「日王(にちおう、韓国による天皇をさげすんだ呼び方)は韓国民に心から土下座したいのなら来い。重罪人に相応(ふさわ)しく手足を縛って、頭を踏みつけて、地面に擦(す)り付けて謝らせてやる。重罪人が土下座もしない、言葉で謝るだけならふざけた話だ。そんな馬鹿な話は通用しない、それなら入国は許さないぞ」。
皆さんは、これを聞いてどんな感情をお持ちになられますか?
普通の日本人であれば少なくとも不愉快に思われるでしょうし、中には激しい憤りを感じる方がおられても、決して不思議ではありません。
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ぴーち こんばんは!
少し前ですが
殺人容疑で逮捕されたある親子の話で
娘が酒で酔って寝ている母親の頭を足で踏みつけたのち放置していたら、数日後、母親は死んでいたという事件を思い出しました。
子供が親の頭を踏みつけるという行為自体、
よほどの劣悪な環境の家庭であったことがうかがい知れますが、韓国と日本の関係は韓国側の思惑の深さはいづれにせよ、そのように思い詰めて切羽詰まって居たという程でも無いように思います。
それまで切羽詰まっていた思いがこれまで
あったのなら、もっと険悪な状態が続いてみても
可怪しくはない気がしますが、如何なものでしょう・・?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 日韓関係は複雑を極めています。
だからこそ、真実の歴史に立ち返ることで、解決の糸口が見えてくるはずです。
その他、いわゆる「従軍慰安婦(じゅうぐんいあんふ)」をめぐる問題も、韓国側による一方的な言いがかりによって「性奴隷(せいどれい)(=sex slave)」という間違った説が流布(るふ)されたばかりでなく、アメリカのグレンデールを中心に慰安婦の像が勝手に建てられています。
こうした慰安婦をめぐる問題は、平成27(2015)年12月28日に、アメリカの立会いの下で、日韓両国の外相会談を通じて「最終的かつ不可逆的に解決されること」を確認したうえで、韓国側が元慰安婦の支援を目的とした財団を設立し、これに対して日本政府の予算で10億円を拠出(きょしゅつ)する、との取り決めがなされました。
そして、平成28(2016)年7月に、韓国が合意に基づき財団を設立したのに伴(ともな)い、翌8月末に我が国は10億円を拠出しましたが、その後の流れを鑑(かんが)みれば、とても「最終的かつ不可逆的に解決」したとはいえない状況が続いています(詳しくは後述します)。
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ぴーち こんばんは!
以前、どこかのニュースで
韓国の大統領は
日本を敵国とみなさないと
大統領職を失脚してしまうという類の話を
聞いた事が有ります。
それはどこかの国を悪役に仕立てる事で
勧善懲悪の形をつくり、大統領自らが
国民のヒーローにならなければならないという
自国の中の問題もあるのではないかと
思いました。
それが正しければ
悪役に見立てられた国はたまったものでは
有りません・・・(T_T)
オバrev 国際条約を守らないと言うのは、現代の民主国家ではあり得ないですね。
こんなことをすれば、世界に恥を晒しているように思いますけど、どうなんでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
大統領の姿勢とそれを支える国民の背景が、日韓友好を阻んでいると思います。
オバrevさんへ
黒田裕樹 私も同じ思いです。
韓国は自国の置かれた立場をもって理解してほしいですね。自国民のためにも…。
それにしても、李前大統領にせよ、また朴大統領にせよ、韓国の人々はなぜこうも堂々と我が国を悪(あ)しざまにののしるのでしょうか。その背景としては、今から約100年前の明治43(1910)年に我が国が朝鮮半島(当時は大韓帝国=だいかんていこく)を併合した、いわゆる日韓併合(にっかんへいごう)が行われたという歴史的事実があると考えられます。
併合が行われてから100年目にあたる平成22(2010)年、我が国の当時の菅直人(かんなおと)内閣総理大臣は以下のような自身の見解を首相談話として発表しました。
「当時の韓国の人々がその意に反して行われた植民地支配によって、国と文化を奪われ民族の誇りを深く傷付けられたという多大の損害と苦痛に対し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明する」。
元々我が国では、朝鮮半島を我が国の領土としたという事実に対して反省の思いが強い傾向にあり、首相の談話もこの流れに沿う形でまとめられたのかもしれませんが、談話で発表された「日本が嫌がる大韓帝国を強引に併合して朝鮮半島の人々に多大な迷惑をかけた」というのは本当のことなのでしょうか。
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ぴーち こんばんは!
多大な迷惑を掛けたかどうかは
存じませんが、
これまでの世界の成り立ちを見ていると
植民地として生きていかねばならない国と
それを支配する国が
常に存在している限り、こういう問題は
永遠に続いて行くのでしょうね。
教育問題もあるような・・
青田です。 青田です。
私が不思議に思ったのは、感情論ではなく、
韓国・中国は、日本人が想像を絶するような超詰め込み教育、超受験戦争で、毎年、自殺者が出るほど、勉強させる国です。
詰め込み教育では、おそらく、世界一です。
ただ、韓国からの留学生と話をして、その原因がわかりました。
韓国・中国の詰め込み教育は、
指導者層が、指導しやすいように
イイ従業員、イイ兵士になるための教育だからです。
つまり、特権階級が使えやすい人間になる教育です。
だから、中国・韓国の留学生と話すと、専門馬鹿が多く、私よりも、中国、韓国の歴史を知りません。
(私のほうが中国・韓国の歴史を知っています。)
ようは、国の指導者層にとって、都合のイイことしか詰め込みません。
知識は、あっても自分の頭で考える能力は、欠如しています。
余談ですが、中国、韓国ではあれだけ詰め込み教育をしているのに、ノーベル賞や起業家が出ていません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、このような関係はずっと続いていくことでしょう。
だからこそ、どこかで断ち切らないといけません。
現代では条約という名の「示談」がありますし、日韓両国はそれを結んでいるのですから。
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、そのような一面は確かにありますね。
詰め込み教育の悪弊を、我が国が倣う必要はありません。
それは日韓併合に関しても同様であり、我が国が当時の大韓帝国(=韓国)を併合したという「結果」を知ろうと思えば、なぜ我が国が韓国を併合しなければいけなかったのか、あるいは逆に「韓国がなぜ我が国に併合されなければならなかったのか」という歴史の流れを詳しく理解する必要があるのです。
これらの歴史的な経緯を知ることによって、私たちは初めて日韓併合に関する真実を理解することになり、また日韓併合について一定の評価を下すことが可能になるのではないでしょうか。
今回の講座では、韓国が我が国に併合されるまでとその後の歴史の真実について、当時の世界情勢も踏まえながら可能な限り公平な視点で検証していきたいと思います。
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ぴーち こんばんは!
仰るとおり
物事には必ず「原因」がありその後に「結果」が
付いてきますよね。
結果だけを見て、全てが分かった気を起こしてしまうのではなく、どうしてその結末に至ったかの経緯を
知ることは本当に大切な事だと思います。
韓国側は原因など無視して、あくまでも
自国が正しいのだという事のみをアピールしたいと
思っているのかも知れませんが・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 韓国側は原因など無視して、あくまでも
> 自国が正しいのだという事のみをアピールしたいと
> 思っているのかも知れませんが・
その傾向が強いことを私は危惧しております。
このままでは日韓友好などかないそうもありませんから。
しかし、当時の世界情勢は、白色人種による帝国主義(=政治や経済、軍事などの面で他国の犠牲において自国の利益や領土を拡大しようとする思想や政策のこと)が主流となっており、我が国は欧米列強からの侵略や植民地化を免れるために、ありとあらゆる手段で近代化を進めていきましたが、広大な東アジアの中では、我が国だけがいくら頑張ったところで限界がありました。
そんな我が国の生命線を握っていたのが、実は朝鮮半島の存在でした。もし朝鮮半島が白人、特に当時の帝政ロシアに奪われてしまえば、我が国の安全保障が風前の灯(ともしび)と化してしまうのは明白だったからです。
朝鮮半島に独立国が誕生すれば、朝鮮の人々のためになると同時に我が国の安全度も増すと判断した明治政府は、当時の李氏朝鮮(りしちょうせん)に近代化を進めるように働きかけるため、朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王が我が国からの外交文書の受け取りを拒否したのです。
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ぴーち こんばんは!
これまで
私の中の認識として
どうして日本はこれ程までに近代化、近代化と
やたらに経済力に力を入れ、急成長を促されて来たのかと疑問に感じていた部分が有りましたが
侵略や植民地化を免れたいが為に
懸命に遂行されて来た働きかけだったのですね。
これはあくまでも憶測ですが
日本の地理的なものが
特に他国から狙われやすい理由でも
あるからなのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 日本の地理的なものが
> 特に他国から狙われやすい理由でも
> あるからなのでしょうか?
昔の我が国は、周囲を海に囲まれていたのを「天然の防壁」として活用していました。
しかし、蒸気船の開発などによって、大砲などの武器を詰め込んだ船が、我が国の周囲のどこからでも攻め込むことが可能になったことから、一気に「どこからでも攻められる危険な国家」と化してしまったという厳しい現実があったのです。
もちろん我が国にそんな意図はなく、明治新政府となって我が国が天皇中心の新たな中央集権国家に生まれ変わったという意味で、形式的に「皇」や「勅」の字を使用したに過ぎませんでした。我が国は朝鮮に対して理解を求め、新たに「皇」や「勅」の字を使用しない外交文書を送るなど懸命の努力を重ねましたが、態度を硬化させた朝鮮は首を縦に振りませんでした。
我が国と朝鮮とが国交断絶の状態となった一方で、朝鮮を属国としていた中国の清国との間では、明治4(1871)年に対等な条件の日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)が結ばれていました。宗主国である清国が我が国と国交を結んでいるのに対して、属国である朝鮮が国交を結んでいないということは、裏を返せば「朝鮮は明治政府を承認していない」という意思表示でもありました。
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。
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ぴーち こんばんは!
こういうお話を聞くと
改めて外国との考え方の相違を
理解していないと
誤解が誤解を生んで、有らぬ方向へ
話が進んでしまうものだなと
感じました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 残念ながら、それが現実なんです。
形式的な我が国の態度が、まさかこのようなことになるとは。
まさに「後悔」に尽きますね。
もっとも、西郷のような政府の重鎮が朝鮮に出向いて万が一のことがあれば、朝鮮とはそのまま戦争状態となってしまうのは明らかでした。結局、征韓論は明治6(1873)年に欧米列強の外遊から帰国した大久保利通(おおくぼとしみち)らが反対したことで瓦解(がかい)し、敗れた西郷らが政府を下野(げや)しました(これを「明治六年の政変」といいます)が、大久保らの反対にも大きな理由がありました。
当時の政府には「一日も早く近代国家となって欧米列強に追いつかなければならない」という大きな目標がありました。そのためには富国強兵(ふこくきょうへい)や殖産興業(しょくさんこうぎょう)を目指さなければならず、朝鮮へ派兵する余裕は全くなかったのです。
とはいえ、朝鮮との国交も急がなければなりません。そんな折に、我が国と朝鮮との間で一つの事件が発生しました。
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ぴーち こんばんは!
朝鮮とどのような事件が起きたのでしょうか・・
西郷さんの手腕が問われる一件だったのでしょうかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 朝鮮とどのような事件が起きたのでしょうか・・
> 西郷さんの手腕が問われる一件だったのでしょうかね?
残念ながら西郷さんとは無関係です。
日本と朝鮮が国際法を知っているか否かの違いでしたね。
ところで、一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対し、欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や、歴史的な意義を見出すことができません。
確かに日朝修好条規には、朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を治外法権)が認められていましたが、これは江戸時代からの慣習をそのまま成文化したものですし、また関税自主権については、日朝両国がお互いに関税をかけないという取り決めをしているところが、他の不平等条約とは全く異なっています。
それよりも重要なのは、日朝修好条規の第1条で「朝鮮は自主独立の国であり、日本と平等な権利を有する」と書かれていることです。これは、我が国が朝鮮を独立国と認めたことを意味しており、当時の世界諸国が朝鮮を「清国の属国」としか見ていなかったことからすれば、非常に画期的なことでした。
日朝修好条規は朝鮮が初めて自国で結んだ国際条約であり、この条約が結ばれたことで欧米列強も次々と朝鮮と条約を結びました。その内容は我が国が欧米列強と結んだのと同様に不平等でしたが、欧米列強が朝鮮を独立国として認めていることも意味していたのです。
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ぴーち こんばんは!
日本の働きかけの影響が
こんなにも世界中に影響が広がって行ったと言う事に、誇りを感じました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 日本の働きかけの影響が
> こんなにも世界中に影響が広がって行ったと言う事に、誇りを感じました。
そうですよね。
我が国が世界の流れを大きく変えたという事実は動きませんから、誇るべきだと思います。
しかし、この良好な関係は長続きしませんでした。開化政策に反対する勢力が国王の父であった大院君(だいいんくん)のもとに集まって、明治15(1882)年に大院君がクーデターを起こし、同時に朝鮮の日本公使館が朝鮮人の兵士に襲われ、館員らが殺されました。これを壬午(じんご)事変といいます。
この事件をきっかけに我が国が朝鮮へ出兵すると、清国も同時に派兵しましたが、我が国が朝鮮側と賠償条約(済物浦条約=さいもっぽじょうやく)を結んだことで武力衝突は回避されました。我が国は武力に頼らずに話し合いで解決しようとしたのですが、この姿勢が「日本は清国に比べて弱腰だ」とみなされたこともあり、この後の朝鮮国内では、我が国よりも清国に頼ろうとする事大派(じだいは)の勢力が強くなりました。
さて、壬午事変の際に、朝鮮の兵士が国際法上で我が国の管轄となる日本の公使館に危害を加えたことは、国際的にも大きな問題でした。朝鮮は謝罪の使者として金玉均(きんぎょくきん)らを我が国に派遣しましたが、そこで彼らが見たのは、自国とは比べものにならないほど近代的に発展した我が国の姿でした。金玉均らは、我が国がおよそ10年前に派遣した使節団が、欧米列強の発展に驚いたのと同じ思いを抱いたのです。
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ぴーち こんばんは!
日本の発展ぶりに驚いた訳ですか・
日本は島国ですので、隔離されている感は否めませんし
今でもそうですが、外国にアピールしていく
力も弱いのでそう言う意味では
何事も多少オーバー気味に声を大きくしていかないと
伝わらない事が多そうですよね。(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かにそうですね。
その一方で「百聞は一見に如かず」と言いますから、見てもらうことが一番効果があるともいえそうです。

「朝鮮も早く近代化しなければならない」。そう強く感じた金玉均らは、福沢諭吉(ふくざわゆきち)から資金の援助を受けた後、明治17(1884)年に独立党(どくりつとう)として朝鮮国内でクーデターを起こしましたが、清国が事大党(じだいとう)への支援を口実に再び出兵したため失敗に終わりました。これを甲申(こうしん)事変といいます。
壬午事変と同様に、清国はまたしても朝鮮国内でのクーデターに軍事介入したことになります。さらに、クーデターに失敗した金玉均が我が国の公使館に逃げ込むと、清国の兵士が公使館を襲って焼き討ちし、女性を含む多数の我が国の民間人が殺害されました。
このような酷(むご)い仕打ちを受けた我が国でしたが、国力の充実を優先して清国との武力衝突を避ける意味も込めて、翌明治18(1885)年に、伊藤博文(いとうひろぶみ)が清国の李鴻章(りこうしょう)との間で天津条約(てんしんじょうやく)を結びました。この条約によって日清両国は朝鮮から撤兵するとともに、将来出兵する際にはお互いに通知しあうことを義務づけました。
二つの事変を通じて、我が国は朝鮮を独立させようとしても、清国が宗主国の立場を利用して何度でも干渉してくるということをつくづく思い知らされました。
なお、金玉均は事変後に我が国に亡命しましたが、明治27(1894)年に上海(シャンハイ)で暗殺されています。また、金玉均に資金を援助した福沢諭吉は、甲申事変が起きた翌明治18(1885)年に「脱亜論(だつあろん)」を発表しています。
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ぴーち こんばんは!
そうでした!
今日は竹島の日でしたね!
つい
猫の話題に持ち込みたく成る根性は
昔から変らない私(^_^;)
それにしても
クーデターを起こさせてまでも
近代化を推し進めようとする
朝鮮の思わくには賛成出来ませんね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いえいえ、どちらも大事な日ですので(笑)。
そういえば、「忍者の日」でもあるそうですね。
クーデターをおこさないと国内を改革できないと思ったのでしょうけど、失敗に終わってしまいましたからね。
しかも我が国の罪もない人々が巻き添えを食らって殺されていますし…。
こうして、朝鮮半島は日本・清国・ロシアの3ヵ国がお互いに勢力争いをする舞台と化してしまったのですが、その背景には我が国から清国、さらにはロシアへと次々と接近することで、他国からの干渉を逃れようとする朝鮮政府の姿勢もありました。この三つ巴(どもえ)の争いは、まずは我が国と清国との間で決着をつけることになるのです。
明治27(1894)年、朝鮮の民間信仰団体である東学党(とうがくとう)の信者を中心とする農民が、朝鮮半島の各地で反乱を起こしました。これを甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)、または東学党の乱といいます。清国が朝鮮政府からの要請に応じて派兵すると、天津条約に従って日本に通知したことで、我が国もすぐに朝鮮へ派兵しました。
日清両国の兵士によって反乱は鎮圧されましたが、両国は反乱後の朝鮮国内の内政改革を巡って対立し、ついに武力衝突してしまいました。日清戦争の始まりです。
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ぴーち こんばんは!
互いの体を傷つけ合う戦争を好む
信仰など宗教でもなんでも有りませんよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 互いの体を傷つけ合う戦争を好む
> 信仰など宗教でもなんでも有りませんよね。
仰るとおりだと思います。
人を助ける道が戦争につながるなど…。
清国側の主張が「朝鮮は我が大清国に属して200年になるが、毎年我が国に朝貢している」と書かれているのに対して、日本側は「朝鮮は我が国が誘って列国に加わらせた独立国であるにもかかわらず、清国は常に朝鮮を自分の属国として内政に干渉し続けている」と書いてあるのです。
要約すれば、朝鮮を自国の属領にしようとする清国と、独立を助けようとする日本との間で日清戦争が起きたわけですから、もしこの戦いに「義」があるとすれば、清国と我が国のどちらの方に存在するといえるでしょうか。
さて、日清戦争は結果として我が国の勝利に終わり、翌明治28(1895)年に下関条約(しものせきじょうやく)が結ばれました。この条約には様々な事項がありますが、もっとも重要なのは「清国が朝鮮を独立国として認める」ということでした。
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ぴーち こんばんは!
やはり
自国だけの利を求めるような
政策は直ぐに破れてしまうものなのでしょうね。
現在の
どこぞのお国の行く末も
そうならないようにして貰いたいものです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
どこぞのお国の今後はどうなるでしょうか?
朝鮮はやがて1897(明治30)年に大韓帝国と国名を改め、国王の高宗が初代皇帝となりました。それまでの宗主国であった中国しか使えなかった「皇帝」の称号を初めて使用できるようになった歴史的な意義は、世界史上においても極めて大きいものがあったといえるでしょう。
しかし、朝鮮改め韓国にとっては、独立を脅(おびや)かす別の大きな問題がありました。清国が手を引いた代わりに、大国ロシアが朝鮮半島に触手(しょくしゅ)を伸ばしてきたのです。そのきっかけは、我が国がロシアから受けた「屈辱(くつじょく)」にありました。
下関条約によって、朝鮮半島の北西に位置する遼東(りょうとう)半島を我が国が領有することが認められたのですが、東アジアに領土的野心を持っていたロシアにとって、このことは非常に困る問題でした。それを見越した、清国の李鴻章が、ロシアに働きかけて、遼東半島を清国へ取り戻そうと考えたのです。
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ぴーち おはようございます^^
朝鮮・・
どうなんでしょう。。
これも大陸住む国民の性なのでしょうか・・?
まあ、多かれ少なかれ
野望の強い国に国土を狙われるのは
他の国も常に孕んでいる事なのでしょうけれど
相手国にとって何かと条件の良い国ほど危機に見舞われる
可能性が大という事なのでしょうね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 相手国にとって何かと条件の良い国ほど危機に見舞われる
> 可能性が大という事なのでしょうね(^_^;)
自国にとって有利なことは、他国にとっては不利なことです。
この点をしっかり踏まえないと、足元をすくわれますからね。
ロシアからの理不尽な要求に対して我が国は激怒しましたが、巨大な三国に対抗するだけの軍事力を持っているはずがありません。我が国はやむなく要求を受けいれたのですが、ロシアに対する我が国の低姿勢ぶりが「弱腰」と思えたことで、朝鮮政府が今度はロシアへと接近していきました。
このような「自分よりも大きくて強い国に自国を委(ゆだ)ねる」という事大主義が、朝鮮政府内のいわゆる親露派の動きを強めることになりましたが、その最たる存在が朝鮮王妃の閔妃(びんひ)でした。
閔妃によって朝鮮が親露政権と化し、ロシアが朝鮮に対して影響力を強めれば、日清戦争以前の清の立場がそっくりそのままロシアに移動することになりますから、これでは我が国が何のために大勢の犠牲者を出してまで日清戦争を戦ったのか分からなくなってしまいます。
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自国の思い通りにさせたいという野望があれば
どんな事でもマイナス要素と見なして
蹴落とす事を考えるものですよね。
どんなにこちらが正論を述べても
ただただ相手のせいにして
卑怯な手口も厭わない所は
どの国からも嫌われる心貧しい
国なのではないかと思います。
結局は、何も変わってないような。。
青田です。 青田です。
今の韓国も同じような気がします。
親米かと思えば、親中のような気がします。
挙句の果てに、次期大統領候補は、親北朝鮮です。
外交、同盟とは、力関係もあるとは、思いますが、
イデオロギーが違いすぎても、その時の強い国になびくと
結局は、自国の主体性を失くし、国力を弱くすると思うのですが。。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > どんなにこちらが正論を述べても
> ただただ相手のせいにして
> 卑怯な手口も厭わない所は
> どの国からも嫌われる心貧しい
> 国なのではないかと思います。
このような国家が存在していた(もしくは存在している)事実を、日本国民はしっかり理解すべきだと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 自主性を持たない国家は、確かにそうなる運命にあるでしょうね。
閔妃に直接手を下したのは同じ朝鮮人の訓練隊の兵士でしたが、いかなる理由があろうとも、一国の外交官が駐在国の王族暗殺に関わった可能性があるという事実はテロ以外の何物でもなく、極めて乱暴な行為に他なりません。
閔妃の暗殺を知って驚いた日本政府は直ちに関係者を逮捕するなどの素早い処置をとったこともあって、乙未事変は当時の大きな国際問題にはなりませんでした。
乙未事変が大きな問題にならなかった背景には、朝鮮半島内において、かつての壬午事変や甲申事変などで多数の日本の民間人が殺害されていたこともありますし、また乙未事変後に朝鮮国王の高宗がロシア大使館に移った際にも、多くの日本人が巻き添えとなって殺されています。
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ぴーち こんばんは!
なるほど
そう言う犠牲という大きな代償が教訓となっていたのですね。
切ない話です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、切ない話です。
だからこそ、記憶に残さねばなりません。
当時の正確な背景を
青田です。 青田です。
こういう話を聞くと多くの日本人は、その当時の韓国が
今、韓国時代劇のような国(捏造されていますが)という
前提で、考えてしまいます。
ただ、このあたりは、活字ではなく、当時の写真を観ると
納得できます。
その当時の韓国では、政府はありましたが、社会自体は、日本の弥生時代のような生活でした。
その前提で、この事実を知らないと理解できないですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
いつまでも真実を隠しておくわけにはいきません。
なお、事変後に閔妃は大院君によって身分を剥奪(はくだつ)され平民に落とされましたが、後に我が国からの助言もあって王位を回復しています。
乙未事変後に、朝鮮改め韓国(=大韓帝国)がロシアとの結びつきをますます強めたことで、やがてロシアが朝鮮半島を足掛かりとしてしきりに我が国に圧力をかけるようになりました。
韓国ばかりでなく、自国の命運も風前の灯となった現状では、我が国の取るべき道は、もはや一つしかなかったのです。
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ぴーち こんばんは!
韓国の味方をするわけでは有りませんが
自国をただの踏み台代わりに思われては
侮辱極まりなしですね
まだ敵国として見なされた方がどれだけ
精神的には良かったかも知れません。
かと言って、互いが安易に交戦状態に陥るのを
歓迎している訳では有りませんが。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 自国をただの踏み台代わりに思われては
> 侮辱極まりなしですね
これについてはごもっともです。
ただ、自国をそういう立場に追い込んだのは、果たして他国のみにその責任があるのか、という点も重要かと思います。
日露戦争の勝利によって朝鮮半島からロシアが手を引いたことで、我が国はようやくロシアの南下政策を食い止めるとともに、韓国の独立を保つことができました。しかしながら、清国からロシアへと事大主義に走る韓国をそのままの状態にしておけば、またいつ「第二、第三のロシア」が出現して、韓国の独立と我が国の安全保障が脅かされるか分かったものではありません。
そこで、我が国は韓国の独立を保ちながら、軍事権や外交権などを握ることによって、韓国を「保護国」とする方針を固めました。我が国と韓国は、日露戦争中の明治37(1904)年に、日本による韓国防衛の義務などを明記した日韓議定書(にっかんぎていしょ)を結ぶと、同じ年に、韓国政府の財政や外交の顧問に日本政府の推薦者を任命するとした第一次日韓協約を結びました。
日露戦争終結後の明治38(1905)年には第二次日韓協約(=日韓保護条約)を結び、韓国の外交権を我が国が持つことで、韓国は事実上我が国の保護国となりました。また、条約に基づいて首都漢城に統監府(とうかんふ)を置き、伊藤博文が初代統監となりました。
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ぴーち こんばんは!
どうなんでしょうか・・
韓国側には
日本の思いは通用しなかったのでしょうか?
結果的には日本はただのお節介者として
認識されている気がしてならないですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 結果的には日本はただのお節介者として
> 認識されている気がしてならないですね。
仰るとおり、結果としてそうなりました。
残念な話です。
しかし、会議に出席していた列強諸国が条約の違法性を認めずに密使の会議への参加を拒絶したことで、韓国は目標を達成できませんでした。高宗や密使らの当初の思惑とは裏腹に、国際社会が第二次日韓協約の正当性を認めたことにもつながったのです。
韓国の面従腹背(めんじゅうふくはい)ぶりが明らかになったことで、韓国は当時の国際社会の信頼を損なうと同時に我が国の激怒を招き、高宗は退位に追い込まれました。そして同年に第三次日韓協約が結ばれ、韓国の内政権が完全に日本の管轄下に入ったことで、我が国による統治がさらに強化されることになりました。
ハーグ密使事件を受けて韓国への感情が悪化した我が国では、保護国ではなく韓国を日本の領土として併合するべきだという意見が強くなりましたが、そんな情勢に身体を張って反対したのが、初代統監の伊藤博文でした。
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ぴーち おはようございます^^
伊藤博文は
韓国の高宗の屈辱的感情を
汲んでの配慮だったのでしょうかね・・・?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 伊藤博文は
> 韓国の高宗の屈辱的感情を
> 汲んでの配慮だったのでしょうかね・・・?
併合による我が国側の負担(これは後述します)もあったと思いますが、仰るような感情論も十分あり得ます。
しかし、それを木っ端みじんにしたのは…。
教育者であるとともに植民地政策に明るかった新渡戸稲造(にとべいなぞう)が、韓国の植民地化に関する計画を伊藤に持参した際にも、伊藤は「植民地にしない」と一蹴(いっしゅう)したうえで、韓国人による韓国の統治の必要性を、時間をかけて新渡戸に説明したというエピソードが残っています。
「韓国は韓国人によって統治されるべきである」。我が国初の内閣総理大臣であり、維新の元勲でもある伊藤だけにその発言は重く、伊藤が生きている間には韓国が併合されることはないだろうと考えられていました。
しかし、その伊藤が、よりによって韓国人に暗殺されてしまうという悲劇が起こってしまったのです。
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ぴーち こんばんは!
崇高な
志というのは何時の時代も
なかなか理解され難いものですね。
正しい道を歩もうとすればするほど
思い通りには進まず、あえなく
遮断させられてしまうこともありますね。(;´д`)トホホ…
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
時として虚しさも感じますが、それでも前を向いて進むしかありません。
熱心な愛国家であったとされる安重根からしてみれば、初代統監として韓国を保護国化した伊藤の罪は重く、また伊藤こそが韓国を併合しようとしている首謀者だと考えたのかもしれません。しかし、伊藤が韓国人によって殺されるということは、現実には絶対にあってはならない出来事でした。
伊藤は維新の元勲で我が国にとって至宝(しほう、この上なく大切な宝のこと)ともいうべき存在でしたし、何よりも併合に最後まで反対していた人物です。日本政府内に併合に前向きな勢力が多い中であくまでも友好的だった人物に対し、テロ行為でお返しするというのは、どう考えても言語道断であるといわざるを得ません。
安重根によるテロ行為は、それがどのような思いのものからであったとしても、結果として我が国と韓国との歴史をそれぞれ大きく変えてしまう出来事となってしまったのです。なお、安重根は現在の韓国(=大韓民国)では英雄として称(たた)えられています。
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ぴーち こんばんは!
なんとも嘆かわしい話ですね。
あっては成らない事が起こるのが世の常かも知れませんが・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、嘆かわしいですね。
強い表現になるかもしれませんが、いわゆる「自業自得」の典型だと思います。
しかし、我が国は併合に対してあくまで慎重でした。日韓併合が国際関係にどのような影響をもたらすのかを見極める必要があったからです。そこで、我が国が関係国に併合の件を打診すると「我々が韓国と不平等条約を結んでいた条件を変更さえしなければ問題ない」という虫が良い話があっただけで、表立って反対する国は存在しませんでした。
その後、イギリスやアメリカの新聞も、東アジアの安定のために併合を支持するという姿勢を見せたことで、我が国は初めて日韓併合条約を結んだのです。時に明治43(1910)年8月22日のことでした。なお、併合後には朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)が置かれ、後に内閣総理大臣となった寺内正毅(てらうちまさたけ)が初代総督を務めています。
日韓併合は、このような慎重な手続を踏まえたうえに、国際的な世論の同意も得て初めて実現したのでした。なお、平成13(2001)年に、日韓併合条約の有効性が日本と韓国(=大韓民国)との間で議論された際に、韓国側が「強制的に併合されたから無効である」として国際会議に訴えましたが認められず、21世紀においても、国際社会が日韓併合における我が国による朝鮮半島支配の正当性を認めていることが確認されています。
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ぴーち こんばんは!
雨降って地固まる・・でしょうか・・
伊藤博文の死も強ち無駄では無かったのかも
知れませんが
韓国が必死に抵抗している姿が
なんとも物悲しく思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 伊藤博文の死によって、我が国は韓国を併合することになりましたが、その後の歴史を考えると「雨降って地固まる」になったかどうかは意見が分かれそうですね。
歴史の結果は、抵抗するよりも甘んじて受け入れた方が次につながると思いますが…。