1160年、清盛は正三位(しょうさんみ)に昇進して、武士でありながら公家(くげ)の身分を得ることとなり、それまで貴族から見下されていた武士が初めて公家の仲間入りをし、彼らと肩を並べることになりました。後に清盛は、1167年には従一位(じゅいちい)の太政大臣(だじょうだいじん)にまで昇進します。
また、清盛は高倉(たかくら)天皇に自分の娘の平徳子(たいらのとくこ)を嫁(とつ)がせ、二人の間に言仁(ときひと)親王がお生まれになると、親王が3歳の1180年に安徳(あんとく)天皇として即位させたことで、清盛は天皇の外祖父(=母方の祖父のこと)にまで出世しました。
清盛によって隆盛を極めた平氏の下には、全国各地から500以上の荘園が集まると同時に、平氏が支配を任された知行国(ちぎょうこく)の数も、全国の半数近くの30数ヵ所にまで拡大するなど、経済的な基盤も強化されました。
このような政治的・経済的な背景に支えられた平氏によって、我が国史上初めて武士が本格的に政治の実権を握りました。しかし、その政権は清盛が天皇の外祖父になったり、平氏一門が次々と朝廷の要職に就いたりしたことで、摂関家のような貴族的な性格を持ったことから、平氏による権力の独占は、やがて周囲の大きな反発を招くことになるのです。
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陰謀の背景に後白河法皇の存在があったことを知って激怒した清盛は、2年後の1179年に軍勢を率いて後白河法皇を幽閉して院政を停止し、近臣たちの官職をすべて解くなどのクーデターを起こしました。なお、清盛の孫にあたられる安徳天皇が即位されたのは、この翌年(1180年)のことです。
清盛の立場から見れば、自己の政権を危うくしたのは後白河法皇側であり、法皇のかわりに平氏と血のつながりのある天皇を立て、反対勢力を封じ込めて一門で官職を固めるのは当然の防衛手段といえました。しかし、法皇を幽閉するという強硬な手段が、周囲のさらなる反発を招いてしまったのです。
それに加えて、平氏による政権には自身が気づいていない「重大な欠陥」があり、その欠陥こそが後の平氏滅亡への直接的な引き金となってしまったのですが、それはいったい何だったのでしょうか。
カギを握るのは、この時代の「土地制度」です。
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ぴーち こんばんは!
なるほど
余り守りに入ってしまうのも
反発を買うものですね。
土地制度ですか・・
どのような問題が勃発したのでしょうか・・(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 何事もやり過ぎは良くありませんからね。
土地制度は、結構深刻な問題でした。
詳しくは次回の更新をご覧ください。
平安時代の頃には、それまでの公地公民の原則が完全に崩壊して、荘園制度が全盛期を迎えていましたが、この制度には大きな欠陥がありました。それは、荘園の所有が上流貴族や寺社のみに認められていたということです。
実際に田畑を耕(たがや)しているのは、他ならぬ武士たちなのですが、朝廷は彼らの所有を認めようとしませんでした。困った武士たちは、仕方なく摂関家などの有力者に土地の名義を移し、自らは「管理人」の立場となりましたが、これほど不安定な制度はありません。
「自ら開墾した土地は、自身の手で堂々と所有したい」。いつしか武士の多くが切実な願いを持つようになりましたが、武士の心の内が理解できない貴族たちによって政治が行われている以上は、その願いは叶えられそうもありませんでした。
そんな折に、平氏が政治の実権を握ることに成功したことで、自分たちと同じ武士である平氏であれば、必ずや「武士のための政治」を実現してくれるに違いない、と全国の武士たちが期待したのです。
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ぴーち こんばんは!
他人の痛みは何年経っても
理解出来ない ものですよね(^_^;)
それ故に相手の思いに寄り添おうと
思う努力が大切なのですが
それはなかなか出来ない事ですからね(^_^;)
ならば、一番手っ取り早いのは
自分たちと同じ立場、同じ苦労を知るものに
思いを委ねようと思うのも手段ですものね。
その後、どうなって行ったのか
知りたいですね~
ぴーちさんへ
黒田裕樹 まさしく仰るとおりです。
貴族ならともかく、同じ武士である平氏がどのようにしたかが気になりますね。
なぜなら、平氏が摂関家の真似をしただけでは、武士たちの立場に全く変化がなかったからです。人間というものは期待が大きければ大きいほど、裏切られた場合の怒りが大きくなるものですが、この頃の武士たちも例外ではなく、平氏への期待が大きかっただけに「同じ武士なのに、なぜ俺たちの思いが分からないのか」と余計に不満を持つようになりました。
一方、それまで政治を行っていた貴族たちも、身分が低いうえに血を流す「ケガレた」仕事しかしないと見下(みくだ)していた武士である平氏が、自分たちの真似をしたことに対して激しく反発していました。すなわち、平氏の行った政治は、武士と貴族の双方から問答無用で拒否されてしまったのです。
源頼朝や足利尊氏(あしかがたかうじ)、織田信長(おだのぶなが)や豊臣秀吉(とよとみひでよし)、あるいは徳川家康(とくがわいえやす)など、後の世で武士による政治が広く支持されたという現実を考えれば、初めてであるがゆえに、確固たるビジョンを持てない「開拓者」としての立場でしかなかった、平氏の悲劇でもありました。
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ぴーち こんばんは!
これまで平氏が廃れてしまった本当の理由を
自分は知らずに来てしまったのだなと改めて思いました。
確かに期待が大きければ、その期待が予想以上に外れてしまった場合、人はその者に対して怒りを
覚えるものですね。
やはり人真似ではなく
オリジナリティというものが大切なのだと
感じます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
オリジナリティを発揮しようにも、その素養がなかった平氏でしたから、その後の運命は決まったも同然でした。
平氏の場合も決して例外ではなく、やがて「武士のための政治」を実現させる他の勢力が現れたことで、全盛期には「平家に非(あら)ずんば人に非(あら)ず」とまでいわれた平氏の天下が、あっという間に崩れ去ってしまいました。
では「武士のための政治」とは一体どのようなものなのでしょうか。そして、平氏にかわって政治の実権を握った勢力には、なぜ「武士のための政治」が理解できたのでしょうか。
そのカギを握る人物こそが、かつて清盛が生命を助けた源頼朝なのです。
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ぴーち こんばんは!
確かに国民一人ひとりがあってこそですよね^^
それにしても、源頼朝という人は
それまで成し得なかった武士の立ち位置を
見事に変えたわけなのでしょうけれど
一体どんな施策なのか。。
早く知りたいですねえ~(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 源頼朝については、彼の境遇に将来の布石があります。
詳しくは次回の更新をご覧ください。