しかし、当時の世界情勢は、白色人種による帝国主義(=政治や経済、軍事などの面で他国の犠牲において自国の利益や領土を拡大しようとする思想や政策のこと)が主流となっており、我が国は欧米列強からの侵略や植民地化を免れるために、ありとあらゆる手段で近代化を進めていきましたが、広大な東アジアの中では、我が国だけがいくら頑張ったところで限界がありました。
そんな我が国の生命線を握っていたのが、実は朝鮮半島の存在でした。もし朝鮮半島が白人、特に当時の帝政ロシアに奪われてしまえば、我が国の安全保障が風前の灯(ともしび)と化してしまうのは明白だったからです。
朝鮮半島に独立国が誕生すれば、朝鮮の人々のためになると同時に我が国の安全度も増すと判断した明治政府は、当時の李氏朝鮮(りしちょうせん)に近代化を進めるように働きかけるため、朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王が我が国からの外交文書の受け取りを拒否したのです。
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ぴーち こんばんは!
これまで
私の中の認識として
どうして日本はこれ程までに近代化、近代化と
やたらに経済力に力を入れ、急成長を促されて来たのかと疑問に感じていた部分が有りましたが
侵略や植民地化を免れたいが為に
懸命に遂行されて来た働きかけだったのですね。
これはあくまでも憶測ですが
日本の地理的なものが
特に他国から狙われやすい理由でも
あるからなのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 日本の地理的なものが
> 特に他国から狙われやすい理由でも
> あるからなのでしょうか?
昔の我が国は、周囲を海に囲まれていたのを「天然の防壁」として活用していました。
しかし、蒸気船の開発などによって、大砲などの武器を詰め込んだ船が、我が国の周囲のどこからでも攻め込むことが可能になったことから、一気に「どこからでも攻められる危険な国家」と化してしまったという厳しい現実があったのです。
もちろん我が国にそんな意図はなく、明治新政府となって我が国が天皇中心の新たな中央集権国家に生まれ変わったという意味で、形式的に「皇」や「勅」の字を使用したに過ぎませんでした。我が国は朝鮮に対して理解を求め、新たに「皇」や「勅」の字を使用しない外交文書を送るなど懸命の努力を重ねましたが、態度を硬化させた朝鮮は首を縦に振りませんでした。
我が国と朝鮮とが国交断絶の状態となった一方で、朝鮮を属国としていた中国の清国との間では、明治4(1871)年に対等な条件の日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)が結ばれていました。宗主国である清国が我が国と国交を結んでいるのに対して、属国である朝鮮が国交を結んでいないということは、裏を返せば「朝鮮は明治政府を承認していない」という意思表示でもありました。
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。
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ぴーち こんばんは!
こういうお話を聞くと
改めて外国との考え方の相違を
理解していないと
誤解が誤解を生んで、有らぬ方向へ
話が進んでしまうものだなと
感じました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 残念ながら、それが現実なんです。
形式的な我が国の態度が、まさかこのようなことになるとは。
まさに「後悔」に尽きますね。
もっとも、西郷のような政府の重鎮が朝鮮に出向いて万が一のことがあれば、朝鮮とはそのまま戦争状態となってしまうのは明らかでした。結局、征韓論は明治6(1873)年に欧米列強の外遊から帰国した大久保利通(おおくぼとしみち)らが反対したことで瓦解(がかい)し、敗れた西郷らが政府を下野(げや)しました(これを「明治六年の政変」といいます)が、大久保らの反対にも大きな理由がありました。
当時の政府には「一日も早く近代国家となって欧米列強に追いつかなければならない」という大きな目標がありました。そのためには富国強兵(ふこくきょうへい)や殖産興業(しょくさんこうぎょう)を目指さなければならず、朝鮮へ派兵する余裕は全くなかったのです。
とはいえ、朝鮮との国交も急がなければなりません。そんな折に、我が国と朝鮮との間で一つの事件が発生しました。
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ぴーち こんばんは!
朝鮮とどのような事件が起きたのでしょうか・・
西郷さんの手腕が問われる一件だったのでしょうかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 朝鮮とどのような事件が起きたのでしょうか・・
> 西郷さんの手腕が問われる一件だったのでしょうかね?
残念ながら西郷さんとは無関係です。
日本と朝鮮が国際法を知っているか否かの違いでしたね。
ところで、一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対し、欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や、歴史的な意義を見出すことができません。
確かに日朝修好条規には、朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を治外法権)が認められていましたが、これは江戸時代からの慣習をそのまま成文化したものですし、また関税自主権については、日朝両国がお互いに関税をかけないという取り決めをしているところが、他の不平等条約とは全く異なっています。
それよりも重要なのは、日朝修好条規の第1条で「朝鮮は自主独立の国であり、日本と平等な権利を有する」と書かれていることです。これは、我が国が朝鮮を独立国と認めたことを意味しており、当時の世界諸国が朝鮮を「清国の属国」としか見ていなかったことからすれば、非常に画期的なことでした。
日朝修好条規は朝鮮が初めて自国で結んだ国際条約であり、この条約が結ばれたことで欧米列強も次々と朝鮮と条約を結びました。その内容は我が国が欧米列強と結んだのと同様に不平等でしたが、欧米列強が朝鮮を独立国として認めていることも意味していたのです。
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ぴーち こんばんは!
日本の働きかけの影響が
こんなにも世界中に影響が広がって行ったと言う事に、誇りを感じました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 日本の働きかけの影響が
> こんなにも世界中に影響が広がって行ったと言う事に、誇りを感じました。
そうですよね。
我が国が世界の流れを大きく変えたという事実は動きませんから、誇るべきだと思います。