7世紀の前半には、我が国初の女性天皇でいらっしゃる推古天皇(すいこてんのう)の摂政となった聖徳太子(しょうとくたいし)によって、603年には冠位十二階(かんいじゅうにかい)が、604年には憲法十七条が制定されたほか、607年には小野妹子(おののいもこ)を遣隋使(けんずいし)として隋(ずい)に渡らせ、対等外交を樹立するなどの輝かしい実績を残しました。
また、朝廷による中央集権体制を確固たるものとした大化の改新や、天皇中心の力強い国家体制をつくりあげるとともに、懸案となっていた外交問題を解決するきっかけとなった壬申(じんしん)の乱も、いずれも7世紀の半ばから後半にかけて起きているのです。
今回の講座では、聖徳太子以後の我が国の方針を決定づけた、7世紀の「2つの政変」について、様々な観点から詳しくご紹介したいと思います。
※下記の映像は12月10日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
これはまた一気にまた振り出しに戻った気分に
なりました(笑)
聖徳太子が活躍していた時代ですね。
私にとっては全く未知の世界の話ですし、まだまだ
知り得ない事も山ほどありますので
また勉強させてくださいm(__)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 現代史から久々の古代史ですからね(笑)。
あまり知られていない時代ですので、これからじっくりと紹介していきます。
聖徳太子のご逝去と推古天皇の崩御によって、朝廷で蘇我氏(そがし)が再び政治の実権を握るようになりました。なお、当時の蘇我氏は、蘇我馬子(そがのうまこ)の子である蘇我蝦夷(そがのえみし)に代替わりしていました。
推古天皇の崩御を受け、後継を誰にするかで朝廷内での意見が分かれました。聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を支持する声もあったのですが、結局は蘇我蝦夷が推す田村皇子(たむらのみこ)が、舒明天皇(じょめいてんのう)として即位されました。
舒明天皇の時代の大きな出来事といえば、初めて遣唐使(けんとうし)が送られたことが挙げられます。久しぶりに中華大陸の統一を果たした隋でしたが、無謀な外征や内政の混乱もあって、建国後わずか30年足らずで滅亡しました。そして618年に李淵(りえん)が隋にかわって大陸を統一し、唐(とう)を建国しました。
我が国は、隋と同じように唐に対しても文化の交流をはかるべく、630年に犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)らを遣唐使として送りました。なお、遣唐使はその後も続きますが、ある出来事をきっかけに一時期中断しています。
※下記の映像は12月10日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
今更でしょうけれど
推古天皇は当時としては桁外れにご長命でいらっしゃったんですね!
驚きました。
それにしても、時の権力者には逆らえなかったのですね。聖徳太子のお子さんが跡継ぎをされていたら
また世の中の流れが変わって居たかもしれませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 推古天皇のご長命は喜ばしいことですが、皇太子でもあられた聖徳太子が先にご逝去されたのが、その後の我が国に少なからぬ影響を与えたのが、何とも言えませんね…。
皇極天皇を後継にしたのは、蘇我蝦夷の息子(=馬子の孫)の蘇我入鹿(そがのいるか)でした。入鹿は自分の意のままになる天皇を選び、政治の実権をわが手に握ろうとしていましたが、そのためには優秀な山背大兄王の存在が目障りだったのです。
643年、父親である蘇我蝦夷から大臣(おおおみ)の地位を独断で譲られた入鹿は、返す刀で山背大兄王を攻め立てました。追いつめられた山背大兄王は、一族全員が首をくくって自殺するという非業の最期をとげました。ここに聖徳太子の血統は断絶してしまったのです。
あまりの凶事に、さすがの蝦夷も激怒しましたが、入鹿にとってはどこ吹く風で、新しく建てた自分の家を「宮門(みかど)」と名付けたり、自分の息子を「皇子」と呼ばせたりしました。まさにやりたい放題です。
そんな中で、自らの権力に驕(おご)れる入鹿を忌々(いまいま)しげに見つめる、二人の人影がありました。彼らは一体誰なのでしょうか?
※下記の映像は12月10日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
今日のお話を伺って
人間は生前に世のため人のために精一杯
人事を尽くす事が出来れば
必ず一人くらいはその考え方に賛同してくれる
味方が現れるもので、
いざ、酷い目に遭った時には
その味方が後々援護してくれるものなのだなと
考えを巡らしました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、まさに「因果応報」ですね。
今回の講座での流れはどうなるのでしょうか…。
7世紀前半までに、中華から我が国に伝わったとされる伝説があり、貴族から武士、そして一般民衆に至るまで幅広く親しまれました。一般的には優雅な遊びと見られていますが、鞠(まり)を高く蹴りあげるなど、かなりの技術と体力を有する競技でもあります。
蘇我入鹿が強大な権力を握っていたある日のこと、飛鳥(あすか)の法興寺(ほうこうじ)の広場で、蹴鞠の会が盛大に行われていました。一人の若い男性の皇子が高く鞠を蹴り上げたとき、勢いあまって履(くつ)が脱げて、鞠とともに宙を舞いました。
履は、ある一人の男性の目の前に落ちました。男はすぐに履を拾い上げると、両手でささげるようにして持ちました。皇子の前まで行くと男はひざまずき、恭(うやうや)しく履を差し出しました。皇子も男の前でひざまずき、互いに目を見合わせ、笑みをかわしました。
これこそが、我が国の歴史の大きな転換点となった「大化の改新」を成し遂げた二人である、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)の記念すべき出会いだった、と伝えられています。
※下記の映像は12月10日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
仰るとおり、蹴鞠の様子を見ていますと
高度な技術を要する競技であると
私もテレビなどで拝見する度に
思いますね・。
サッカーなどのリフティング(というのでしょうか?)の技術とはまた違う意味で
難しそうですものね。
それにしても、運命や出会いと言うのは
案外、そういうものなのかも知れませんね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、蹴鞠はかなり高い技術を要します。サッカーよりも難しいかもしれませんね。
運命はどこでどう転がるか分かりません。この後の二人はどうなるのでしょうか?
幼少時から優秀かつ果敢な性格を称(たた)えられていた中大兄皇子にとっては、自分も将来は山背大兄王のような目にあうかもしれない、という思いと、何よりも蘇我氏による専横をこれ以上黙って見ていられない、という強い危機感とを持っていました。
中臣鎌足は代々神事を担当した中臣氏の一族でしたが、我が国で仏教を受けいれるかどうかの問題で、物部氏(もののべし)と共に蘇我氏と対立し、以後は勢力が弱まっていました。彼もまた、蘇我氏のやりたい放題をこのまま見過ごしておけない、という使命感に燃えていたのです。
蹴鞠の会によって出会うべくして出会った二人は、留学生として隋へ渡り、唐になってから帰国した南淵請安(みなぶちのしょうあん)から教えを請うという形で何度も密会し、蘇我氏打倒の作戦を練り続けていました。
二人は、蘇我氏の一族でありながら入鹿の専横を憎んでいた蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)を味方に引き入れることに成功し、石川麻呂の娘が中大兄皇子の妃(きさき)となりました。
※下記の映像は12月10日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
なるほど!
既に幼い頃から世の中の流れや、将来のことも
しっかり見通す力が備わっていたんですね。
先見の明と言うのは、やはり
幼少の頃から磨かれるものなんですね・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 既に幼い頃から世の中の流れや、将来のことも
> しっかり見通す力が備わっていたんですね。
> 先見の明と言うのは、やはり
> 幼少の頃から磨かれるものなんですね
中大兄皇子の場合はまさに仰るとおりですね。
こういった感性が将来役立つこともあれば、そうでないことも…。