清和源氏は、先述したように源経基が始祖とされており、経基の子である源満仲(みなもとのみつなか)は、摂津の多田(ただ、現在の兵庫県川西市多田)に土着していましたが、969年に起きた「安和(あんな)の変」で謀反(むほん)を密告して、源高明(みなもとのたかあきら)を失脚させた功績によって、摂関家に接近しました。
源満仲の子のうち、源頼光(みなもとのよりみつ)は各地の国司を歴任し、その際に蓄えた財産を利用して、藤原道長の側近として仕えることによって、武家の棟梁(とうりょう)としての地位を高めました。
その頼光の弟にあたるのが、平忠常の乱を鎮圧した源頼信でした。忠常の反乱によって平氏の勢力が衰えた一方で、源氏は頼信の活躍によって、東国における勢力を広げるきっかけをつくったのです。
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ぴーち こんばんは!
この頃は、何事も戦いによって
勝敗が決められていた時代だったのですね。
そんな中、源頼光は
お金に物を言わせて
地位を獲得したと言う事ですが
この時代のお金に対する
価値観は現代と同等だったのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 当時は貨幣の発行がなされなくなっていましたが、財産を金銀などの貴金属に変えて保管していたと思われます。
こうした豊富な経済力に支えられて、東北地方では現在の太平洋側を安倍氏(あべし)が、日本海側を清原氏(きよはらし)が地方豪族として支配し、その力は次第に強くなっていきました。
1051年、安倍氏の棟梁であった安倍頼時(あべのよりとき)が反乱を起こしました。朝廷では源頼信の子である源頼義(みなもとのよりよし)を陸奥守(むつのかみ)・鎮守府(ちんじゅふ)将軍に任じて、頼義の子である源義家(みなもとのよしいえ)とともに鎮圧を命じました。
しかし、平将門を滅ぼした藤原秀郷の子孫とされる藤原経清(ふじわらのつねきよ)が寝返ったことで、朝廷側は苦戦し、戦いは長期化しました。
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ぴーち こんばんは!
あら!
この頃にも安倍氏が活躍していたんですね^^
現代の首相は山口出身との事ですので
ご先祖という事は無いでしょうけれど(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 現代の首相は山口出身との事ですので
> ご先祖という事は無いでしょうけれど(^_^;)
さぁどうでしょう(笑)?
次回以降の更新をお待ちくださいm(_ _)m
1051年から1062年まで続いた安倍氏による一連の反乱は、「前九年(ぜんくねん)の役(えき)」と呼ばれています。
反乱の後、安倍氏の領地は清原氏に与えられ、清原氏が事実上の東北地方(=陸奥)の覇者となりました。なお、滅ぼされた安倍氏の中で流罪(るざい)となり、生き残った安倍宗任(あべのむねとう)の子孫が、九州で松浦党(まつらとう)と呼ばれる武士団として活躍したと伝えられ、また、その血脈は現代にまで残り、21世紀には国政のトップにまで登りつめました。
安倍晋三(あべしんぞう)内閣総理大臣のことです。
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ぴーち こんばんは!
流罪で!
そうでしたか(^_^;)
それでは岸信介氏もその流れだったのですかね?
それにしても、血は争えませんね~
ぴーちさんへ
黒田裕樹 岸信介元首相は、佐藤家(佐藤栄作元首相の実兄です)から、婿養子だった父の実家である岸家の養子になりました。岸元首相の娘と安倍晋太郎氏が結婚して、生まれたのが安倍晋三首相になります。
また、滅ぼされた藤原経清の未亡人が、武則の子の清原武貞(きよはらのたけさだ)の妻として新たに迎えられました。
武貞には既(すで)に嫡子(ちゃくし、跡継ぎのこと)である清原真衡(きよはらのさねひら)がいましたが、未亡人と藤原経清との間の連れ子である清原清衡(きよはらのきよひら)を養子とし、また未亡人との間に清原家衡(きよはらのいえひら)が生まれました。武貞の子はいずれも父親もしくは母親が異なるという複雑な関係となり、兄弟同士の不仲をもたらしてしまいました。
こうした兄弟同士の不仲が、やがて清原氏の内紛を引き起こし、ついには兄弟同士で大きな戦乱になってしまいました。1083年から1087年まで続いたこの戦いのことを「後三年(ごさんねん)の役(えき)」といいますが、この内紛に乗じて源氏による陸奥の支配を目指した源義家は、朝廷から陸奥守を拝命して、後三年の役に積極的にかかわりました。
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ぴーち こんばんは!
確かに
兄弟の間で
親がそれぞれ違かったりすると
成長した後に関係がどうもしっくりいかず
どこかギクシャクした関係になるものですよね。
そこの所は、人の感情の難しい所ですね。
なかには完全に割り切った付き合いをして
仲睦まじい兄弟も居るようですが
なかなかそこまで捌けた考え方が
出来ないのが現状ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 通常の家庭ですら難しいのに、ましてや武士であれば尚更ですからね。
起こるべくして起こった内紛といえそうです。
途方に暮れた義家は、自腹を切って部下に恩賞を与えましたが、皮肉にもこのことで義家は東国の武士たちの心をとらえ、源氏を棟梁と仰ぐ深い信頼関係が生まれたのです。
なお、前九年の役は11年、後三年の役は4年続いているのに、なぜ「九年」「三年」と名づけられているかについては、様々な説が挙げられていますが、正確には分かっていません。
後三年の役の勝者となった清原清衡は、源義家が東北を去った後に、藤原氏に復姓して藤原清衡(ふじわらのきよひら)を名乗り、豊富な資金力で工作した結果、朝廷から陸奥の支配権を認めてもらいました。
藤原清衡は奥州の平泉(ひらいずみ、現在の岩手県平泉町)を本拠地(ほんきょち)として陸奥を完全に手中に収め、清衡の子である藤原基衡(ふじわらのもとひら)、さらに基衡の子である藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の三代、約100年にわたって奥州藤原氏が全盛を極める基礎を固めたのです。
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ぴーち こんばんは!
元から心根に慈悲の思いが強く宿っている人は
どんなに惨めな立場に追いやられたとしても
常に他の人間を気遣う気持ちで
必ず自分自身も救われていくものだと思いますね。。。
地方創生の手本
青田です。 青田です。
なぜか、私の周りの歴史好きに、この奥州藤原氏の話をすると、
盛り上がりません。東北出身の人も、あまり、興味がないようです。
私にすれば、この奥州藤原氏は、もの凄い偉業を成し遂げました。
① 東北を一つにした。
→ それまで、東北は、度重なる戦いの連続で殺し合い、人心がバラバラになっていました。
それを奥州藤原氏は、一つにまとめました。
② 文化地域にした。
→ 当時、東北地方は、京都からすると、蝦夷と蔑称で、呼ばれ、文化的に劣るとされて、馬鹿にされていました。
それを、奥州藤原氏は、この世に極楽浄土を創ろうと、文化地域にしました。
③ 平泉を近代都市にした。
当時の京の都の人口は、17万人都市です。
それに比べて、平泉は、12万都市でした。
その当時、日本第二の都市です。
④ 大経済地域にした。
それまでの東北は、飢饉が多く、貧しい地域でしたが、それを金山の開発と交易で、一大経済地域にしました。
有能なリーダーの力で、ここまで、地方を変えることが出来るという証明です。
現在、日本の地方は、中央ばかりを観ていて、文句ばかり、言っていますが、
地方を視点にした思考も歴史教育では、必要です。
やはり、有能なリーダーで、世の中は、変わりますね。
その後、戦国時代になっても、結局、東北全体を一つにまとめるだけのリーダーは、出現しませんでしたが。。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 義家には義家の思惑があったとは思いますが、結果的に自腹を切ったことが、大きな効果をもたらしましたね。
青田さんへ
黒田裕樹 こうした事実を鑑みれば、確かに素晴らしいことですね。
盛り上がらない背景には、歴史教育の偏向もあると思います。
日本の優れたところは紹介しないとか…。
藤原清衡の裏技
青田です。 青田です。
この源義家の朝廷からの、不当な扱いは
藤原清衡が、金を使った調停工作があると
言われています。
藤原清衡が、源氏が東北に介入してきて、バラバラになった苦い経験があったので、中央の不介入を防ぐために行ったという説があります。
最初から、藤原清衡は、東北に理想郷を創ろうというビジョンがあったようです。
今の時代にいて欲しかったです。
青田さんへ その2
黒田裕樹 そう考えれば、藤原清衡の政治力は大したものですね。
奥州藤原氏は、武士政権の先駆け
青田です。 青田です。
私は、奥州藤原氏は、東北地方だけですが、
日本初の武家政権だと思います。
① 奥州藤原氏は、中央から来る国司を拒まず受け入れ、奥州第一の有力者としてそれに協力するという姿勢を最後まで崩しませんでした。
②清衡は陸奥押領使に、基衡は奥六郡押領使、出羽押領使に、秀衡は鎮守府将軍という軍事権・警察権も与えられました。
③奥州の摂関家荘園の管理も奥州藤原氏に任されていました。
中央政府が権力争いをしているがゆえに、奥州まで介入する余裕が無かったことが幸いだった気がします。
中央から離れた独立政権というのは、画期的でした。
おそらく、今でいうEUのような感じだった気がします。
個人的には、今でも、東京一極集中で、東京から、上から目線で、地方を観るののに腹が立つ私とすれば、当時の京の都を凌いだ平泉を築いた奥州藤原氏は、好きです。
青田さんへ その3
黒田裕樹 仰る思いは良く分かるつもりです。