(=明治憲法)の制定時には予期していなかった大きな問題が起きました。いわゆる統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)のことです。
大日本帝国憲法の第11条には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と書かれており、条文を素直に読めば「統帥権(=軍隊を指揮する権利)は天皇のみが有する」という規定だとも読めますが、もちろん実際に天皇ご自身が指揮を取られることはありません。
そもそも一国の軍備について決定を下すことは統治権の一部であり、統治権は天皇の名のもとに内閣が行うものです。従って、軍部による主張は統帥権の拡大解釈に過ぎず、統帥権干犯問題は軍部による反撃の一つでしかありませんでした。
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ぴーち おはようございます!
大東亜戦争の時には
いかにも天皇が全ての判断をなさって
采配していたかのような印象が有りましたが
実際問題としては軍部が天皇の名を借りて
操作していた訳ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 図式としては仰るとおりです。
そして、その軍部ですら、実際には…ということになります。
なぜなら、政党政治を行う立場である政党人自らが「軍部は政府のいうことを聞く必要がない=内閣は軍に干渉できない」ことを認めてしまったからです。事実、この問題をきっかけとして我が国では軍部の独走を事実上誰も止められなくなってしまいました。
軍部の独走はやがて昭和7(1932)年の五・一五事件や昭和11(1936)年の二・二六事件といった大事件をもたらし、また軍部大臣現役武官制が復活したことによって、首相が陸海軍大臣の意向を無視できなくなるなど、我が国の政治は事実上軍部に乗っ取られた状態と化しました。
これでは戦争遂行のための「戦略」を練ることはともかく、外交努力などの「政略」が期待できるわけがありません。結局、我が国は大東亜戦争で戦況が有利なうちに、講和への道を探るための何のイニシアチブも取ることができませんでした。
しかも、こうした問題の根幹となった統帥権干犯は、さらなる悲劇を我が国に及ぼしていったのです。
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ぴーち こんばんは!
それぞれの役目が何処かで
ストップしてしまえば
生き残ったものが暴走して歯止めが効かなくなる
車で言えば
軍はアクセルで、政府はブレーキと行った所でしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 軍はアクセルで、政府はブレーキと行った所でしょうか?
なるほど、上手な例えですね。
ブレーキが利かなくなった軍部は、さらなる独走を始めることになります…。
例えば、陸軍大将でもあった東條英機首相は陸軍大臣も兼任していましたが、彼が海軍に命令することはできませんでした。東條首相は後に陸軍の軍令機関のトップである参謀総長も兼任して、何とかリーダーシップを一元化しようとしましたが、海軍の軍令機関のトップたる軍令部総長に就任できない以上は同じことでした。
かくして、我が国では終戦を迎えるまで、戦争終結への外交努力に欠かせない「政略」がないがしろにされたのみならず、陸軍と海軍との意見を調整できる人物や機関が存在しないことで「戦略」すらままならない状況が続いたのです。
すなわち、統帥権干犯問題で実権を握ったはずの軍部自身が動きを封じられたのみならず、最後には国家の統治機関の中心部にまでその影響が及んでしまったばかりか、戦争終結へ向けての「政略」が何もなされぬまま、我が国の戦局が暗転したことで、苦しい状態が続いていた我が国がさらに追い込まれてしまうようになるのです。
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ぴーち おはようございます!
なるほど、
一つの体に頭が2つ。
双頭同士がそれぞれ同じ目的を持って
協力し合うのならまだしも
互いが相反する方向へ移動しようとすれば
体は動きを止められて立ち往生して
しまいますよね。
足並み揃えてこそ、相手に勝利することが
出来るというものを・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。そうした体制を、軍部自身が築き上げてしまったところに、当時の大きな不幸がありました。
大東亜戦争は決して「無謀な戦争」ではなく、当時の軍事力や国力の比較からすれば、日清戦争あるいは日露戦争よりももっと勝てる可能性の高かった戦争だったともいえるのであり、実際にそのような見解も存在しています。
今回のように大きな歴史の流れを見てゆくと、日清・日露両戦争当時と比べ、大東亜戦争においてはいかに我が国の政治家も軍人も、その中枢(ちゅうすう)の人材が払底(ふってい)あるいは堕落(だらく)し、自壊するように負けていったかということがよく分かります。
我が国の未来のためにも、単なる「戦争は良くない」という否定的な見解のみに終始するのではなく、今回のような「大東亜戦争で我が国が勝てなかったのは何故なのか」ということこそが、歴史教育で学ばねばならない重要な課題ではないでしょうか。
「あの戦争は勝てたのではないか」という観点を、我々は絶対に見失ってはならないのです。
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青田です。 青田です。
この当時の日本の陸海軍は、史上最強でした。
しかし、戦略が、無茶苦茶です。
この当時の日本の指導者は、馬鹿すぎます
。
日露戦争の時は、日本VSロシアであり、戦場もシナ大陸だけでした。
しかし、大東亜戦争は、日本vs24ヵ国。
戦場の面積は、地球の4分の1です。
ぴーち こんばんは!
仰る通り、どうして勝利出来なかったのだろうという
事を反省する中には
やはり我が国にも傲慢な一面が存在したことを猛省し、出る杭は打たれるという現実を重く受け止め
これからの行く末に加点されていくべき点を
考慮しながら前進して行きたいものです。
青田さんへ
黒田裕樹 仰る面を含め、すべてにおいて、勝てる戦を負けに追い込んでしまいましたね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そのとおりですね。
我が国は大東亜戦争に関して、真剣に再検討する必要があります。
それこそが世界平和への貢献でしょう。
こうした流れを受けて、同年11月5日に、東條英機首相は大東亜新秩序の建設の方針を協議するため、アジア各地域の代表を東京に集め、世界史上初めて有色人種のみで行われた首脳会議でもあった大東亜会議を開催しました。
大東亜会議には東條首相の他に南京国民政府の汪兆銘(おうちょうめい)行政院長、満州国国務総理の張景恵(ちょうけいけい)、タイ首相代理のワン=ワイタヤコーン、フィリピン大統領のラウレル、ビルマ首相のバー=モウ、またオブザーバーとして自由インド仮政府代表のチャンドラ=ボースが出席しました。
大東亜会議において、各国は「お互いを尊重し、それぞれの民族が歴史や文化、あるいは伝統を活かしながら文化交流を深め、経済関係を強化することで相互に発展し、世界各国とも進んで仲良くすべきである」という内容の大東亜共同宣言を採択しました。なお、戦後の1960(昭和35)年の第15回国連会議で植民地独立宣言が決議されていますが、その内容は大東亜共同宣言とほぼ同じでした。
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ぴーち おはようございます!
日本が劣勢に転じてしまった事については
嘆かわしいですが
それでも日本の戦いに感化された
アジア諸国が旗揚げし始めたと言う事については
良い種を残してあげられたのだと
思いたいですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
この事実に関しては、我が国がもっと誇ってよいことだと思います。
サイパンからは新開発の長距離重爆撃機B29の行動範囲に東京が入り、我が国は本土の防衛すらままならない状況となったことから、一連の責任を取って東條内閣が総辞職し、小磯国昭(こいそくにあき)内閣が成立しました。
小磯内閣は、戦争を継続しながらも和平工作を何度か試みましたが、陸軍大将とはいえ予備役であった小磯首相自身の指導力不足もあって不調に終わり、昭和20(1945)年4月7日に総辞職すると、元侍従長で予備役海軍大将の鈴木貫太郎(すずきかんたろう)が新たに内閣を組織しました。
鈴木内閣は、表向きは本土決戦などの強硬策を唱えながら、その裏では密かに戦争終結を図ろうと努力しました。その後、紆余曲折(うよきょくせつ)の末に、我が国は同年8月に、連合国側からのポツダム宣言を受けいれるかたちで終戦を迎えたのです。
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ぴーち こんばんは!
そうですよね。
以前黒田さんがおっしゃられた様に
戦争は始めることよりも、終わらせる方が
大変なんでしたよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
詳しくは第41回歴史講座で紹介済みですが、鈴木首相は困難な戦争終結を見事に成し遂げていますね。