我が国は、最終的にアメリカと大東亜戦争を戦うことになりましたが、実はソ連と戦争する可能性もあったことをご存知でしょうか。その分水嶺となったのは「北進論」と「南進論」の選択であり、またその決め手となったのが「ソ連によるコミンテルンの謀略」でした。
1941(昭和16)年6月に独ソ戦が始まった際に、我が国はドイツを助けてソ連を攻撃する(=北進論)か、あるいは石油などの資源を確保するために南方に進出する(=南進論)かという大きな岐路に立たされました。
しかし、いかにドイツやイタリアと三国同盟を結んでいたとしても、日ソ中立条約が結ばれてからわずか2ヵ月でソ連を攻撃すれば、国際的な非難が集中するのは明白でした。結局、我が国は翌7月に、昭和天皇ご臨席のもとで開かれた御前会議において、南方への進出を決定したのです。
なお、御前会議において、ソ連への攻撃は情勢が有利になった場合に行うこととなり、独ソ開戦後に陸軍が満州などに約70万人の兵力を集結させた、関東軍特権演習と呼ばれた動員も8月に中止されましたが、この決定を誰よりも喜んだのが、東西の二方面から攻撃されるという危機が回避された、ソ連のスターリンであったことは言うまでもありません。
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ぴーち こんばんは!
この時まではソ連が
圧倒的優位な状態だった訳ですか・・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 我が国が北進論をとっていれば、ソ連は絶体絶命でしたからね。
この違いは大きかったと思います。
つまり、我が国はコミンテルンのスパイに操られるかたちで南進以外の選択肢を失ってしまったとも考えられるのです。
そして、この選択は当然のようにアメリカを刺激し、先述した南部仏印進駐による対日石油禁輸など、我が国がますます追いつめられたのみならず、近衛内閣の崩壊を招くとともに、東條内閣の成立という歴史の流れをもたらしたのでした。
なお、近衛内閣の総辞職と前後して、我が国の特別高等警察(=特高)が、ソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動並びに謀略活動を行っていたとして、ゾルゲや尾崎秀実らを逮捕するという、いわゆる「ゾルゲ事件」が発覚しています。
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ぴーち こんばんは!
最終的に
悪い結果を齎す時と言うのは
やはり思惑とは違う
何事も裏目裏目に出てしまう
所が
何とも皮肉なものですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
スパイ活動によって、裏目に導かれたとなれば、なおさら無念の思いがします。
昭和天皇に絶対の忠誠を誓っていた東條首相ならではの方針の転換でしたが、さらに東條は、外務大臣に対米協調派の東郷茂徳(とうごうしげのり)を選んだほか、大本営政府連絡会議を連日開いて、戦争回避への外交策を検討しました。
会議において統帥部から「開戦後2ヵ年は成算があるが、それ以降は不明である」との意見があり、政府もそれを了承しました。当時の我が国の石油の備蓄量は、民需の分を含めて2年分しかなく、まさに石油の有無が我が国の生命線を握っていたと言えました。
この他、外交交渉の期限を昭和16(1941)年11月30日夜12時(12月1日午前0時)と定めたほか、対米交渉の切り札として、アメリカの希望を可能な限り考慮した「甲案」「乙案」を取りまとめました。この時、交渉期限まですでに1ヵ月を切っており、まさに土俵際の外交交渉だったのです。
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ぴーち こんばんは!
この当時の緊迫した雰囲気が
伝わる今日のお話ですね・・
瞬時の判断を余儀なくされた
まさに東條氏の才覚が問われる場面ですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
東条首相のギリギリまでの判断が問われますが、それを木っ端みじんに打ち砕いたのは…。
来栖大使はルーズベルト大統領に我が国の苦しい立場を素直に表明して、交渉に応じるよう懸命に説得しましたが、大統領は言葉を適当にはぐらかして、やんわりと拒否するばかりでした。
実は、この時までにアメリカ側は日本の秘密文書の暗号を解読しており、我が国の交渉過程は筒抜けだったのです。それでも、我が国は切り札として最後まで取っておいた「乙案」も提示したほか、日独伊三国同盟の死文化すら申し入れましたが、アメリカは聞き入れず、11月26日に両大使に対して一つの「外交文書」を突き付けました。
それこそが、悪名高い「ハル・ノート」だったのです。
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ぴーち こんばんは!
申し訳ありませんが
死文化という意味がわかりません(^_^;)
ハル・ノートですか・・
名前だけは聞いた事が有りますが
内容は・・・忘れてしまいました(大汗
ぴーちさんへ
黒田裕樹 「死文化」とは条約や同盟などが何の効果も持たなくなる、という意味です。
ハル・ノートについては次回の更新で明らかにしますが、その内容が…。
1.中国大陸や仏印(=フランス領インドシナ)からの全面撤兵
2.蒋介石の重慶国民政府以外の中国における政府の否認
3.日独伊三国同盟の破棄
もしこれらの条件を我が国が受けいれれば、満州を含む、我が国がこれまでの外交努力によって正式に得た権益をすべて手放すのみならず、汪兆銘(おうちょうめい)の親日的な南京国民政府、さらには満州国すら否認することを意味していました。
要するに、我が国に満州事変以前の状態に戻ることをアメリカは要求したのです。
ただ、ハル・ノートに記された内容は確かに厳しいものがありましたが、例えば満州は中国大陸に含まれないなど、我が国がハル・ノートの条件を検討する姿勢を見せながらも粘り腰で様々な工作を行い、戦争回避に向けてあらん限りの努力をすべきではなかったでしょうか。
現実において我が国はそうした外交努力をすることもなく、ハル・ノートの条件を認められないという結果となりましたが、それは同時に対米交渉の打ち切りを意味しており、もはやアメリカと戦争するしか道が残されていないということにつながりましたが、それこそがアメリカの思う壺でもありました。
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ぴーち こんばんは!
そうですよね。
戦争に対してこの当時の日本は
安易な事と捉え
ことの重要性を無視し
高を括った考え方で居たのでは
無いでしょうかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 当時の状況は確かに厳しかったですが、最初からあきらめては話になりませんからね。
最後の最後まで努力すべきだったのかもしれません。
それにしても、なぜアメリカはこうした「最後通牒」ともいえるハル・ノートを我が国に突き付けたのでしょうか。
アメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領は、自国の疲弊した経済の打開や、あるいはイギリスを助ける意味などもあって、日本との戦争を望んでいましたが、先述のとおり、大統領自身は「攻撃を受けた場合を除いて絶対に戦争はしない」とアメリカ国民に公約していました。
アメリカが日本と戦争するためにはその第一撃、すなわち先制攻撃を日本に始めさせる必要があり、その引き金としてハル・ノートを我が国に突き付けたのです。この後、我が国が対米開戦に踏み切ることで、アメリカの目標は達成されたのでした。
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ぴーち こんばんは!
まあ、確かに屈辱的な問題だったかも
知れませんが、最終的には
手を出した方がどうしても不利になるということは
十分、理解出来たはずだと思うんですが・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 手を出した方がどうしても不利になるということは
> 十分、理解出来たはずだと思うんですが・・
確かに仰るとおりなのですが、分かっていても「座して死を待つよりは」という思いに駆られたともいえそうですね。
もしハリー=ホワイトが本当にソ連のスパイであったとすれば、彼がフランクリン=ルーズベルト大統領に取り入ったことで日米間に埋めようもない深い溝を構築し、日米開戦を誘発したことになりますが、果たしてソ連にそのようなメリットが存在したでしょうか。
アメリカはかねてから東アジアにおける権益を狙っており、そのための障害となっていた日本を敵視し続け、日米開戦によって、ついに我が国を中国大陸などから駆逐(くちく)することに成功しましたが、我が国の後釜としてソ連と同じ共産主義国家の中華人民共和国が成立したことなどで、戦後にアメリカが得た「果実」はほとんど存在せず、さらに日本の弱体化によって、東アジアは当時の東ヨーロッパと並んで世界で最も「赤化」した地域となってしまったのです。
こうした歴史的事実を鑑みれば、ルーズベルト大統領の夫人が共産主義に憧れていたように、アメリカの大統領近辺にまでソ連のスパイが暗躍していたという説は、十分に成立すると言えるのではないでしょうか。
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ぴーち こんばんは!
アメリカという国が無防備なのか
或いはソ連がそれを上回る強者なのか・・
存じませんが、
事実、共産主義はジワジワ浸透していったんですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 この場合は、大統領自身とその近辺を完全に抑えたコミンテルンの策謀の巧みさに軍配が上がるでしょうね。
しかし、いわゆるハリマン問題などを原因としてアメリカとの間に出来た溝は、やがて人種差別に基づく日本人敵視政策を生みだし、また昭和初期のアメリカやイギリスなどによるブロック経済は、世界との貿易で生計を立ててきた我が国に大きな打撃を与えました。
さらに、巨大な共産主義国家であったソ連による軍事的あるいは思想的脅威は、我が国の内外に大きな刺激を与え、関東軍による満州事変から満州国建国への流れを導くとともに、大日本帝国憲法(=明治憲法)の大きな欠陥であった「統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)問題」が、軍部の独走をもたらしました(詳しくは後述します)。
加えて、日華事変の泥沼化が我が国の体力を徐々に奪ってきたところへ、日独伊三国同盟や北部仏印進駐などをきっかけにABCDラインが引かれ、資源を求めて合法的な南部仏印進駐を行えば石油禁輸となり、それでも粘り強く対米交渉を行えば、ハル・ノートを一方的に突き付けられました。
かくして、命綱でもあった石油の入手経路を完全に断たれたばかりか、国家としての存続も風前の灯となってしまった我が国は、自衛のための最終手段として、日米開戦の選択肢しか残らないという状況に追いつめられてしまったのです。
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ぴーち こんばんは!
何とも
怒涛の如く
悪循環のスパイラルにはめられていった様子が
分かりますね(^_^;)
最終的にその道を選ばざるをえない状況に
導かれるというのは、仏法的な解釈ですと
如何に日本が
謗法の毒気にまみれた国であるかが
窺い知れます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、仏法的な解釈ですね。
この場合、毒気はコミンテルンの策謀なのか、それともアメリカの横やりか。あるいは我が国の至らなさか…。
しかも、先述したケロッグ国務長官の「経済封鎖は戦争行為そのものである」という言葉を借りれば、先の石油禁輸の例を出すまでもなく、ハル・ノートによってアメリカは我が国に対して侵略戦争を先に仕掛けたも同然であり、我が国が対米開戦に踏み切ったのも無理からぬことではありました。
ハル・ノートを突き付けられた東條内閣は、半年以上続けてきた日米交渉を断念し、昭和16(1941)年12月1日の御前会議において、ついに「開戦のご聖断」が下りました。なお、戦争開始の閣議決定の裁可を求められた昭和天皇は、ご自身のお気持ちを封印され、立憲君主制に基づく大日本帝国憲法の規定どおりにお認めになられました。
昭和天皇のご意志であった「対米戦争回避」を実現できなかった東條首相は、開戦日(12月8日)の未明に首相官邸の自室において、皇居に向かって号泣しながら、陛下にお詫びをしたと伝えられています。
一般的な歴史認識においては「東條英機こそ日本を戦争に巻き込んだ重大な戦争犯罪人である」とされることが多いですが、前任の第三次近衛内閣が「戦争の決断をしたくない」とばかりに無責任に政権を投げ出した後に国論をまとめ上げ、ギリギリまで戦争回避に努力したという「歴史の真実」を、私たちはどのように評価すべきでしょうか。
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ぴーち こんばんは!
昨日の毒気についてですが、
我が国の大多数の人間が
間違った教えに従っている状態である事です。
それ故に本来人間を護るべき諸天から見放されてしまっていて無防備状態である為に
最悪な事態に陥ってしまうのです。
この原理をお信じになるかどうかはわかりませんが
事実はそう言う事です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、そういうことですね。
有難うございます。