我が国は併合の段階で、朝鮮半島に対してかなりの負担をしていたことになりますね。だとすれば、併合後には搾取していたのでしょうか。
事実は全く逆です。我が国が終戦を迎えるまでの35年間の統治において、我が国は朝鮮半島に対して約20億円(現在の価値で約60兆円)を支援し続けています。この他にも、朝鮮半島への鉄道建設に当時で6,600万円の巨費をかけるなど、軍事関連を除く民間資産は、GHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)の調査で約53億ドル(現在の価値で約15兆円)にものぼっています。
我が国が朝鮮半島にもたらした資源は、モノばかりではありません。我が国は併合当時100校に過ぎなかった朝鮮半島の小学校を5,000校にまで増やしました。また、帝国大学を京城(現在のソウル)に設置しましたが、これは大阪や名古屋よりも早かったのです。この他にも、京城医学専門学校をはじめとした各種単科大学を設立し、朝鮮人弁護士制度もつくりました。
要するに、我が国は毎年のように朝鮮半島に対して多額の資金を投入していましたが、その一方で、本土への予算が十分に行きわたらなかったことが、恐慌や飢饉(ききん)が連続して発生したことも重なって、昭和初期を中心に我が国で不穏(ふおん)な動きが相次いだ遠因になったとも考えられています。
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ぴーち こんばんは!
現在もそうですが
日本という国はどれだけ
お金の援助をしまくっても
他国から白い目で見られなければならない
業の深さを持ちあわせている国だなと
しみじみ感じます。
なかなか報われない哀れな国では有りますが
それでも皆、他の国よりも幸せな場所だと
思っている所がまだ救われる箇所でも
有りましょうか・・(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ある意味、我が国は「究極のお人よし国家」であるといえます。
だからこそ、尊敬もされる一方で、報われないこともありますね。
教師の待遇
青田です。 青田です。
昔、作家の五木寛之の自伝を読んだことがあります。
五木寛之のお父さんは、日本から、赴任された学校の教師だったそうです。
当時は、日本で、学校の教師をするよりも、韓国で教師をするほうが
給与、待遇面で、、かなり、良かったので、多くの日本の教育者が、韓国に赴任したがったそうです。
この事実をあまり、知られていね。
青田さんへ
黒田裕樹 そんな事実があったんですね。
存じ上げませんでした。ご教授有難うございます。
なぜか、日本の歴史で教えないこと
- 青田です。
なぜか、この日韓関係を論じるとき
日本の歴史教育
台湾について、ほとんど、記述ありません。
人間は、相対的にしか考えられないので、台湾のことを知らなければ、韓国の問題も見えてこないと思います。
忘れてはいけないのは、台湾も日本の植民地でした、
台湾も韓国と同じようにインフラ、教育を整備しました。
ここで、一番、重要なのは、台湾が一番、最初に戦後保障を自ら、放棄したという事実です。
この事実を知らないと、韓国の主張が本当に正しいのかが、見えてこないと思います。
その台湾を中国に配慮して、切ったのは、日本です。
それでも、日本が東北沖地震で、困ったときに
48億5374万台湾ドル(約141億円)もの巨額の義援金を提供した台湾では、新聞広告は出しませんでした。中国本土の3億4000万円(3月末時点)、韓国の16億円と比べても台湾の義援金額は突出してます。
さて、台湾の人口は現在・・・2346万人です。世帯数は838万世帯
141億円/838万世帯=
1682円!!!!です。
日本のマスコミは、中国に配慮(遠慮)しすぎて、このことをあまり、報道しません。
青田さんへ
黒田裕樹 我が国の歴史教育に対する「無用な忖度」は願い下げにしていただきたいですね。
大和魂
- やはり、日本の歴史教育の大前提は
愛国心・誇りだと思います。
チャイナ、韓国は、政治的、経済的に重要なのは
わかりますが、愛国心・誇りを無くした歴史教育には意味がないと思います。
『もっとしっかりしろ、ジパング(JAPAN)』と思ってしまいます。
名無し(?)さんへ
黒田裕樹 > 愛国心・誇りを無くした歴史教育には意味がないと思います。
私も同感です。だからこそ、教員になった次第です。
歴史教科書を中心に「日本は朝鮮人から朝鮮語を奪った」という主張がよくなされているようですが、事実は全く逆なのです。
また、同じように「朝鮮人から名前を奪った」とされる、いわゆる「創氏改名(そうしかいめい)」ですが、これも実際には全く逆であって、元々は朝鮮人が日本名を名乗るのを禁止していたのを、1930年代に「同じ日本人でありながら半島の人間が日本名を名乗れないのは差別である」との声が高まったことで、昭和14(1939)年に導入されたものであり、その件数は、届け出期間中に全戸数の79%にまで達しています。
しかも、この制度は日本名を強制させるものではなく、当時の朝鮮総督が「氏の創設は強制ではない」と何度も指示を出しています。また、改名しなかったからといって差別を受けることもなく、新聞紙上において朝鮮名の選手の活躍ぶりを称える記事が、創氏改名後の当時の大阪朝日新聞に掲載されています。
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ぴーち こんばんは!
朝鮮人から名前を奪った??
すみません。少し苦笑してしまいました(^_^;)
そんなことまで言われなければいけないのですか?
物事というのはネガティヴに捉えると
とことん攻撃の材料にされてしまうものなんですね・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 残念ながら、現実は仰るとおりなんです。
歴史的事実をしっかりと認識していただきたいのですが…。
大正8(1919)年、アメリカのウィルソン大統領の民族自決(=各民族が自らの意志によってその帰属や政治組織あるいは政治的運命を決定し他民族や他国家の干渉を認めないとする集団的権利のこと)に関する宣言に触発された朝鮮人によって、3月1日に京城を中心に各地で集会が行われました。
集会では「独立万歳」の声が上がり、やがて示威(しい、威力や気勢を他に示すこと。いわゆるデモのこと)行為が朝鮮全土に広がったことによって警察との衝突が起こり、最後には軍隊も出動して流血の惨事となってしまいました。
これを三・一(さん・いち)事件、あるいは万歳事件といいます。三・一事件は不幸な出来事でしたが、その後の裁判によって死刑を宣告された人間は一人もいませんでした。当時の朝鮮総督である斎藤実(さいとうまこと)が融和策をとったからです。斎藤総督はその後も集会や言論、あるいは出版に一定の自由を認めるなど、事件の反省を受けて朝鮮半島における統治政策を緩和しました。
一方、我が国は朝鮮の王室を滅亡させませんでした。大正10(1921)年には我が国の皇族の梨本宮方子妃殿下(なしもとのみやまさこひでんか)が朝鮮王室の李垠(り・ぎん)王世子(おうせいし、皇太子のこと)と結婚され、方子妃殿下は「日韓の架け橋」として、1989(平成元)年に亡くなられるまで多くの韓国人から慕われました。
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ぴーち こんばんは!
日韓の架け橋ですか・・
そう呼ばれるにはそれ相当の覚悟と
努力が要された事でしょうね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私もそう思います。
それにしても、1980年代までは、まだ韓国と友好な関係が築けていたのですが、それ以降は…。
確かに朝鮮半島や台湾の人々が、日本各地の炭鉱や工場で働いたことは事実ですが、それらは昭和14(1939)年7月に制定された国民徴用令(こくみんちょうようれい)に基づくものであり、しかも台湾では本土と同時に施行されたのに対して、朝鮮半島ではしばらく徴用(=戦時などの非常時において国家が国民を強制的に動員して一定の仕事につかせること)を免除されていました。
その後、戦局の悪化に伴って、昭和19(1944)年9月から朝鮮の人々にも国民徴用令が適用されましたが、日本本土への徴用が行われたのは、昭和20(1945)年3月までの約7ヵ月間だけでした。
つまり、現代の朝鮮の人々などによって主張されてきた、いわゆる「強制連行」は、当時の「日本国民全員」が等しく受けていた「徴用による労働の強制」に過ぎず、しかもその期間は一般的な日本人よりもはるかに短かったのです。
ちなみに、戦時中に徴用されて我が国に渡航し、戦後の昭和34(1959)年の時点で日本に残っていた朝鮮人は、当時登録されていた在日朝鮮人約61万人のうちわずか245人だった事実が国会での質疑の中で判明しており、しかもその245人は、自分の自由意思によって日本に留まった者か、あるいは日本生まれであり、日本政府が本人の意志に反して日本に留めているような朝鮮人は、犯罪者を除いて一人もいなかったということが明らかになっています。
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ぴーち こんばんは!
物事の本意を歪めようとする者の
言う常套句みたいな文句ですね(^_^;)
己を正当化しようと思えば思うほど
泥沼に陥ることも知らないのでしょうか??
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
現在のかの国は、そのような泥沼の状態と化しているのかもしれません。
朝鮮半島では昭和13(1938)年に志願兵の募集が始まりましたが、定員の7倍以上の応募がありました。その後も驚くべき高倍率が続いて志願者が殺到し、昭和17(1942)年には62.4倍にも達しました。
高倍率の背景には、一部の下級官吏(かんり)による説得があったとされていますが、血書嘆願して志願する者もいたなど、朝鮮人全体の士気が高かったことは間違いなく、こうした流れがあったからこそ、昭和19(1944)年になってから、ようやく朝鮮半島でも徴兵制が実施されたのです。
ちなみに、朝鮮人で兵役に就いた人々の中には、難関を突破して陸軍士官学校や海軍兵学校に進み、日本軍の将校となったのも少なくありませんでした。軍の世界においても民族差別が存在しなかった何よりの証拠ですね。
なお、朝鮮人の将校としては、本名のまま陸軍中将にまで昇進した洪思翊(こうしよく)が有名ですが、彼は戦後にB級戦犯として裁かれ、フィリピンで処刑されています。
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ぴーち こんばんは!
私の主観からすればですが
軍への志願者が多いというのは
あまり穏やかではない情勢だなと感じます。
確かに
一時、国としては士気が高まるかも知れませんが
直ぐに下降線を辿る気がしてなりません・・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんの懸念も良く分かります。
平和な現代ならともかく、当時は食うか食われるかの帝国主義でしたので、その背景も考慮すべきかと思います。
終戦時に朝鮮半島に残していた約53億ドル(現在の価値で約15兆円)にものぼる民間資産は、すべて朝鮮側によって没収されました。それだけではなく、戦後の昭和40(1965)年に結ばれた日韓基本条約によって、我が国は無償あるいは有償の資金8億ドル以上(当時の1ドルは360円であり、また当時の韓国の予算は約3.5億ドルでした。提供総額は現在の価値で約4兆5,000億円です)を韓国に提供しています。
さらに昭和27(1952)年1月には、前年にサンフランシスコ平和条約を結んでこの年の4月に独立を回復することになっていた我が国の隙(すき)をつくかたちで、韓国の当時の李承晩(イ・スンマン)大統領が我が国固有の領土である島根県隠岐(おき)の島町の竹島に侵攻して、現在においても韓国が不法に占拠を続けています。
併合中に約20億円(現在の価値で約60兆円)を支援したのに対して、約53億ドル(現在の価値で約15兆円)の民間資産を没収されたばかりでなく、8億ドル以上(現在の価値で約4兆5,000億円)の資金を新たに提供させられ、さらには我が国固有の領土まで奪われてしまう。我が国が朝鮮半島を併合したことによって「搾取される」立場になったのは、果たしてどちらの国だったのでしょうか。
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ぴーち こんばんは!
そうですね・・・
これも因果応報。
相手に嫌な思いをさせれば
必ずその報いを受ける事になりますからね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、因果応報ですね。
戦後の日韓の流れが、現在の関係を形づくっているとすれば、まさしく仰るとおりです。
その後の協議によって、結局は韓国政府が補償を受け取って分配することになりましたが、実際には、それらの補償は韓国の経済発展のために使用されました。
さらに、条約の締結によって、日韓両国は「北朝鮮を含むすべての戦後補償は完全に解決した」ということになっていますが、現在においても、様々な手段を通じて、韓国側などから個人補償の請求が後を絶ちません。
しかも、韓国が一方的に不法占拠を続けている、我が国固有の領土である島根県の竹島に関して、条約において一切触れられずに「棚上(たなあ)げ」とされたことから、こちらの解決も一向に進んでいないのが現状なのです。
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ぴーち こんばんは!
こういうのを「強請集り」というのでしょうか(^_^;)
それにしても個人がこれを行えば
刑罰を与えて直ぐに解決するでしょうけれど
国家ぐるみでしてくるのは
なかなか直ぐに解消・・という訳には
いかないものなのでしょうね・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、うまくいかないものですね。
現在の関係が大きく変われば、あるいは新たな展開を迎えるかもしれませんが。