歴史的区分においては、794年に桓武(かんむ)天皇が平安京に遷都(せんと)されたのが始まりで、源頼朝(みなもとのよりとも)が朝廷から征夷大将軍に任じられ、鎌倉幕府を開いた1192年までが平安時代とされていますが、その全体像については、あまり知られていないことが多いようです。
実は、約400年続いた平安時代は、庶民(しょみん)にとっては非常に住みにくい、地獄のような日々でした。「平安」という名前とは裏腹に、この時代は、地方を中心に国全体で争いが絶えなかったのです。なぜそうなってしまったのでしょうか。
その原因として真っ先に挙げられるのが、朝廷によって我が国直属の軍隊が廃止されたことです。征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)らが東北の蝦夷(えみし)を平定し、9世紀の初め頃までに国内をほぼ統一した朝廷が、逆らう勢力も存在しないのに費用のかかる軍隊を所有する必要はない、と判断したからでした。
※下記の映像は12月20日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
確かに現代でも平成と言いながら
なかなか波乱万丈な時代でも有りますしね(^_^;)
名前とは裏腹な皮肉な結果となっていますね。
それにしても、今まで何気なく聞いていましたが
江戸時代の300年は長かったのだなと
思っていたら、平安時代は400年も
続いていたんですね~・・
改めて、400年という長さに驚きました!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、400年は長いですよね。
名前とは裏腹に、というところが何とも言えませんが…。
このため、盗賊を中心に力あるものが支配する世の中となり、数多くの生命や財産が奪われたことから、人々は自らを守るために自然と武装するようになりました。
これこそが、武士が誕生するきっかけだったのですが、武士団の形成に関しては、実はもう一つの理由がありました。前々回(第55回)の講演で詳しく紹介しました、いわゆる「おいしい」職務である国司がその原因です。彼らは任期制ですから、一定の年数が過ぎると都へ戻らなければなりませんが、ここで大きな問題が起きました。
国司たちは、通常よりも多くの税をかき集めて自分の利益としたほか、自己の任期中に土地をできるだけ開墾(かいこん)することで巨万の富を得ましたが、任期中に開墾した土地を都へ持って帰ることは、いくらなんでも不可能でした。せっかく開墾した土地を他人に奪われるのは納得がいかないということで、任期が切れた後も地方にそのまま残って土着し、同じように武士となっていく者も現れたのです。
武士たちは、各地の豪族が次第にまとまって地方武士団を形成していきましたが、やがては国司から土着した貴族の出身者たちがその中心となっていきました。その中でも特に有名だったのが、桓武平氏(かんむへいし)や清和源氏(せいわげんじ)の出身者たちでした。
※下記の映像は12月20日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
「国司」のお話は覚えておりました!
それにしても
つくづくお金の力と言うのは凄いですねぇ・・
その人の人生そのものをガラリと変えてしまう
力が有るんですものね。
勿論、良きにつけ悪しきにつけですが(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 覚えててくださり、有難うございますm(_ _)m
仰るとおり、良しにつけ悪しきにつけ、カネの力は凄いですね。
将門はその後も下野(しもつけ、現在の栃木県など)や上野(こうずけ、現在の群馬県の大部分)の国府も攻略して関東の大半を占領し、自身が桓武天皇の子孫であることから「新皇(しんのう)」と自称しました。しかし、翌940年に、同じ東国の武士である平貞盛(たいらのさだもり)や藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らによって、将門は滅ぼされました。
同じ頃、西国でも伊予(いよ、現在の愛媛県)の国司であった藤原純友(ふじわらのすみとも)が、瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、伊予の国府や大宰府(だざいふ)を攻め落としましたが、941年に、清和源氏の始祖(しそ)とされる源経基(みなもとのつねもと)らによって滅ぼされました。この戦いは「藤原純友の乱」と呼ばれています。
同時期に東西で起きた二つの反乱は、乱自体は何とか制圧したものの、軍事力の低下が明らかとなった朝廷に衝撃を与えるとともに、地方武士の組織が一層強化されるきっかけになりました。なお、この二つの乱は、当時の年号から「承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱」とも呼ばれています。
※下記の映像は12月20日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
確かに
同じ勝利と言えども
圧勝して勝ち得た結果と
競り合った末に何とか勝った結果とでは
随分差が有りますものね。
そしてその勝ち方は
そのまま、勝利した側のその時の
勢力の度合いを指し示すものですから
心していかねばなりませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 結果的に勝利を収めたとしても、その後の対策が一番重要ですからね。
まさに「勝って兜の緒を締めよ」です。
つまり、武士たちをガードマンとして雇(やと)うようになったのです。なお、「さむらい」という言葉は、身分の高い人のそばで仕えることを意味する「さぶらふ(=さぶらう)」が由来です。
このようにして、軍隊を持たなかった朝廷や国司は、治安の維持のために武士を積極的に利用するようになりましたが、当時の武士は、求めに応じて各地で起きた反乱を鎮圧するのが主な役目であり、朝廷を脅(おびや)かすまでの実力には至っていませんでした。
それは、承平・天慶の乱から約100年後に、藤原道長(ふじわらのみちなが)や藤原頼通(ふじわらのよりみち)らが栄華の頂点を極めたことでも明らかであり、武士団のさらなる成長は、藤原氏の栄華の時代の後にやってくるのでした。
※下記の映像は12月20日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
さむらいと言うのは、読んで字のごとく
「侍」=寺院に関連する役職が起源かと
思っていましたが、違った意味合いから
来ていたんですね!
勉強になりましたm(_ _)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
字面だけを見ると、ぴーちさんのようにお考えになられる人も多いかと思いますが、「侍」という漢字には「侍(はべ)る」という意味もありますからね。恐らくはそこから来ていると思われます。
ご即位の際に35歳と働き盛りであられた後三条天皇は、学問好きで個性の強い性格をお持ちであり、お自らが意欲的に政治の刷新を行われました。
後三条天皇は、摂関家の勢いに歯止めを掛けるには、彼らの財産でもある荘園に手を加えることが一番の近道とお考えになり、1069年に「延久(えんきゅう)の荘園整理令」を出されると、摂関家や寺社が所有する荘園も例外なく、1045年以降に新たにつくられた荘園を全面的に停止しました。
この他、書類上不備があったり、国政上の妨(さまた)げとみなされたりした荘園も、すべて停止処分とされて国庫に組み入れられるなど、延久の荘園整理令はかなりの成果を挙げました。
※下記の映像は12月20日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
確かに
成長する勢いを止めるには
その財源を断つ事だと思いますね!
直ぐ様そこを攻めるとは
さすがに学問好きで有らせられただけ
有りますね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
荘園整理令そのものは以前にも行われていましたが、天皇ご自身が摂関家を外戚とされないだけに、思い切った手法を行われることが可能だったのも、今回の大きな効果につながりました。
こうして、それまでの摂関家にかわって、天皇の父(あるいは祖父)が上皇として天皇を後見される制度が新たに誕生しました。上皇の住居が院と呼ばれ、その後に上皇自身が「院」と称されることになったことから、この制度のことを「院政(いんせい)」といいます。
上皇が天皇を後見されるというのは、制度化されていた摂政や関白と異なって、あくまで私的なものでしたが、その分、法や慣例にこだわらずに、上皇がフリーハンドな立場で政治を行えるという利点がありました。
荘園整理の断行によって、院政は、国司あるいは摂関家によって、それまで半強制的に支配されていた地方豪族や開発領主たちに歓迎され、彼らを支持勢力に取り込むことによって、摂関家の勢力を抑え込むことに成功しました。
※下記の映像は12月20日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
これまで上皇という名前は聞いたことが
有りましたが、その中身を知ることは有りませんでしたが、フリーハンドな立場であったという事は
自分の中では意外でした!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 律令などに一切規定がありませんからね。だからこそ、摂関家を抑え込むには最適だったと思われます。
ん~難しいですね。
青田です。 青田です。
この歴史的事実が、歴史を知っている人にたいして
現在の今上天皇の御譲位について
国民が理解しにくい歴史的な事実のような気します。
マスコミは、歴史認識ゼロなので、本当は、譲位なのに生前退位と間違った報道されていますが、
これは、この時代の譲位のイメージを知らないこともあると思います。
現在の今上天皇が、譲位されますが、
ということは、上皇になられるということのように
感じます。
この時代は、、制度化されていた摂政や関白され、天皇については、制度化されていませんでしたが、
現在は、立憲君主制で、皇室典範なので、制度化されています。
この時代にも天皇だけが出来る国事行為があったのが気になります。
青田さんへ
黒田裕樹 現代においては、憲法を全くいじれないところに問題があると思います。
院政は律令のどこにも規定がありませんでしたので、今なら「憲法違反」になりかねません。
政治家がまず、歴史を学ばないと
青田です。 青田です。
よく、憲法改正と言えば、スグ憲法9条ばかり頭に浮かべますが、
天皇の御譲位という問題が起こった時にも、ブロックするのですね。
もはや、憲法をアンタッチャブルになるのは、無理ですね。
今、歴史離れが進んでいて
我が国の歴史も知らない政治家が多く
根本を考えられる人間が、今の政治家に少ないことも問題ですね。
青山繁晴さんが、欧米先進国で、自国の歴史を知らない政治家は、会ったことがないとネットで、話していました。
個人的には、政治家は、当選したら、日本史検定試験を義務付けるべきだと思います。
(鎌倉幕府も知らない政治家もいるそうですから)
青田さんへ その2
黒田裕樹 確かにその危惧はありますね。
それだけ、これまでの歴史教育がいい加減であったことを証明していることにもなりますが。
院政のもとでは、上皇からの命令を伝える院宣(いんぜん)などが、国政に対して大きな影響力を持つようになりました。また、白河上皇は直属の警備機関として「北面(ほくめん)の武士」を組織されました。
院政は、白河上皇が43年間続けられた後にも、鳥羽(とば)上皇が27年、さらに後白河(ごしらかわ)上皇が32年と、合計約100年間という長期にわたって続けられたのです。
院政時代を築いた各上皇は、仏教を厚く信仰され、それぞれ出家して法皇(ほうおう)となられました。各法皇は、白河法皇が天皇ご即位時の1076年に建てられた法勝寺(ほっしょうじ)などの造寺・造仏事業を行われるとともに、熊野三山(くまのさんざん)への熊野詣(くまのもうで)や、高野山への高野詣(こうやもうで)を繰り返されました。
※下記の映像は12月20日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
そうですよね。まだこの時代は
仏教に対しての信仰心は強く
亡くなった後何とか
成仏したいという気持ちが
大いにあった時代だと思います。
それにしても1世紀もの長い間
院政が続いたというのも、すごかったですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりのお考えがおありだからこそ、ご出家あそばされたのでしょうね。
院政は約1世紀続きましたが、それ以前の摂関政治も長いですからね(^^;
また、かつては摂関家に集中していた荘園が、新たに政治の実権を握った院に集まるようになり、不入(ふにゅう)の権に警察権の排除も含まれるなど、不輸(ふゆ)や不入の特権が強化されることによって、荘園の独立性が強まりました。
一方、院と同様に荘園の寄進が集中した大寺院では、自衛のために下級僧侶(そうりょ)や荘園の農民を僧兵として組織しました。大寺院では僧兵を使用して国司と争い、また自らの要求を通すために、奈良の興福寺(こうふくじ)では春日大社(かすがたいしゃ)の神木(しんぼく、神社の境内に植えられた神聖な木のこと)を、比叡山(ひえいざん)の延暦寺(えんりゃくじ)では日吉大社(ひよしたいしゃ)の神輿(しんよ、神社の祭礼に使用する「みこし」のこと)を先頭に立てて京都へ乱入し、朝廷へ強訴(ごうそ)することもありました。
朝廷はこれらの圧力に対抗するために、源氏や平氏といった武士を用いて警護や鎮圧にあたらせましたが、このことが、やがて武士の中央政界への進出をもたらすことになるのです。
※下記の映像は12月20日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
この頃から
宗教と政治の癒着、絡みが顕著になって
行ったのでしょうかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この頃から
> 宗教と政治の癒着、絡みが顕著になって
> 行ったのでしょうかね?
癒着というよりも、上皇(法皇)の権力が強くなりすぎたことによる弊害でしょうね。
その後始末を武士にまかっせきりだったツケが、この後大きな影響を及ぼすことになります。
また、院に経済的基盤が集中したことによって、治天の君と称された上皇(または法皇)の権力は飛躍的に高まり、さらに「天皇の父(あるいは祖父)」という強い立場もあって、院の権力は、歯止めがかからないほどの独裁的な色彩を見せるようになりました。
例えば、白河法皇による「賀茂川(かもがわ)の水と、双六(すごろく)の賽(さい、サイコロのこと)の目、それに山法師(やまほうし、延暦寺の僧兵のこと)だけは自分の意にならない」というお言葉が有名ですが、裏を返せば、先述の三つ以外については自己の思いのままに動かせる、という意味でもあるわけです。
白河法皇や鳥羽法皇は、やがては皇位の継承についても意見されるようになり、結果として政治の混乱を招くことになりました。また、土地制度に大きな変化がなかったことが、全国各地の武士の不満を高めることとなり、来るべき新しい時代へ向けての大きな原動力と化していったのです。
※下記の映像は12月20日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
人間、何もかも意のままになってしまうとのは
極めて、危険であり
恐ろしい事だと改めて感じるお話ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに仰るとおりですね。
だからこそ、歴史の神様に大きなしっぺ返しを食らうことにもなるのですが…。