平成27(2015)年に戦後70年を迎えた我が国では、「先の戦争は日本が一方的に侵略したものである」とする、いわゆる「自虐史観」が主流となり、歴史教科書にもその傾向がみられるばかりか、東條元首相に関しても、一方的な悪印象が植えつけられていることが多いようです。
しかしながら、世の中に光と影が存在するように、歴史の見方についても、これまでのように一方的な観点から断罪するのではなく、自国あるいは他国の様々な情勢にも注目していくべきではないでしょうか。今回の講座では、東條英機元首相の生涯を振り返るともに、当時の我が国あるいは世界をめぐる、大きな歴史の流れについて紹介していきたいと思います。
なお「大東亜戦争」の呼称は、戦後にGHQによって使用が禁止されて「太平洋戦争」と呼ばれるようになりました。最近の歴史教科書では「アジア太平洋戦争」という表記も見られるようですが、歴史の真実を探究するには、特定の重要な事象に関して、後世の人間が勝手に名称を改めるというようなことをするべきではありません。
「名は体を表す」と言います。「大東亜戦争」という呼び名で戦った戦争の意味は、その名でしか浮かび上がらせる事は出来ません。従いまして、当講座では「大東亜戦争」と呼称します。
※下記の映像は4月7日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
確かに
その名称が付けられた時には
そう名付けるにふさわしい事由があり
背景が有り、意味があったはずですものね。
それに直面しなかった者に
何が分かるのか・・部外者は黙っておけ!と
言う所でしょうかね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
このことは、聖徳太子にも当てはまりますね。
陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)を父に持った東條は、自身も軍人としての道を歩み、明治32(1899)年に東京陸軍地方幼年学校(第3期)に入学すると、明治35(1902)年に陸軍中央幼年学校(第17期)に入り、明治37(1904)年に日露(にちろ)戦争のために繰り上げ卒業し、陸軍士官学校(第17期)に入学しました。
明治38(1905)年に陸軍士官学校を卒業し、陸軍歩兵少尉に任官すると、明治40(1907)年に陸軍歩兵中尉に昇進した後、明治45(1912)年には陸軍大学校(第27期)に入学し、大正4(1915)年に陸軍大学校を首席で卒業すると、歩兵大尉で連隊長となりました。
名実ともに軍人となった東條は、大正8(1919)年に駐在武官としてスイスに赴任すると、大正9(1920)年には陸軍歩兵少佐に昇進し、大正10(1921)年にドイツに駐在した後、大正11(1922)年に帰国すると、陸軍大学校の教官に就任しました。
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ぴーち こんばんは!
東條英機が
海外での赴任歴があったという事は
初めて伺いました。
様々な世界情勢に精通していたからこそ
ものの考え方も評価され
一目置かれる存在になった訳ですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
東條元首相は、軍人としては国際派で一流でした。
そのあたりの感性が、ある事件の際に大きく活かされることになります。
さらに昭和10(1935)年、関東憲兵隊司令官兼関東局警務部長として大陸に渡った東條は、昭和11(1936)年に陸軍中将となり、昭和12(1937)年には関東軍参謀長に就任しました。
そして昭和13(1938)年5月、54歳の時に満州から内地に呼び戻された東條は、第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の板垣征四郎(いたがきせいしろう)陸軍大臣の下で陸軍次官となり、はじめて政治との関係が生じたのです。
つまり、東條英機は54歳になるまで「根っからの軍人」であり、一切政治に関与していませんし、昭和6(1931)年に起きた満州事変や、昭和12(1937)年に始まった日華事変(=日中戦争)にも、彼は何のかかわりも持っていないのです。これは非常に重要な事実であり、彼の生涯をたどる際には絶対に忘れてはいけません。
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ぴーち こんばんは!
なるほど~
政治家としての要素は持ち合わせて居なかった
訳ですか・・
そこら辺の所は誤解されやすい所でも
有る気がしますね
ぴーちさんへ
黒田裕樹 本来は政治家ではないですからね。
ましてや、一部の人々が喧伝する「十五年戦争」にすべて関わっているというのは、呆れかえるデマでしかありません。
昭和13(1938)年3月、ソ満国境(=ソ連と満州との国境のこと)に位置するオトポールという街に、ナチスから逃れようとドイツを脱出した、多数のユダヤ人難民が現れました。彼らは満州国から上海へ向かい、その後にアメリカなどへ逃れようと考えていたのですが、ドイツと友好関係にある日本に気をつかった満州国外交部が、彼らの入国を拒否してしまったのです。
途方に暮れた難民たちは、極寒の原野にテントを張って助けを求め続けましたが、最低気温が氷点下20℃を下回るという厳しい寒さの中で、凍死する者まで現れ始めており、そんな難民らの困難な様子を耳にした、ハルビン特務機関長の樋口季一郎(ひぐちきいちろう)は、熟慮を重ねた末に、人道上の観点から難民の受けいれを決断しました。
樋口の「誇りある決断」によって、数多くのユダヤ人難民が救われましたが、彼の行動はドイツ政府の怒りを招き、日本政府に対して公式の抗議書が届けられたほか、国内でも外務省や陸軍省を中心に樋口の独断を問題視する声が上がりました。
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waravino 大東亜戦争→太平洋戦争はまだいいです。
慰安婦像→平和の少女像!は何ですか?
荒唐無稽どころかもはや絶句するしかありません。
Koreaの歴史捏造と言えば。仕事で朝鮮学校へ行った際。
置かれているマンガ本(教科書?)を見る機会があったんですよ。
そこに描かれてあったのは。
若いKorea人女性が日本兵に追われている場面でした。
(じっくり読める時間もなく直ぐに本を閉じたのですが)
今でもああした反日教育をしているKorea学校を何故?存続させているのか。
豊洲問題・森友問題を遥かに上回る大問題だと思うのですがね。
ブログ更新。お疲れ様です^^)/
waravinoさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
やはり色々と問題がありそうですね…。
ぴーち こんばんは!
そうでしたか・・
組織というのは、個人が決めた判断が
いかに正しいものであったとしても
相談も無しに決めてしまったという
観点だけで「悪」だと決めつけられてしまう所が
辛い所ですよね。
判断を急する様な
現場に一番近い人間が指示出来る
機動性も決まりごとに入れて
頂きたいものです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですよね。
今回の場合も、樋口将軍の人道的な措置に対して、国内からも非難の声があがりましたが、ごれを防いだのは誰かと言うと…。
「参謀長はヒットラーのお先棒を担(かつ)いで弱い者いじめをすることが正しいと思われますか?」
樋口の主張がもっともであると認めた東條によって、軍司令部内での樋口に対する批判は下火となり、ドイツの抗議は不問に付され、事件は鎮静化したのです。
この後、樋口は終戦直後の「占守島(しゅむしゅとう)の戦い」で戦果をあげたことによって、ソ連から戦争犯罪人として裁かれそうになりましたが、ユダヤ人たちの間で救出運動が広がったこともあって、最終的に回避されました。
もし、オトポール事件における樋口の決断を、関東軍参謀長であった東條が支持したことが当時の世界に知れ渡っていれば、東條自身のその後の運命も、あるいは変わったものとなったかもしれません。
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満鉄と言えば、超高性能の蒸気機関車によって牽引(けんいん)された、全客車冷房完備の「特急あじあ号」が特に有名ですが、我が国が戦前の段階でこれだけの技術力を誇っていたからこそ、戦後の昭和39(1964)年に東海道新幹線を開通させることが可能だったのです。
さて、長いあいだ「根っからの軍人」であった東條が、54歳にして初めて政治とのかかわりを持ったのは、先述のとおり昭和13(1938)年5月の陸軍次官就任でしたが、彼が「政治的責任のある地位」となった期間はさらに短く、昭和15(1940)年7月22日の第二次近衛内閣の陸軍大臣就任以降、くしくも同じ日である、昭和19(1944)年7月22日の総理大臣辞任までの4年間に過ぎません。
しかも、東條が総理大臣に就任した昭和16(1941)年10月には、内政あるいは外交のあらゆる面において、すでに大東亜戦争の開戦への道のりがほぼ出来上がってしまっていたという「厳然たる流れ」が存在し、これに対して、東條首相が最後の最後まで戦争回避に全力を尽くしていたという「知られざる事実」があったことを、皆さんはご存知でしょうか。
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ぴーち こんばんは!
あじあ号というのは
初めて聞いた名前です!
その発展が東海道新幹線の大元になった
と言うのを伺い、更に納得させて
頂きました^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 あじあ号は当時の世界最新の技術でしたからね。
戦前の「弾丸列車計画」が東海道新幹線につながっているのも納得です。