平成27(2015)年に戦後70年を迎えた我が国では、「先の戦争は日本が一方的に侵略したものである」とする、いわゆる「自虐史観」が主流となり、歴史教科書にもその傾向がみられるばかりか、東條元首相に関しても、一方的な悪印象が植えつけられていることが多いようです。
しかしながら、世の中に光と影が存在するように、歴史の見方についても、これまでのように一方的な観点から断罪するのではなく、自国あるいは他国の様々な情勢にも注目していくべきではないでしょうか。今回の講座では、東條英機元首相の生涯を振り返るともに、当時の我が国あるいは世界をめぐる、大きな歴史の流れについて紹介していきたいと思います。
なお「大東亜戦争」の呼称は、戦後にGHQによって使用が禁止されて「太平洋戦争」と呼ばれるようになりました。最近の歴史教科書では「アジア太平洋戦争」という表記も見られるようですが、歴史の真実を探究するには、特定の重要な事象に関して、後世の人間が勝手に名称を改めるというようなことをするべきではありません。
「名は体を表す」と言います。「大東亜戦争」という呼び名で戦った戦争の意味は、その名でしか浮かび上がらせる事は出来ません。従いまして、当講座では「大東亜戦争」と呼称します。
※下記の映像は4月7日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
確かに
その名称が付けられた時には
そう名付けるにふさわしい事由があり
背景が有り、意味があったはずですものね。
それに直面しなかった者に
何が分かるのか・・部外者は黙っておけ!と
言う所でしょうかね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
このことは、聖徳太子にも当てはまりますね。
陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)を父に持った東條は、自身も軍人としての道を歩み、明治32(1899)年に東京陸軍地方幼年学校(第3期)に入学すると、明治35(1902)年に陸軍中央幼年学校(第17期)に入り、明治37(1904)年に日露(にちろ)戦争のために繰り上げ卒業し、陸軍士官学校(第17期)に入学しました。
明治38(1905)年に陸軍士官学校を卒業し、陸軍歩兵少尉に任官すると、明治40(1907)年に陸軍歩兵中尉に昇進した後、明治45(1912)年には陸軍大学校(第27期)に入学し、大正4(1915)年に陸軍大学校を首席で卒業すると、歩兵大尉で連隊長となりました。
名実ともに軍人となった東條は、大正8(1919)年に駐在武官としてスイスに赴任すると、大正9(1920)年には陸軍歩兵少佐に昇進し、大正10(1921)年にドイツに駐在した後、大正11(1922)年に帰国すると、陸軍大学校の教官に就任しました。
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ぴーち こんばんは!
東條英機が
海外での赴任歴があったという事は
初めて伺いました。
様々な世界情勢に精通していたからこそ
ものの考え方も評価され
一目置かれる存在になった訳ですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
東條元首相は、軍人としては国際派で一流でした。
そのあたりの感性が、ある事件の際に大きく活かされることになります。
さらに昭和10(1935)年、関東憲兵隊司令官兼関東局警務部長として大陸に渡った東條は、昭和11(1936)年に陸軍中将となり、昭和12(1937)年には関東軍参謀長に就任しました。
そして昭和13(1938)年5月、54歳の時に満州から内地に呼び戻された東條は、第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の板垣征四郎(いたがきせいしろう)陸軍大臣の下で陸軍次官となり、はじめて政治との関係が生じたのです。
つまり、東條英機は54歳になるまで「根っからの軍人」であり、一切政治に関与していませんし、昭和6(1931)年に起きた満州事変や、昭和12(1937)年に始まった日華事変(=日中戦争)にも、彼は何のかかわりも持っていないのです。これは非常に重要な事実であり、彼の生涯をたどる際には絶対に忘れてはいけません。
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ぴーち こんばんは!
なるほど~
政治家としての要素は持ち合わせて居なかった
訳ですか・・
そこら辺の所は誤解されやすい所でも
有る気がしますね
ぴーちさんへ
黒田裕樹 本来は政治家ではないですからね。
ましてや、一部の人々が喧伝する「十五年戦争」にすべて関わっているというのは、呆れかえるデマでしかありません。
昭和13(1938)年3月、ソ満国境(=ソ連と満州との国境のこと)に位置するオトポールという街に、ナチスから逃れようとドイツを脱出した、多数のユダヤ人難民が現れました。彼らは満州国から上海へ向かい、その後にアメリカなどへ逃れようと考えていたのですが、ドイツと友好関係にある日本に気をつかった満州国外交部が、彼らの入国を拒否してしまったのです。
途方に暮れた難民たちは、極寒の原野にテントを張って助けを求め続けましたが、最低気温が氷点下20℃を下回るという厳しい寒さの中で、凍死する者まで現れ始めており、そんな難民らの困難な様子を耳にした、ハルビン特務機関長の樋口季一郎(ひぐちきいちろう)は、熟慮を重ねた末に、人道上の観点から難民の受けいれを決断しました。
樋口の「誇りある決断」によって、数多くのユダヤ人難民が救われましたが、彼の行動はドイツ政府の怒りを招き、日本政府に対して公式の抗議書が届けられたほか、国内でも外務省や陸軍省を中心に樋口の独断を問題視する声が上がりました。
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waravino 大東亜戦争→太平洋戦争はまだいいです。
慰安婦像→平和の少女像!は何ですか?
荒唐無稽どころかもはや絶句するしかありません。
Koreaの歴史捏造と言えば。仕事で朝鮮学校へ行った際。
置かれているマンガ本(教科書?)を見る機会があったんですよ。
そこに描かれてあったのは。
若いKorea人女性が日本兵に追われている場面でした。
(じっくり読める時間もなく直ぐに本を閉じたのですが)
今でもああした反日教育をしているKorea学校を何故?存続させているのか。
豊洲問題・森友問題を遥かに上回る大問題だと思うのですがね。
ブログ更新。お疲れ様です^^)/
waravinoさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
やはり色々と問題がありそうですね…。
ぴーち こんばんは!
そうでしたか・・
組織というのは、個人が決めた判断が
いかに正しいものであったとしても
相談も無しに決めてしまったという
観点だけで「悪」だと決めつけられてしまう所が
辛い所ですよね。
判断を急する様な
現場に一番近い人間が指示出来る
機動性も決まりごとに入れて
頂きたいものです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですよね。
今回の場合も、樋口将軍の人道的な措置に対して、国内からも非難の声があがりましたが、ごれを防いだのは誰かと言うと…。
「参謀長はヒットラーのお先棒を担(かつ)いで弱い者いじめをすることが正しいと思われますか?」
樋口の主張がもっともであると認めた東條によって、軍司令部内での樋口に対する批判は下火となり、ドイツの抗議は不問に付され、事件は鎮静化したのです。
この後、樋口は終戦直後の「占守島(しゅむしゅとう)の戦い」で戦果をあげたことによって、ソ連から戦争犯罪人として裁かれそうになりましたが、ユダヤ人たちの間で救出運動が広がったこともあって、最終的に回避されました。
もし、オトポール事件における樋口の決断を、関東軍参謀長であった東條が支持したことが当時の世界に知れ渡っていれば、東條自身のその後の運命も、あるいは変わったものとなったかもしれません。
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満鉄と言えば、超高性能の蒸気機関車によって牽引(けんいん)された、全客車冷房完備の「特急あじあ号」が特に有名ですが、我が国が戦前の段階でこれだけの技術力を誇っていたからこそ、戦後の昭和39(1964)年に東海道新幹線を開通させることが可能だったのです。
さて、長いあいだ「根っからの軍人」であった東條が、54歳にして初めて政治とのかかわりを持ったのは、先述のとおり昭和13(1938)年5月の陸軍次官就任でしたが、彼が「政治的責任のある地位」となった期間はさらに短く、昭和15(1940)年7月22日の第二次近衛内閣の陸軍大臣就任以降、くしくも同じ日である、昭和19(1944)年7月22日の総理大臣辞任までの4年間に過ぎません。
しかも、東條が総理大臣に就任した昭和16(1941)年10月には、内政あるいは外交のあらゆる面において、すでに大東亜戦争の開戦への道のりがほぼ出来上がってしまっていたという「厳然たる流れ」が存在し、これに対して、東條首相が最後の最後まで戦争回避に全力を尽くしていたという「知られざる事実」があったことを、皆さんはご存知でしょうか。
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ぴーち こんばんは!
あじあ号というのは
初めて聞いた名前です!
その発展が東海道新幹線の大元になった
と言うのを伺い、更に納得させて
頂きました^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 あじあ号は当時の世界最新の技術でしたからね。
戦前の「弾丸列車計画」が東海道新幹線につながっているのも納得です。
嘉永(かえい)6(1853)年にペリーが浦賀に来航して以来、アメリカは我が国に対して一定の理解を示し続けた国でした。だからこそ、我が国は日露戦争の終結へとつながったポーツマス条約の締結を、アメリカのセオドア=ルーズベルト大統領に斡旋(あっせん)してもらったのです。
しかし、我が国が日露戦争に勝利したという事実は、アメリカをして我が国に警戒感を植え付けせしむ結果をもたらしましたし、さらに、戦争後に鉄道王ハリマンが提案した南満州鉄道の共同経営を、結果として我が国がはねつけたことも、満州など東アジアでの権益を狙っていたアメリカの対日感情の悪化につながりました。
かくして、アメリカは我が国に対して敵意をむき出しにするようになり、将来もし日本と戦争状態となることを想定すれば、目障りな存在でしかなかった日英同盟を、第一次世界大戦後のワシントン会議によって、日・米・英・仏の四ヵ国条約と引きかえに、大正10(1921)年に破棄させました。
この日英同盟の終わりが、その後の我が国と世界の運命に甚大な影響を与えたことを、現代の日本人は忘れてしまっていますが、この事実はもっと意識されるべきことです。
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ぴーち こんばんは!
アメリカは自国よりも優れた国を
明らかに敵視する傾向が高いのですね。
なんでも一番でなければ
許せないと言うのは、アメリカの最大の自負で
あり、最大の欠点でも有りますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 当時のアメリカにはそのような傾向がありましたね。
現代でもさして変わらないようですが…。
アメリカによる一方的かつ冷酷な態度に、日本人の多くはアメリカに対するそれまでの感情を激変させ、敵視するようになりました。
後に我が国がアメリカと大東亜戦争を始めた際、日本国民の多くが「大変なことになった」と思いましたが、それと同時に「積年の思いが晴れてスッキリした」と考えた人々も決して少なくなかったのです。
なお、日本人排斥移民法が成立した当時は摂政宮であられた昭和天皇は、後年に「先の大戦の遠因はアメリカ移民の問題であり、近因は石油が禁輸されたことである」と仰られておられます。
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ぴーち こんばんは!
う~ん。
今のトランプ政権も日本こそ集中的に敵視しないものの、同じような事を他の国にしている所を見ると
アメリカという国の本質を疑ってしまいます(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに、こうした外交はアメリカの伝統でもあるようです。
そして、この時にはその標的が我が国だったわけですね…。
我が国は蒋介石への援助を断ち切るため中国の沿岸を封鎖しましたが、各国は日本軍の勢力範囲外の陸路を通じて援助を続けました。なお、これらの陸路を当時は「援蒋(えんしょう)ルート」と呼んでいました。
援蒋ルートの主なものには仏印(=フランス領インドシナ、現在のベトナム・ラオス・カンボジアに相当)ルートやビルマルート・西北ルート・南支ルートの4つがありましたが、このうち最も重要だったのは仏印ルートであり、全ルートの半分以上の輸送量を占めていました。
我が国はフランスに対して仏印ルートによる援助行為を禁止するよう申し入れましたが、フランス政府は容易に承諾しようとしませんでした。しかし、1940(昭和15)年にフランスがドイツに降伏すると、仏印ルートの封鎖を認めるようになり、2ヵ月に及ぶ外交交渉の末に協定が成立し、これに基づいて我が国は日本軍を仏印に進駐させました。これを北部仏印進駐といいます。
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ぴーち こんばんは!
確かにその国の息の根を止める為には
資金を断つ事が最大の効果をあげる事になりますもんね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かにその国の息の根を止める為には
> 資金を断つ事が最大の効果をあげる事になりますもんね!
そのとおりです。
だからこそ、こうしたいわれなき経済封鎖は結果的に戦争へとつながってしまうのです。
アメリカやイギリスを中心とする重要資源の輸入制限に悩まされた我が国は、蘭印(=オランダ領東インド、現在のインドネシア)に対して戦略物資の輸入の交渉を始めましたが、当時のオランダは裏でアメリカやイギリスとつながっており、断続的に行われた交渉は最終的に失敗に終わりました。
こうして、アメリカ(America)・イギリス(Britain)・中国(China)・オランダ(Dutch)といった東アジアに権益を持つ国々が、共同して我が国の南方進出を抑えようとする構図が形成されました。これをABCDライン(またはABCD包囲網)といいます。
ABCDラインの中心となったのはアメリカでしたが、ハリマンが提案した南満州鉄道(=満鉄)の共同経営の拒否以来、長い時間をかけて反日体制が構築されてきたとはいえ、なぜここまで強気の姿勢を崩さず、我が国を追いつめようとしたのでしょうか。
実は、この背景にはアメリカとイギリスによる「利害の一致」に基づく共同戦線があったのです。
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ぴーち こんばんは!
自国の利益の為なら
とことん相手を食い物にすると言う考え方も
貪欲過ぎれば、その後の腹痛に
苦しめられるというものを知っていただかないと・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
現状の世の中も、果たしてどうなることやら…。
一方、アメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領も「攻撃を受けた場合を除いて絶対に戦争はしない」と公約して三選を果たしたものの、ニューディール政策の行きづまりもあって経済が疲弊(ひへい)し、失業者が増加していました。
これらを打開するため、チャーチルとルーズベルトが手を組み、まず日本に先に攻撃させるかたちによって日米間で戦争を起こさせ、その後に日本と同盟関係にあるドイツとアメリカが戦えるように仕向けたのではないかと考えられているのです。
実際、アメリカによって昭和15(1940)年に日米通商航海条約を廃棄させられた我が国は、物資や石油などの重要な資源の不足に悩まされたことで、蘭印(=オランダ領東インド、現在のインドネシア)に対して戦略物資の輸入交渉を続けましたが、先述のとおり、アメリカやイギリスとつながっていたオランダによって、交渉は暗礁(あんしょう)に乗り上げました。
このため、我が国はフランスに対し、植民地である仏印(=フランス領インドシナ、現在のベトナム・ラオス・カンボジアに相当)の南部に日本軍を進駐させるよう交渉を続けました。
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ぴーち こんばんは!
いかにも金と権力を
最大限に活かそうとする
大国らしいモノの考え方なのではないかと
思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私も同感ですね。
だからこそ、外交力や抑止力などによって、大国に負けない国家になるか、あるいは大国そのものにならねばなりません。
フランスとの交渉が合意したことで、我が国は第三次近衛内閣が誕生した直後の昭和16(1941)年7月28日に南部仏印進駐を開始しましたが、日本軍の進駐で自国の植民地支配に危機が生じると判断したアメリカは、我が国の南部仏印進駐を非難したばかりか、直後の8月1日に、在米日本人の資産凍結や石油を含む主要物資の対日輸出全面禁止などという措置をとりました。
言うまでもないことですが、20世紀の国家が石油なくして存在できるはずがありません。それなのに石油を我が国に一滴たりとも「売らない」というアメリカの行為は、我が国に「死ね」と言っているに等しい暴挙でした。
なお、1928(昭和3)年にパリ不戦条約が結ばれた際、条約批准の是非をめぐってアメリカ上院議会で討議が行われた際に、当時のケロッグ国務長官が「経済封鎖は戦争行為そのものである」と断言しています。彼の言葉を借りれば、アメリカによる石油禁輸こそが我が国に対する先制攻撃だとは言えないでしょうか。
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ぴーち こんばんは!
確かに
暴力というのは何も直接
暴行を加えたりする事意外にも
言葉や、今回の様な経済に直接
影響するようなことも含めて
暴力と言えますものね。
まあ、個人的には
石油の無い生活でも
やってやれなくはありませんが
日本国全体の事を考えれば
いきなり供給がストップすれば
混乱は避けられないでしょうね・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、経済制裁も立派な暴力行為です。
当時の我が国がどんどん行き場をなくしているのが悲しいですね。
なお、この会議において、戦争ではなくあくまで外交的な解決を望まれた昭和天皇は、明治天皇がお詠みになった御製をご披露されておられます。
「四方(よも)の海 みなはらからと 思う世に など波風の 立ち騒ぐらむ」
(※はらから=兄弟姉妹のこと)
御前会議の終了後、対米関係の悪化に苦慮していた近衛首相は、事態打開のためにフランクリン=ルーズベルト大統領と直接会談しようとしました。駐日大使のグルーは首脳会談の早期実現を本国に強く訴えましたが、アメリカはこれに応じず、昭和16(1941)年10月2日に会談の拒否を我が国に通告しました。
頼みの綱であった首脳会談が幻に終わり、対米交渉の外交期限も近づいた同年10月18日に、近衛首相が内閣を総辞職したことにより、替わって東條英機内閣が誕生することとなったのです。
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ぴーち こんばんは!
願わくば、話し合いでどうにか
戦争を回避出来ればと思ったのに
拒否されてしまってはどうにもなりませんよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
話し合いを一方的に拒否する段階で、アメリカが戦争する気満々であったことがうかがえますね。
我が国は、最終的にアメリカと大東亜戦争を戦うことになりましたが、実はソ連と戦争する可能性もあったことをご存知でしょうか。その分水嶺となったのは「北進論」と「南進論」の選択であり、またその決め手となったのが「ソ連によるコミンテルンの謀略」でした。
1941(昭和16)年6月に独ソ戦が始まった際に、我が国はドイツを助けてソ連を攻撃する(=北進論)か、あるいは石油などの資源を確保するために南方に進出する(=南進論)かという大きな岐路に立たされました。
しかし、いかにドイツやイタリアと三国同盟を結んでいたとしても、日ソ中立条約が結ばれてからわずか2ヵ月でソ連を攻撃すれば、国際的な非難が集中するのは明白でした。結局、我が国は翌7月に、昭和天皇ご臨席のもとで開かれた御前会議において、南方への進出を決定したのです。
なお、御前会議において、ソ連への攻撃は情勢が有利になった場合に行うこととなり、独ソ開戦後に陸軍が満州などに約70万人の兵力を集結させた、関東軍特権演習と呼ばれた動員も8月に中止されましたが、この決定を誰よりも喜んだのが、東西の二方面から攻撃されるという危機が回避された、ソ連のスターリンであったことは言うまでもありません。
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ぴーち こんばんは!
この時まではソ連が
圧倒的優位な状態だった訳ですか・・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 我が国が北進論をとっていれば、ソ連は絶体絶命でしたからね。
この違いは大きかったと思います。
つまり、我が国はコミンテルンのスパイに操られるかたちで南進以外の選択肢を失ってしまったとも考えられるのです。
そして、この選択は当然のようにアメリカを刺激し、先述した南部仏印進駐による対日石油禁輸など、我が国がますます追いつめられたのみならず、近衛内閣の崩壊を招くとともに、東條内閣の成立という歴史の流れをもたらしたのでした。
なお、近衛内閣の総辞職と前後して、我が国の特別高等警察(=特高)が、ソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動並びに謀略活動を行っていたとして、ゾルゲや尾崎秀実らを逮捕するという、いわゆる「ゾルゲ事件」が発覚しています。
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ぴーち こんばんは!
最終的に
悪い結果を齎す時と言うのは
やはり思惑とは違う
何事も裏目裏目に出てしまう
所が
何とも皮肉なものですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
スパイ活動によって、裏目に導かれたとなれば、なおさら無念の思いがします。
昭和天皇に絶対の忠誠を誓っていた東條首相ならではの方針の転換でしたが、さらに東條は、外務大臣に対米協調派の東郷茂徳(とうごうしげのり)を選んだほか、大本営政府連絡会議を連日開いて、戦争回避への外交策を検討しました。
会議において統帥部から「開戦後2ヵ年は成算があるが、それ以降は不明である」との意見があり、政府もそれを了承しました。当時の我が国の石油の備蓄量は、民需の分を含めて2年分しかなく、まさに石油の有無が我が国の生命線を握っていたと言えました。
この他、外交交渉の期限を昭和16(1941)年11月30日夜12時(12月1日午前0時)と定めたほか、対米交渉の切り札として、アメリカの希望を可能な限り考慮した「甲案」「乙案」を取りまとめました。この時、交渉期限まですでに1ヵ月を切っており、まさに土俵際の外交交渉だったのです。
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ぴーち こんばんは!
この当時の緊迫した雰囲気が
伝わる今日のお話ですね・・
瞬時の判断を余儀なくされた
まさに東條氏の才覚が問われる場面ですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
東条首相のギリギリまでの判断が問われますが、それを木っ端みじんに打ち砕いたのは…。
来栖大使はルーズベルト大統領に我が国の苦しい立場を素直に表明して、交渉に応じるよう懸命に説得しましたが、大統領は言葉を適当にはぐらかして、やんわりと拒否するばかりでした。
実は、この時までにアメリカ側は日本の秘密文書の暗号を解読しており、我が国の交渉過程は筒抜けだったのです。それでも、我が国は切り札として最後まで取っておいた「乙案」も提示したほか、日独伊三国同盟の死文化すら申し入れましたが、アメリカは聞き入れず、11月26日に両大使に対して一つの「外交文書」を突き付けました。
それこそが、悪名高い「ハル・ノート」だったのです。
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ぴーち こんばんは!
申し訳ありませんが
死文化という意味がわかりません(^_^;)
ハル・ノートですか・・
名前だけは聞いた事が有りますが
内容は・・・忘れてしまいました(大汗
ぴーちさんへ
黒田裕樹 「死文化」とは条約や同盟などが何の効果も持たなくなる、という意味です。
ハル・ノートについては次回の更新で明らかにしますが、その内容が…。
1.中国大陸や仏印(=フランス領インドシナ)からの全面撤兵
2.蒋介石の重慶国民政府以外の中国における政府の否認
3.日独伊三国同盟の破棄
もしこれらの条件を我が国が受けいれれば、満州を含む、我が国がこれまでの外交努力によって正式に得た権益をすべて手放すのみならず、汪兆銘(おうちょうめい)の親日的な南京国民政府、さらには満州国すら否認することを意味していました。
要するに、我が国に満州事変以前の状態に戻ることをアメリカは要求したのです。
ただ、ハル・ノートに記された内容は確かに厳しいものがありましたが、例えば満州は中国大陸に含まれないなど、我が国がハル・ノートの条件を検討する姿勢を見せながらも粘り腰で様々な工作を行い、戦争回避に向けてあらん限りの努力をすべきではなかったでしょうか。
現実において我が国はそうした外交努力をすることもなく、ハル・ノートの条件を認められないという結果となりましたが、それは同時に対米交渉の打ち切りを意味しており、もはやアメリカと戦争するしか道が残されていないということにつながりましたが、それこそがアメリカの思う壺でもありました。
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ぴーち こんばんは!
そうですよね。
戦争に対してこの当時の日本は
安易な事と捉え
ことの重要性を無視し
高を括った考え方で居たのでは
無いでしょうかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 当時の状況は確かに厳しかったですが、最初からあきらめては話になりませんからね。
最後の最後まで努力すべきだったのかもしれません。
それにしても、なぜアメリカはこうした「最後通牒」ともいえるハル・ノートを我が国に突き付けたのでしょうか。
アメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領は、自国の疲弊した経済の打開や、あるいはイギリスを助ける意味などもあって、日本との戦争を望んでいましたが、先述のとおり、大統領自身は「攻撃を受けた場合を除いて絶対に戦争はしない」とアメリカ国民に公約していました。
アメリカが日本と戦争するためにはその第一撃、すなわち先制攻撃を日本に始めさせる必要があり、その引き金としてハル・ノートを我が国に突き付けたのです。この後、我が国が対米開戦に踏み切ることで、アメリカの目標は達成されたのでした。
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ぴーち こんばんは!
まあ、確かに屈辱的な問題だったかも
知れませんが、最終的には
手を出した方がどうしても不利になるということは
十分、理解出来たはずだと思うんですが・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 手を出した方がどうしても不利になるということは
> 十分、理解出来たはずだと思うんですが・・
確かに仰るとおりなのですが、分かっていても「座して死を待つよりは」という思いに駆られたともいえそうですね。
もしハリー=ホワイトが本当にソ連のスパイであったとすれば、彼がフランクリン=ルーズベルト大統領に取り入ったことで日米間に埋めようもない深い溝を構築し、日米開戦を誘発したことになりますが、果たしてソ連にそのようなメリットが存在したでしょうか。
アメリカはかねてから東アジアにおける権益を狙っており、そのための障害となっていた日本を敵視し続け、日米開戦によって、ついに我が国を中国大陸などから駆逐(くちく)することに成功しましたが、我が国の後釜としてソ連と同じ共産主義国家の中華人民共和国が成立したことなどで、戦後にアメリカが得た「果実」はほとんど存在せず、さらに日本の弱体化によって、東アジアは当時の東ヨーロッパと並んで世界で最も「赤化」した地域となってしまったのです。
こうした歴史的事実を鑑みれば、ルーズベルト大統領の夫人が共産主義に憧れていたように、アメリカの大統領近辺にまでソ連のスパイが暗躍していたという説は、十分に成立すると言えるのではないでしょうか。
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ぴーち こんばんは!
アメリカという国が無防備なのか
或いはソ連がそれを上回る強者なのか・・
存じませんが、
事実、共産主義はジワジワ浸透していったんですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 この場合は、大統領自身とその近辺を完全に抑えたコミンテルンの策謀の巧みさに軍配が上がるでしょうね。
しかし、いわゆるハリマン問題などを原因としてアメリカとの間に出来た溝は、やがて人種差別に基づく日本人敵視政策を生みだし、また昭和初期のアメリカやイギリスなどによるブロック経済は、世界との貿易で生計を立ててきた我が国に大きな打撃を与えました。
さらに、巨大な共産主義国家であったソ連による軍事的あるいは思想的脅威は、我が国の内外に大きな刺激を与え、関東軍による満州事変から満州国建国への流れを導くとともに、大日本帝国憲法(=明治憲法)の大きな欠陥であった「統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)問題」が、軍部の独走をもたらしました(詳しくは後述します)。
加えて、日華事変の泥沼化が我が国の体力を徐々に奪ってきたところへ、日独伊三国同盟や北部仏印進駐などをきっかけにABCDラインが引かれ、資源を求めて合法的な南部仏印進駐を行えば石油禁輸となり、それでも粘り強く対米交渉を行えば、ハル・ノートを一方的に突き付けられました。
かくして、命綱でもあった石油の入手経路を完全に断たれたばかりか、国家としての存続も風前の灯となってしまった我が国は、自衛のための最終手段として、日米開戦の選択肢しか残らないという状況に追いつめられてしまったのです。
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ぴーち こんばんは!
何とも
怒涛の如く
悪循環のスパイラルにはめられていった様子が
分かりますね(^_^;)
最終的にその道を選ばざるをえない状況に
導かれるというのは、仏法的な解釈ですと
如何に日本が
謗法の毒気にまみれた国であるかが
窺い知れます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、仏法的な解釈ですね。
この場合、毒気はコミンテルンの策謀なのか、それともアメリカの横やりか。あるいは我が国の至らなさか…。