要するに、頼朝は若い頃に武士としての「実地訓練」を積んでいたのです。やがて頼朝が1180年に平氏打倒に立ち上がると、当初は苦戦したものの次第に武士たちの同意を得て、同年の「富士川(ふじかわ)の戦い」で勝利するなど大勢力となっていきました。
なぜなら、平氏に一度「裏切られた」かたちとなった武士たちが、自分と同じ経験をした頼朝であれば、今度こそ期待に応えてくれるに違いないと判断したからです。
一方、頼朝をはじめ各地の源氏の挙兵に危機を感じた清盛は、1180年6月に平氏の経済的な本拠地である福原(ふくはら、現在の兵庫県神戸市)に都を遷(うつ)しましたが、余りにも性急に行ったことで皇族や貴族、あるいは寺社の反対が根強く、結局11月には京都に戻ることになりました。強引な手法で体制を固めてきた平氏の政権も、この頃には陰(かげ)りを見せていたのです。
どんなに大きな勢力であっても、人材が育たなければいつかは必ず衰えますし、不可抗力な事態が起こった場合には、人々の恨みは時の政権に向けられます。平氏の政権も例外ではなく、末期になると立て続けに不運が襲うようになりました。
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ぴーち こんばんは!
仰る通り、
育成は常に大切ですよね。
生みの親より育ての親と
言われる様に、育てていかないと
いつかは滅びてしまいますよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そのとおりです。
組織の維持には、人材の育成が欠かせませんが、平氏の不運はそれだけではなかったんですよね…。
関東が良かった気が。。
青田です。 青田です。
源頼朝にとって、良かったのは、
伊豆に配流されたことだったと思います。
もちろん、地方の武士の暮らしがわかったのもありますが、
元々、関東では、源氏の人気がありました。
さらに、京の都では、武士は、かなり、地位が低かったのに、関東では、源氏の御曹司で、ブランドになっていました。
青田さんへ
黒田裕樹 結果としてはそうなりますね。
いずれにせよ、頼朝が関東で力をつけた際に、清盛は自分の仕出かした失策を後悔したことでしょう。
そして、何よりも最大の不幸だったのが、清盛自身が病気となって、1181年閏(うるう)2月に64歳でこの世を去ってしまったことでした。清盛の死後は、三男の平宗盛(たいらのむねもり)が平氏の新たな棟梁(とうりょう)となりましたが、清盛ほどの器量は持っておらず、また後白河法皇が院政を再開されたこともあって、平氏による政権の将来に暗雲が立ち込め始めましたが、その原因は人材不足だけではありませんでした。
平氏に逆らった勢力には寺社も含まれていました。平氏は1180年12月に奈良の東大寺(とうだいじ)や興福寺(こうふくじ)の寺社勢力を鎮圧するため出兵しましたが、風の強い日に攻めたために火が燃え広がり、東大寺の大仏が焼け落ちるという大惨事となったことで、平氏は「仏敵(ぶってき)」呼ばわりされてしまったのです。
さらに、平氏を待ち受けていたのが大飢饉(だいききん)でした。1180年は異常気象に悩まされたこともあって農作物が不作となり、西日本を中心に餓死者(がししゃ)が相次いだばかりか、この状態が数年も続くという騒ぎになりました。これを当時の年号から「養和(ようわ)の大飢饉」といいます。
仏敵となったのは火の勢いがたまたま強かったのが理由であり、ましてや大飢饉の責任が平氏にあるはずもないことです。しかし、当時の人々は「飢饉は大仏を焼いた『祟(たた)り』であり、すべての原因は平氏にある」と固く信じており、平氏への恨みの声がますます高くなりました。
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ぴーち こんばんは!
跡取りに先立たれるなどというのは
よほどの悪業を積んでいない限り
現れない現象ですものね。
平氏が落ちぶれたのは、過去世からの
自分が積んで来てしまった業の深さから
招いた結果なのだと改めて思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、業の深さですか。
いかなる事情があったとしても、誤った政策を行った人物やその一族には、相応の報いがあるのでしょうね。
しかし、備中(びっちゅう、現在の岡山県西部)の水島(みずしま)では義仲相手に大勝するなど、本拠地である西国において平氏はまだまだ力を持っており、都での復権を虎視眈々(こしたんたん)と狙(ねら)っていました。
また、瀬戸内海がある西国では海戦が多く、東国の山育ちの人間が多い源氏に対し、強力な水軍を持っている平氏の優位は動きませんでした。このようなことから、平氏と源氏との戦いは当分の間は一進一退を繰り返すであろうと思われていました。
ところが、結果として平氏は都落ちからわずか2年足らずで滅亡しているのです。どうしてこのようなことになったのでしょうか。
そのカギを握る人物こそが、頼朝と同様に清盛が助命した源義経なのです。
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ぴーち こんばんは!
う~ん。
なまじ、情けを掛けたばかりに
自分で自分の首を締めることになるとは
思いもよらずに居たのでしょうね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なまじ、情けを掛けたばかりに
> 自分で自分の首を締めることになるとは
> 思いもよらずに居たのでしょうね(^_^;)
そのとおりだと思います。義経という「天才」を生かしてしまったばかりに…。
秀衡は、先述のとおり、平泉(ひらいずみ、現在の岩手県平泉町)を中心として、平安末期に栄華を誇った奥州藤原氏の三代目でした。義経が22歳のとき、兄の頼朝が挙兵したと聞くと、義経は自分の家臣を引き連れて頼朝に面会し、以後は頼朝の指揮下に入りました。
ところで、義経の家臣のなかで一番名前が知られているのは、何といっても武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)でしょう。弁慶は実在の人物ですが、義経が牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた少年の頃に、京都の五条大橋で弁慶と対決した物語はあまりにも有名ですね。
しかし、この話はあくまで伝説であり、鞍馬寺を抜け出してから、秀衡の保護を受けるまでの数年間の義経の行動は、未だに謎に包まれたままです。ただ、間違いなく断言できることは、義経が頼朝に会うまでのあいだに、類(たぐい)まれな「戦術(=戦いに勝つための具体的な方法のこと)」を身に付けていた、ということです。
なぜそうなのかというと、時間をかけて培(つちか)われた彼の才能が、この後の平氏との戦いの中で、遺憾(いかん)なく発揮されていくからです。
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ぴーち こんばんは!
結局、時間やお金を掛けて来た事って
人よりも上手になるものですよね。
才能もそれまでの弛まぬ努力の賜物でしょう・・^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
何としても復讐したい、という義経の思いが、彼をここまでの人物に育てたのでしょうね。
1184年3月、一ノ谷(いちのたに、現在の神戸市)に陣を敷き、山を背後に軍勢を構えた平氏は、正面から攻めてくるであろう源氏を迎え撃つべく待っていたのですが、義経は山の頂上から、急斜面のため常識では通れそうもない坂を馬ごと一気に下り、平氏の背後を奇襲しました。
不意をつかれた平氏は大混乱となり、一ノ谷を放棄して西へ敗走せざるを得ませんでした。義経の思わぬ奇襲によって源氏が勝利を得たこの戦闘は「一ノ谷の戦い」と呼ばれ、また義経が急坂を一気に下った戦いぶりは、後の世に「鵯越(ひよどりごえ)の逆(さか)落とし」と称(たた)えられました。
義経には常識にとらわれない思考能力と、一瞬のスピードで決着をつけようとする、天才的な戦術能力がありました。義経という戦争の天才を得た源氏と、人材不足に悩む平氏との大きな差が、それぞれの今後を象徴していました。
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ぴーち こんばんは!
馬で駆け下り
奇襲攻撃をしたお話は
歴史オンチの私でも存じている
有名なお話ですね!
確かに
常識的に考えているだけでは
相手を倒す事は出来ませんものね。
相手の考えも及ばない事が出来る
事を本当の意味での
軍略に長けているというのでしょうね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、義経は軍略にたけていますよね。
この後もその才能を大いに発揮することになります。
ところが、ここでも義経が自慢のスピードで奇襲をかけてきました。1185年2月、義経は嵐の中を少数精鋭の騎馬武者とともに荒海を馬ごと船出しました。通常なら難破してもおかしくないのですが、歴史の神様を味方につけた義経は、嵐を追い風に、極めて短時間で上陸を果たすことができました。
上陸した義経軍は、海岸伝いに浅瀬を馬で渡って屋島の背後に回り、安徳天皇がおられた御所を急襲しました。またしても義経に不意をつかれた平氏は、天皇を死守するためにも逃げる以外に選択肢がなく、屋島も放棄せざるを得なかったのです。なお、この戦闘は「屋島の戦い」と呼ばれています。
ちなみに、源氏の武者である那須与一(なすのよいち)が、平氏が所有する船に立てられた、日の丸が描かれた扇の要(かなめ)を見事に射抜(いぬ)いたという、平家物語の有名なエピソードはこの際のものです。このエピソードこそが、後の平氏の運命を物語っていたように思われてなりません。
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ぴーち こんばんは!
我が郷土の有名人
那須与一のお話ですね^^
今も那須地方では
与一君というゆるキャラとして
人気を博している所がまた
凄いですがww
ぴーちさんへ
黒田裕樹 那須与一にゆるキャラが存在するんですか!
さすがは人気者ですね。
流れ
青田です。 青田です。
不思議なもので、世の中の時代の流れというのが
あって、それは、逆らえない気がします。
川が川上から、川下に流れるようなものですね。
源頼朝が時代の流れに乗り、
平家が時代の大きな流れに崩れているような気がします。
これは、今の時代にも通じる気が。。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るような時代の流れは確かに存在しますね。
現代はどんな流れなのでしょうか…。
人間はバランスを取ろうとする
青田です。 青田です。
平清盛は、福原に遷都して、日宋貿易を奨めていました。平家は、がっぽり儲かっていました。
いわば、グローバル化ですね。
そういういう意味では、かなり、革新的でした。
しかし、グローバル化とは無縁の武士(特に東日本)は
おいてけぼりでした。それが武士の不満ですね。
これは、現代でも同じで
グローバル化で、国内で格差が広がって、世界中で、グローバル化に無縁な国民が怒っています。
人間社会というのは、必ず、バランスを取ろうとして、膨張と縮小を繰り返しますね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰る一面は確かにありますね。
それに比べ、本格的な海戦の経験のない源氏の不利は大きく、さすがの義経も苦戦するかと思われたのですが、いざフタを開けてみれば義経の完勝で終わりました。1185年3月に行われたこの戦闘は「壇ノ浦の戦い」と呼ばれていますが、なぜ義経は未経験の海戦で勝つことができたのでしょうか。
実は、義経は平氏の軍船の操縦者をことごとく射殺することにより、敵の船を動けなくしてしまったのです。船の操縦者は殺してはいけない、というよりそもそも戦いに参加していないというそれまでの常識を打ち破る、まさに「コロンブスの卵」的な、義経の柔軟な発想でした。
船が動かなくては勝てるはずがありません。平氏側の武将も奮戦して一時は義経を追いつめ、この際に義経が「八艘(はっそう)飛び」で難を逃れるという場面もありましたが、最終的には敗北し、あれほどの栄華を誇った平氏にも最期の時がやって来ようとしていました。
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ぴーち こんばんは!
そうですね・
戦いで勝利するということは
いかに無慈悲に相手をやっつけることが
出来るかに尽きるものなのかと
思いましたね・・
個人的には全く間逆な存在になりたいと
思ってはいますが(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 義経の動きを見ていると、やらねばならぬ時には徹底的に行うという姿勢がうかがえますね。
それが良い意味ならまだしも、守勢に回ったときには…。
抱き上げられた安徳天皇が「私をどこへ連れて行くのか」と問いかけられると、二位尼は涙ながらに「弥陀(みだ)の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じました。
その後、平氏一門の女性や武将たちも、安徳天皇に続くかのように次々と入水(じゅすい)しました。生き残った武将も源氏に捕えられてそのほとんどが処刑され、平治の乱の勝利以来、約25年続いた平氏による政権はついにその幕を閉じたのです。
「祗園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり。娑羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす。おごれる人も久しからず、唯(ただ)春の夜の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ、偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)に同じ」。(「平家物語」より)
哀切極まる平氏の最期には、万感胸に迫るものがありますね。
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ぴーち こんばんは!
浄土ですか・・
残念ながら、弥陀もそこには
居なかった事でしょう。
平氏の末路も邪教の害毒だったのでしょう・・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、宗教的にはそのような解釈もあるのですね。
いずれにせよ、哀切極まる最後です。
源氏や北条氏、あるいは足利氏や徳川氏といえども、当時の国民(あるいは武士)の支持を受けていたとはいえ、平氏と同じ武家政権であることに変わりはありません。それなのに彼らの政権は平氏と違って長く続きました。
その理由として考えられるのは、それぞれの政権が前任者の「失敗」を教訓としてきたということです。その具体的な内容について今回は省略しますが、人間というものはそもそも失敗から成長するということを考えれば、それも道理ではあります。
ということは、人間は前例のないことに関しては戸惑うとともに、失敗すれば大きく反発するものでもあるということです。我が国で初めて武家政権を樹立した「開拓者」であった平氏は、それゆえに滅亡するという「悲劇」を経験することになったのですが、彼らの足跡はその後の我が国の繁栄には絶対に欠かすことができません。
我が国の歴史における大きな流れに偉大な功績を残した平氏の生き様を学ぶことで、私たち自身が人生の幅を広げるとともに、次代に未来を託せるような日々を送りたいものですね。
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ぴーち こんばんは!
人の振り見て我がふり直せ
では有りませんが、
確かにその人の振る舞いが善につけ悪に付け
自分自身の身に置き換えて見たときに
一つの教訓として良い見本になって
くれる時が有りますものね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
私たちの一挙手一投足も、未来の日本国民が注目していると心すべきでしょう。