日露戦争の勝利によって朝鮮半島からロシアが手を引いたことで、我が国はようやくロシアの南下政策を食い止めるとともに、韓国の独立を保つことができました。しかしながら、清国からロシアへと事大主義に走る韓国をそのままの状態にしておけば、またいつ「第二、第三のロシア」が出現して、韓国の独立と我が国の安全保障が脅かされるか分かったものではありません。
そこで、我が国は韓国の独立を保ちながら、軍事権や外交権などを握ることによって、韓国を「保護国」とする方針を固めました。我が国と韓国は、日露戦争中の明治37(1904)年に、日本による韓国防衛の義務などを明記した日韓議定書(にっかんぎていしょ)を結ぶと、同じ年に、韓国政府の財政や外交の顧問に日本政府の推薦者を任命するとした第一次日韓協約を結びました。
日露戦争終結後の明治38(1905)年には第二次日韓協約(=日韓保護条約)を結び、韓国の外交権を我が国が持つことで、韓国は事実上我が国の保護国となりました。また、条約に基づいて首都漢城に統監府(とうかんふ)を置き、伊藤博文が初代統監となりました。
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ぴーち こんばんは!
どうなんでしょうか・・
韓国側には
日本の思いは通用しなかったのでしょうか?
結果的には日本はただのお節介者として
認識されている気がしてならないですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 結果的には日本はただのお節介者として
> 認識されている気がしてならないですね。
仰るとおり、結果としてそうなりました。
残念な話です。
しかし、会議に出席していた列強諸国が条約の違法性を認めずに密使の会議への参加を拒絶したことで、韓国は目標を達成できませんでした。高宗や密使らの当初の思惑とは裏腹に、国際社会が第二次日韓協約の正当性を認めたことにもつながったのです。
韓国の面従腹背(めんじゅうふくはい)ぶりが明らかになったことで、韓国は当時の国際社会の信頼を損なうと同時に我が国の激怒を招き、高宗は退位に追い込まれました。そして同年に第三次日韓協約が結ばれ、韓国の内政権が完全に日本の管轄下に入ったことで、我が国による統治がさらに強化されることになりました。
ハーグ密使事件を受けて韓国への感情が悪化した我が国では、保護国ではなく韓国を日本の領土として併合するべきだという意見が強くなりましたが、そんな情勢に身体を張って反対したのが、初代統監の伊藤博文でした。
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ぴーち おはようございます^^
伊藤博文は
韓国の高宗の屈辱的感情を
汲んでの配慮だったのでしょうかね・・・?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 伊藤博文は
> 韓国の高宗の屈辱的感情を
> 汲んでの配慮だったのでしょうかね・・・?
併合による我が国側の負担(これは後述します)もあったと思いますが、仰るような感情論も十分あり得ます。
しかし、それを木っ端みじんにしたのは…。
教育者であるとともに植民地政策に明るかった新渡戸稲造(にとべいなぞう)が、韓国の植民地化に関する計画を伊藤に持参した際にも、伊藤は「植民地にしない」と一蹴(いっしゅう)したうえで、韓国人による韓国の統治の必要性を、時間をかけて新渡戸に説明したというエピソードが残っています。
「韓国は韓国人によって統治されるべきである」。我が国初の内閣総理大臣であり、維新の元勲でもある伊藤だけにその発言は重く、伊藤が生きている間には韓国が併合されることはないだろうと考えられていました。
しかし、その伊藤が、よりによって韓国人に暗殺されてしまうという悲劇が起こってしまったのです。
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ぴーち こんばんは!
崇高な
志というのは何時の時代も
なかなか理解され難いものですね。
正しい道を歩もうとすればするほど
思い通りには進まず、あえなく
遮断させられてしまうこともありますね。(;´д`)トホホ…
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
時として虚しさも感じますが、それでも前を向いて進むしかありません。
熱心な愛国家であったとされる安重根からしてみれば、初代統監として韓国を保護国化した伊藤の罪は重く、また伊藤こそが韓国を併合しようとしている首謀者だと考えたのかもしれません。しかし、伊藤が韓国人によって殺されるということは、現実には絶対にあってはならない出来事でした。
伊藤は維新の元勲で我が国にとって至宝(しほう、この上なく大切な宝のこと)ともいうべき存在でしたし、何よりも併合に最後まで反対していた人物です。日本政府内に併合に前向きな勢力が多い中であくまでも友好的だった人物に対し、テロ行為でお返しするというのは、どう考えても言語道断であるといわざるを得ません。
安重根によるテロ行為は、それがどのような思いのものからであったとしても、結果として我が国と韓国との歴史をそれぞれ大きく変えてしまう出来事となってしまったのです。なお、安重根は現在の韓国(=大韓民国)では英雄として称(たた)えられています。
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ぴーち こんばんは!
なんとも嘆かわしい話ですね。
あっては成らない事が起こるのが世の常かも知れませんが・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、嘆かわしいですね。
強い表現になるかもしれませんが、いわゆる「自業自得」の典型だと思います。
しかし、我が国は併合に対してあくまで慎重でした。日韓併合が国際関係にどのような影響をもたらすのかを見極める必要があったからです。そこで、我が国が関係国に併合の件を打診すると「我々が韓国と不平等条約を結んでいた条件を変更さえしなければ問題ない」という虫が良い話があっただけで、表立って反対する国は存在しませんでした。
その後、イギリスやアメリカの新聞も、東アジアの安定のために併合を支持するという姿勢を見せたことで、我が国は初めて日韓併合条約を結んだのです。時に明治43(1910)年8月22日のことでした。なお、併合後には朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)が置かれ、後に内閣総理大臣となった寺内正毅(てらうちまさたけ)が初代総督を務めています。
日韓併合は、このような慎重な手続を踏まえたうえに、国際的な世論の同意も得て初めて実現したのでした。なお、平成13(2001)年に、日韓併合条約の有効性が日本と韓国(=大韓民国)との間で議論された際に、韓国側が「強制的に併合されたから無効である」として国際会議に訴えましたが認められず、21世紀においても、国際社会が日韓併合における我が国による朝鮮半島支配の正当性を認めていることが確認されています。
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ぴーち こんばんは!
雨降って地固まる・・でしょうか・・
伊藤博文の死も強ち無駄では無かったのかも
知れませんが
韓国が必死に抵抗している姿が
なんとも物悲しく思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 伊藤博文の死によって、我が国は韓国を併合することになりましたが、その後の歴史を考えると「雨降って地固まる」になったかどうかは意見が分かれそうですね。
歴史の結果は、抵抗するよりも甘んじて受け入れた方が次につながると思いますが…。