嘉永(かえい)6(1853)年にペリーが浦賀に来航して以来、アメリカは我が国に対して一定の理解を示し続けた国でした。だからこそ、我が国は日露戦争の終結へとつながったポーツマス条約の締結を、アメリカのセオドア=ルーズベルト大統領に斡旋(あっせん)してもらったのです。
しかし、我が国が日露戦争に勝利したという事実は、アメリカをして我が国に警戒感を植え付けせしむ結果をもたらしましたし、さらに、戦争後に鉄道王ハリマンが提案した南満州鉄道の共同経営を、結果として我が国がはねつけたことも、満州など東アジアでの権益を狙っていたアメリカの対日感情の悪化につながりました。
かくして、アメリカは我が国に対して敵意をむき出しにするようになり、将来もし日本と戦争状態となることを想定すれば、目障りな存在でしかなかった日英同盟を、第一次世界大戦後のワシントン会議によって、日・米・英・仏の四ヵ国条約と引きかえに、大正10(1921)年に破棄させました。
この日英同盟の終わりが、その後の我が国と世界の運命に甚大な影響を与えたことを、現代の日本人は忘れてしまっていますが、この事実はもっと意識されるべきことです。
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ぴーち こんばんは!
アメリカは自国よりも優れた国を
明らかに敵視する傾向が高いのですね。
なんでも一番でなければ
許せないと言うのは、アメリカの最大の自負で
あり、最大の欠点でも有りますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 当時のアメリカにはそのような傾向がありましたね。
現代でもさして変わらないようですが…。
アメリカによる一方的かつ冷酷な態度に、日本人の多くはアメリカに対するそれまでの感情を激変させ、敵視するようになりました。
後に我が国がアメリカと大東亜戦争を始めた際、日本国民の多くが「大変なことになった」と思いましたが、それと同時に「積年の思いが晴れてスッキリした」と考えた人々も決して少なくなかったのです。
なお、日本人排斥移民法が成立した当時は摂政宮であられた昭和天皇は、後年に「先の大戦の遠因はアメリカ移民の問題であり、近因は石油が禁輸されたことである」と仰られておられます。
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ぴーち こんばんは!
う~ん。
今のトランプ政権も日本こそ集中的に敵視しないものの、同じような事を他の国にしている所を見ると
アメリカという国の本質を疑ってしまいます(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに、こうした外交はアメリカの伝統でもあるようです。
そして、この時にはその標的が我が国だったわけですね…。
我が国は蒋介石への援助を断ち切るため中国の沿岸を封鎖しましたが、各国は日本軍の勢力範囲外の陸路を通じて援助を続けました。なお、これらの陸路を当時は「援蒋(えんしょう)ルート」と呼んでいました。
援蒋ルートの主なものには仏印(=フランス領インドシナ、現在のベトナム・ラオス・カンボジアに相当)ルートやビルマルート・西北ルート・南支ルートの4つがありましたが、このうち最も重要だったのは仏印ルートであり、全ルートの半分以上の輸送量を占めていました。
我が国はフランスに対して仏印ルートによる援助行為を禁止するよう申し入れましたが、フランス政府は容易に承諾しようとしませんでした。しかし、1940(昭和15)年にフランスがドイツに降伏すると、仏印ルートの封鎖を認めるようになり、2ヵ月に及ぶ外交交渉の末に協定が成立し、これに基づいて我が国は日本軍を仏印に進駐させました。これを北部仏印進駐といいます。
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ぴーち こんばんは!
確かにその国の息の根を止める為には
資金を断つ事が最大の効果をあげる事になりますもんね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かにその国の息の根を止める為には
> 資金を断つ事が最大の効果をあげる事になりますもんね!
そのとおりです。
だからこそ、こうしたいわれなき経済封鎖は結果的に戦争へとつながってしまうのです。
アメリカやイギリスを中心とする重要資源の輸入制限に悩まされた我が国は、蘭印(=オランダ領東インド、現在のインドネシア)に対して戦略物資の輸入の交渉を始めましたが、当時のオランダは裏でアメリカやイギリスとつながっており、断続的に行われた交渉は最終的に失敗に終わりました。
こうして、アメリカ(America)・イギリス(Britain)・中国(China)・オランダ(Dutch)といった東アジアに権益を持つ国々が、共同して我が国の南方進出を抑えようとする構図が形成されました。これをABCDライン(またはABCD包囲網)といいます。
ABCDラインの中心となったのはアメリカでしたが、ハリマンが提案した南満州鉄道(=満鉄)の共同経営の拒否以来、長い時間をかけて反日体制が構築されてきたとはいえ、なぜここまで強気の姿勢を崩さず、我が国を追いつめようとしたのでしょうか。
実は、この背景にはアメリカとイギリスによる「利害の一致」に基づく共同戦線があったのです。
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ぴーち こんばんは!
自国の利益の為なら
とことん相手を食い物にすると言う考え方も
貪欲過ぎれば、その後の腹痛に
苦しめられるというものを知っていただかないと・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
現状の世の中も、果たしてどうなることやら…。
一方、アメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領も「攻撃を受けた場合を除いて絶対に戦争はしない」と公約して三選を果たしたものの、ニューディール政策の行きづまりもあって経済が疲弊(ひへい)し、失業者が増加していました。
これらを打開するため、チャーチルとルーズベルトが手を組み、まず日本に先に攻撃させるかたちによって日米間で戦争を起こさせ、その後に日本と同盟関係にあるドイツとアメリカが戦えるように仕向けたのではないかと考えられているのです。
実際、アメリカによって昭和15(1940)年に日米通商航海条約を廃棄させられた我が国は、物資や石油などの重要な資源の不足に悩まされたことで、蘭印(=オランダ領東インド、現在のインドネシア)に対して戦略物資の輸入交渉を続けましたが、先述のとおり、アメリカやイギリスとつながっていたオランダによって、交渉は暗礁(あんしょう)に乗り上げました。
このため、我が国はフランスに対し、植民地である仏印(=フランス領インドシナ、現在のベトナム・ラオス・カンボジアに相当)の南部に日本軍を進駐させるよう交渉を続けました。
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ぴーち こんばんは!
いかにも金と権力を
最大限に活かそうとする
大国らしいモノの考え方なのではないかと
思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私も同感ですね。
だからこそ、外交力や抑止力などによって、大国に負けない国家になるか、あるいは大国そのものにならねばなりません。
フランスとの交渉が合意したことで、我が国は第三次近衛内閣が誕生した直後の昭和16(1941)年7月28日に南部仏印進駐を開始しましたが、日本軍の進駐で自国の植民地支配に危機が生じると判断したアメリカは、我が国の南部仏印進駐を非難したばかりか、直後の8月1日に、在米日本人の資産凍結や石油を含む主要物資の対日輸出全面禁止などという措置をとりました。
言うまでもないことですが、20世紀の国家が石油なくして存在できるはずがありません。それなのに石油を我が国に一滴たりとも「売らない」というアメリカの行為は、我が国に「死ね」と言っているに等しい暴挙でした。
なお、1928(昭和3)年にパリ不戦条約が結ばれた際、条約批准の是非をめぐってアメリカ上院議会で討議が行われた際に、当時のケロッグ国務長官が「経済封鎖は戦争行為そのものである」と断言しています。彼の言葉を借りれば、アメリカによる石油禁輸こそが我が国に対する先制攻撃だとは言えないでしょうか。
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ぴーち こんばんは!
確かに
暴力というのは何も直接
暴行を加えたりする事意外にも
言葉や、今回の様な経済に直接
影響するようなことも含めて
暴力と言えますものね。
まあ、個人的には
石油の無い生活でも
やってやれなくはありませんが
日本国全体の事を考えれば
いきなり供給がストップすれば
混乱は避けられないでしょうね・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、経済制裁も立派な暴力行為です。
当時の我が国がどんどん行き場をなくしているのが悲しいですね。
なお、この会議において、戦争ではなくあくまで外交的な解決を望まれた昭和天皇は、明治天皇がお詠みになった御製をご披露されておられます。
「四方(よも)の海 みなはらからと 思う世に など波風の 立ち騒ぐらむ」
(※はらから=兄弟姉妹のこと)
御前会議の終了後、対米関係の悪化に苦慮していた近衛首相は、事態打開のためにフランクリン=ルーズベルト大統領と直接会談しようとしました。駐日大使のグルーは首脳会談の早期実現を本国に強く訴えましたが、アメリカはこれに応じず、昭和16(1941)年10月2日に会談の拒否を我が国に通告しました。
頼みの綱であった首脳会談が幻に終わり、対米交渉の外交期限も近づいた同年10月18日に、近衛首相が内閣を総辞職したことにより、替わって東條英機内閣が誕生することとなったのです。
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ぴーち こんばんは!
願わくば、話し合いでどうにか
戦争を回避出来ればと思ったのに
拒否されてしまってはどうにもなりませんよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
話し合いを一方的に拒否する段階で、アメリカが戦争する気満々であったことがうかがえますね。