平氏を滅亡させることができたのは、確かに義経の類(たぐい)まれな戦術によるものであり、その功績は大きいものがありました。しかし、頼朝は平氏滅亡を喜ぶどころか、義経による「信じがたい失策」に対して激怒しました。なぜならば、義経が天皇であることを証明する大事な「三種の神器」のすべてを取り戻すことができなかったからです。
頼朝個人としては、父の源義朝の仇(かたき)である平氏が滅亡して嬉しくないはずがありません。しかし、彼は自分の利害よりも、武士全体の利益を優先し、そのための「戦略(=戦争に勝つための総合的あるいは長期的な計略のこと)」を考える政治家でもありました。
関東で力をつけて、平氏を滅亡寸前にまで追い込んだ頼朝でしたが、それはあくまで軍事力のみの結果であり、武士に土地の個人所有を認めさせるといった「武士のための政治」を行うには力不足でした。
そこで頼朝は、当時は形式化してはいたものの、荘園などを監視する立場である朝廷との交渉によって「武士のための政治」を実現させようと考えており、その際に切り札となるのが「三種の神器」だったのです。
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ぴーち こんばんは!
確かに
相手をやり込めて
死に追いやるだけが手柄では有りませんものね。
本当の意味での勝利は
その後の世の中をいかに
良い方向へ押し進めていくことが
出来るかも含めての
政策でなければいけないと
思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
戦略の重要性を、頼朝は良く分かっていたのですが、義経は…。
道民 黒田先生、最近になって初めからずっと読んでいる道民です。
タイトルが「その1」ではなく「ぞの1」になっていますが、
何か意味があるのでしょうか。
あと日本史は黒田先生のブログでずいぶんスッキリとわかってきましたが、
世界史をうまく覚える方法はないでしょうか。
道民さんへ
黒田裕樹 当方のケアレスミスです。たびたび申し訳ございません。
ご指摘くださり、誠に有難うございます。修正いたしましたのでご確認ください。
世界史に関しては、以下のブログが詳しく紹介しております。
「奈津子の徒然雑記帳」
http://415100.blog50.fc2.com/
この点に目をつけた頼朝は、三種の神器を自らの手で取り返し、後白河法皇に引き取らせることによって、自身がめざした「武士のための政治の実現」に大きく前進しようと考え、義経に対して「平氏滅亡よりも三種の神器の奪回を優先させて、どんなことがあっても取り戻してこい」と厳命(げんめい)した可能性が高いのです。
ところが、軍事的センスは高いものの、頼朝の政治的センスが全く理解できなかった義経が、平氏滅亡に気をとられているうちに、清盛の未亡人が、安徳天皇とともに三種の神器を抱えて海の中へ飛び込んでしまいました。
神器のうち、勾玉(まがたま)と鏡は取り戻せましたが、草薙(くさなぎ)の剣は海の底に沈んでしまって、ついに取り戻せなかったのです。これでは、神器を切り札として後白河法皇に武士の要求を認めさせるどころか、失態を問われることで、かえって頼朝の地位が危うくなる可能性すらありました。
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ぴーち こんばんは!
軍事的センスと政治的センスですか・・
なかなか両方を併せ持つという事は
大変な事でしょうし、その両方を
持ち合わせる人物は居ないという
事でしょうか・・・?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 両方を持ち合わせている人間はそうはいないですよね。
だとすれば、戦略と戦術のそれぞれのプロフェッショナルが、上手に連携できれば良いのですが…。
これに加えて、義経はさらに致命的なミスを犯していました。頼朝の許可もなく、後白河法皇からの検非違使(けびいし、主として京都の治安維持を担当する役職のこと)への任官を勝手に受けてしまったのです。
なお、任官後の義経は「九郎判官(くろうほうがん)」と呼ばれましたが、これが後に「判官贔屓(ほうがんびいき)」という言葉を生むことになります。
この義経の「朝廷からの任官を受ける」という行為は、実は頼朝のそれまでの血のにじむような努力を全部無駄にしてしまいかねない、とんでもないことでした。なぜそう言い切れるのでしょうか。
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ぴーち こんばんは!
天才というのは、
どうもチームプレーには向いていないようですね。
それ故に人よりも抜きん出た行動が出来るのでしょうけれど。
頼朝もまた政治的センスには長けていたのでしょうけれど、イマイチ
人の気持ちに深く踏み込めない詰めの甘さが
あったのかも知れませんよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 頼朝にも、義経にも、それぞれの欠点があったことでしょう。
両者をつなぐ接点がもっと豊富であれば、と思われますね。
一方、官位というものは朝廷から授かるものですから、それを頼朝の承認もなく受け取るということは、頼朝の権威を丸潰(つぶ)れにしてしまいかねない「愚かな行為」なのです。それなのに、よりによって頼朝の実の弟である義経が、あっさりと朝廷から勝手に官位を受けてしまったのですから、頼朝にとってはたまったものではありません。
現実に、この後多くの頼朝の家臣が「弟の義経様が受け取るのであれば」といわんばかりに、朝廷から次々と任官を受けてしまいました。これらに対する頼朝の嘆きや怒りは凄まじいものであったと伝えられています。
しかし、義経自身は、三種の神器と同様に、自分が犯した大きなミスに全く気がついていませんでした。後に頼朝に送った手紙において「自分が朝廷の任官を受けることは、源氏一族にとって名誉なことではないですか」と書いているくらいです。
「政治家」の頼朝と「軍人」の義経とでは、考えがまるで異なるのはむしろ当然とも言えました。この二人の間を取り持つ優秀な人材がいなかったことが、お互いの意思の疎通(そつう)を欠かせて、ついには兄弟で対立するという結果を生んでしまったのです。
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ぴーち こんばんは!
頼朝と義経兄弟は
生まれた時から生活を共にして来た仲だったのでしょうか?
もしかしたら、以前の記事にその答えが書いてあったかもしれませんが
共に生きてきた間柄なら
わざわざ間に人を入れずとも
互いの思う所が直ぐに分かり合えた
はずなのにと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 残念ながら、母親が違うこともあって、お互いの初対面は義経が20歳を過ぎてからでした。
この事実も、二人の確執を呼び込んだかもしれませんね。
そればかりでなく、頼朝によって自分の領地をすべて取り上げられ、暗殺までされかけた義経は、ついに頼朝との全面対決を決意しました。義経は後白河法皇から「頼朝追討」の院宣(いんぜん、上皇=法皇からの命令書のこと)を強引にもらうと、九州で再起を図ろうと考え、精鋭とともに船出をしましたが、不運にも嵐にあって難破してしまいました。
かつて屋島の戦いにおいて、嵐の中を短時間で四国に上陸を果たしたときと比べ、何という違いでしょうか。これ以降、それまでの幸運から見放された義経には、苦難の道が続くことになります。
精鋭の大半を失った義経は、わずかの手勢を率いて、かつて自分をかくまってくれた奥州の藤原秀衡を頼って落ちのびました。なお、この逃亡の際において、北陸の安宅(あたか)の関における「勧進帳(かんじんちょう)」の伝説が残されており、現代でも歌舞伎などを通じて有名になっています。
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青田です。
奥州藤原氏は、源氏と平氏との戦いで、経済大国、文化大国として、中立を保って
白河までを絶対防衛ラインとして、専守防衛に徹していました。
平家から、鎌倉を挟撃して欲しいと要請もありましたが、それも黙殺していました。
奥州藤原氏としては、源氏と平氏が戦いあって、消耗
戦になったほうが良かったと思います。
今の日本もそうですが、専守防衛と言っても、相手国が諸外国を占領して、巨大化すると、手も足も出ないという教訓を感じます。
ぴーち こんばんは!
骨肉の争い程見苦しいものは
有りませんね・・
尤も、このお二人は二十歳まで
互いの存在を知らない兄弟であったとの事
なので
あかの他人よりも縁遠い兄弟だったのかも
知れませんね・(^_^;)
青田さんへ
黒田裕樹 確かに、奥州藤原氏の末路は見習うところがありますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > あかの他人よりも縁遠い兄弟だったのかも
> 知れませんね・(^_^;)
まさしくそのとおりだと思います。
それにしても、義経の見放されぶりは哀れですね…。
いくら義経に強制されたとはいえ、後白河法皇が「頼朝追討」の院宣を出されたことは「痛恨の失敗」でした。なぜなら、それまで平氏滅亡のために戦ってくれた頼朝を裏切ることになるからです。しかも、朝廷は自前の軍隊を持っていませんから、反発した頼朝に攻められてはひとたまりもありません。
義経が去った後の1185年11月、頼朝は妻の父である北条時政(ほうじょうときまさ)を筆頭とする大軍を京都へ送り、後白河法皇に迫りました。
「法皇様の命令によって平氏滅亡に尽力したこの頼朝を、こともあろうに討てとはどういうおつもりですか?」
後白河法皇をはじめとする朝廷は恐怖に震え上がり、頼朝側をなだめるために、やむなく二つの権利を認めました。後世に名高い「守護・地頭の設置」です。
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ぴーち こんばんは!
確かに自前の軍隊が無いという事は
丸腰であるという事なので
無防備な所へいきなり喉元に刀を突きつけられたら
面食らうのは必須ですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そのとおりです。
いわば「敵失」を最大限に利用した、頼朝の作戦勝ちといえるでしょうね。
また、地頭は公的に認められた土地の管理人ですが、その任命権が守護を含めて頼朝側にあるために、武士が初めて自分の土地を公的に所有できる道を拓(ひら)くことになりました。
さて、その後の義経一行ですが、何とか藤原秀衡のところまでたどり着くことができました。秀衡は義経の戦術の巧(たく)みさを、来るべき頼朝との戦いの切り札にしようと考え、義経を手厚く保護しましたが、一年も経たないうちに秀衡が病死してしまいました。これも義経にとっては大きな不運だったのです。
秀衡の後を継いだ藤原泰衡(ふじわらのやすひら)は、父ほどの器量を持っておらず、頼朝からの「義経を殺せば藤原氏の安泰は保証する」という誘いに乗ってしまい、1189年に義経の住んでいた館を急襲しました。義経主従は奮戦しましたが、多勢に無勢ではどうしようもなく、ついに義経は妻子とともに自害して果てました。わずか31歳の若さでした。
なお、義経の最期の際に弁慶が彼をかばい、屋外で体中に矢を浴びて、立ったまま死んだとされる「立往生(たちおうじょう)」の話が伝説として残されています。また、義経を自ら殺したことによって、切り札を失った泰衡は、結局この後に頼朝によって倒され、約100年続いた奥州藤原氏は滅亡してしまいました。
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ぴーち こんばんは!
義経にも妻子がいた事は初めて知りました!
まあ、それは当然と言えば、当然なのでしょうけど(^_^;)
なんとなく、弁慶の最後の伝説話からして
義経は最後まで独身を貫いていたのかと
勝手に解釈していました(大汗)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、立往生のイメージからすると独身っぽいですよね。
いずれにせよ、義経の血脈が途絶えたことは残念でした。
だからこそ、平氏が滅亡した後に役割を終えた彼は、それまでの幸運から一気に奈落の底に突き落とされる不運を味わい、この世から「退場」させられたようにも見えます。
そんな彼のドラマチックな人生は、一般民衆の心にも深く刻まれ、敗者や弱者をいたわる「判官贔屓(ほうがんびいき)」という特別な感情をもたらしました。
また、彼をこのまま死なせるのは余りにもかわいそうであるし、この世に恨みを残して死んだら怨霊(おんりょう)として祟(たた)るかもしれない、という思いが、様々な「義経不死伝説」を生み出しました。なかには、義経が海を渡ってジンギスカン(チンギス=ハーン)となり、モンゴルを統一したという話まであるほどです。
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ぴーち こんばんは!
モンゴル伝説は伺った事が有ります^^
それにしても、人にはその時、その場所で
生きるべき人生をちゃんと用意されているものですよね。
その人生が悲劇であれなんであれ
その人の業がなせる事ですので
仕方ないですが、哀れでしたね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > それにしても、人にはその時、その場所で
> 生きるべき人生をちゃんと用意されているものですよね。
> その人生が悲劇であれなんであれ
> その人の業がなせる事ですので
> 仕方ないですが、哀れでしたね。
本当にそうですよね。
義経のような人生は、歴史に名を残すことができても、本人が本当に幸せだったのかどうか…。
つまり、鎌倉末期から室町前期における「南北朝時代」と同じ状態になっていたのです。今回の場合は期間が短かったので目立たないのですが、もし平氏があっけなく滅びることなく、安徳天皇が長生きされておられれば、南北朝時代と同じように、混乱の時期が長続きしたかもしれません。
その場合は、京都と中国地方にそれぞれ天皇がおられるのですから、南北朝ならぬ「東西朝時代」と呼ばれたかもしれませんね。
いずれにせよ、そんな不安定な時代になりそうなのを一掃した源義経の存在は、まさに「歴史を変えた英雄」と呼ばれるにふさわしいといえるのではないでしょうか。
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(※第57回歴史講座の内容はこれで終了です)
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ぴーち こんばんは!
日本の天皇制は長い歴史の中に有るようですので
その間には様々な事があった事でしょう・・・
然しながら、今現在まで天皇と言う存在が
継続されているのですから、どこかで
間違いはあったとしても、再び
あるべき姿に収まっているのですから
それはそれで良かったと思います。
たまたまその過ちを正す役目も担った
その時代の寵児として現れたのが
義経だったのでしょうね・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > たまたまその過ちを正す役目も担った
> その時代の寵児として現れたのが
> 義経だったのでしょうね・・
私もそう思います。我が国にとって義経は欠かせない存在だった。
だからこそ、役割を終えると、人生も終わってしまったのでしょうか…。