歴史的区分においては、794年に桓武(かんむ)天皇が平安京に遷都(せんと)されたのが始まりで、源頼朝(みなもとのよりとも)が朝廷から征夷大将軍に任じられ、鎌倉幕府を開いた1192年までが平安時代とされていますが、その全体像については、あまり知られていないことが多いようです。
実は、約400年続いた平安時代は、庶民(しょみん)にとっては非常に住みにくい、地獄のような日々でした。「平安」という名前とは裏腹に、この時代は、地方を中心に国全体で争いが絶えなかったのです。なぜそうなってしまったのでしょうか。
その原因として真っ先に挙げられるのが、朝廷によって我が国直属の軍隊が廃止されたことです。征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)らが東北の蝦夷(えみし)を平定し、9世紀の初め頃までに国内をほぼ統一した朝廷が、逆らう勢力も存在しないのに費用のかかる軍隊を所有する必要はない、と判断したからでした。
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ぴーち こんばんは!
確かに現代でも平成と言いながら
なかなか波乱万丈な時代でも有りますしね(^_^;)
名前とは裏腹な皮肉な結果となっていますね。
それにしても、今まで何気なく聞いていましたが
江戸時代の300年は長かったのだなと
思っていたら、平安時代は400年も
続いていたんですね~・・
改めて、400年という長さに驚きました!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、400年は長いですよね。
名前とは裏腹に、というところが何とも言えませんが…。
このため、盗賊を中心に力あるものが支配する世の中となり、数多くの生命や財産が奪われたことから、人々は自らを守るために自然と武装するようになりました。
これこそが、武士が誕生するきっかけだったのですが、武士団の形成に関しては、実はもう一つの理由がありました。前々回(第55回)の講演で詳しく紹介しました、いわゆる「おいしい」職務である国司がその原因です。彼らは任期制ですから、一定の年数が過ぎると都へ戻らなければなりませんが、ここで大きな問題が起きました。
国司たちは、通常よりも多くの税をかき集めて自分の利益としたほか、自己の任期中に土地をできるだけ開墾(かいこん)することで巨万の富を得ましたが、任期中に開墾した土地を都へ持って帰ることは、いくらなんでも不可能でした。せっかく開墾した土地を他人に奪われるのは納得がいかないということで、任期が切れた後も地方にそのまま残って土着し、同じように武士となっていく者も現れたのです。
武士たちは、各地の豪族が次第にまとまって地方武士団を形成していきましたが、やがては国司から土着した貴族の出身者たちがその中心となっていきました。その中でも特に有名だったのが、桓武平氏(かんむへいし)や清和源氏(せいわげんじ)の出身者たちでした。
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ぴーち こんばんは!
「国司」のお話は覚えておりました!
それにしても
つくづくお金の力と言うのは凄いですねぇ・・
その人の人生そのものをガラリと変えてしまう
力が有るんですものね。
勿論、良きにつけ悪しきにつけですが(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 覚えててくださり、有難うございますm(_ _)m
仰るとおり、良しにつけ悪しきにつけ、カネの力は凄いですね。
将門はその後も下野(しもつけ、現在の栃木県など)や上野(こうずけ、現在の群馬県の大部分)の国府も攻略して関東の大半を占領し、自身が桓武天皇の子孫であることから「新皇(しんのう)」と自称しました。しかし、翌940年に、同じ東国の武士である平貞盛(たいらのさだもり)や藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らによって、将門は滅ぼされました。
同じ頃、西国でも伊予(いよ、現在の愛媛県)の国司であった藤原純友(ふじわらのすみとも)が、瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、伊予の国府や大宰府(だざいふ)を攻め落としましたが、941年に、清和源氏の始祖(しそ)とされる源経基(みなもとのつねもと)らによって滅ぼされました。この戦いは「藤原純友の乱」と呼ばれています。
同時期に東西で起きた二つの反乱は、乱自体は何とか制圧したものの、軍事力の低下が明らかとなった朝廷に衝撃を与えるとともに、地方武士の組織が一層強化されるきっかけになりました。なお、この二つの乱は、当時の年号から「承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱」とも呼ばれています。
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ぴーち こんばんは!
確かに
同じ勝利と言えども
圧勝して勝ち得た結果と
競り合った末に何とか勝った結果とでは
随分差が有りますものね。
そしてその勝ち方は
そのまま、勝利した側のその時の
勢力の度合いを指し示すものですから
心していかねばなりませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 結果的に勝利を収めたとしても、その後の対策が一番重要ですからね。
まさに「勝って兜の緒を締めよ」です。
つまり、武士たちをガードマンとして雇(やと)うようになったのです。なお、「さむらい」という言葉は、身分の高い人のそばで仕えることを意味する「さぶらふ(=さぶらう)」が由来です。
このようにして、軍隊を持たなかった朝廷や国司は、治安の維持のために武士を積極的に利用するようになりましたが、当時の武士は、求めに応じて各地で起きた反乱を鎮圧するのが主な役目であり、朝廷を脅(おびや)かすまでの実力には至っていませんでした。
それは、承平・天慶の乱から約100年後に、藤原道長(ふじわらのみちなが)や藤原頼通(ふじわらのよりみち)らが栄華の頂点を極めたことでも明らかであり、武士団のさらなる成長は、藤原氏の栄華の時代の後にやってくるのでした。
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ぴーち こんばんは!
さむらいと言うのは、読んで字のごとく
「侍」=寺院に関連する役職が起源かと
思っていましたが、違った意味合いから
来ていたんですね!
勉強になりましたm(_ _)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
字面だけを見ると、ぴーちさんのようにお考えになられる人も多いかと思いますが、「侍」という漢字には「侍(はべ)る」という意味もありますからね。恐らくはそこから来ていると思われます。
ご即位の際に35歳と働き盛りであられた後三条天皇は、学問好きで個性の強い性格をお持ちであり、お自らが意欲的に政治の刷新を行われました。
後三条天皇は、摂関家の勢いに歯止めを掛けるには、彼らの財産でもある荘園に手を加えることが一番の近道とお考えになり、1069年に「延久(えんきゅう)の荘園整理令」を出されると、摂関家や寺社が所有する荘園も例外なく、1045年以降に新たにつくられた荘園を全面的に停止しました。
この他、書類上不備があったり、国政上の妨(さまた)げとみなされたりした荘園も、すべて停止処分とされて国庫に組み入れられるなど、延久の荘園整理令はかなりの成果を挙げました。
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ぴーち こんばんは!
確かに
成長する勢いを止めるには
その財源を断つ事だと思いますね!
直ぐ様そこを攻めるとは
さすがに学問好きで有らせられただけ
有りますね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
荘園整理令そのものは以前にも行われていましたが、天皇ご自身が摂関家を外戚とされないだけに、思い切った手法を行われることが可能だったのも、今回の大きな効果につながりました。
こうして、それまでの摂関家にかわって、天皇の父(あるいは祖父)が上皇として天皇を後見される制度が新たに誕生しました。上皇の住居が院と呼ばれ、その後に上皇自身が「院」と称されることになったことから、この制度のことを「院政(いんせい)」といいます。
上皇が天皇を後見されるというのは、制度化されていた摂政や関白と異なって、あくまで私的なものでしたが、その分、法や慣例にこだわらずに、上皇がフリーハンドな立場で政治を行えるという利点がありました。
荘園整理の断行によって、院政は、国司あるいは摂関家によって、それまで半強制的に支配されていた地方豪族や開発領主たちに歓迎され、彼らを支持勢力に取り込むことによって、摂関家の勢力を抑え込むことに成功しました。
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ぴーち こんばんは!
これまで上皇という名前は聞いたことが
有りましたが、その中身を知ることは有りませんでしたが、フリーハンドな立場であったという事は
自分の中では意外でした!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 律令などに一切規定がありませんからね。だからこそ、摂関家を抑え込むには最適だったと思われます。
ん~難しいですね。
青田です。 青田です。
この歴史的事実が、歴史を知っている人にたいして
現在の今上天皇の御譲位について
国民が理解しにくい歴史的な事実のような気します。
マスコミは、歴史認識ゼロなので、本当は、譲位なのに生前退位と間違った報道されていますが、
これは、この時代の譲位のイメージを知らないこともあると思います。
現在の今上天皇が、譲位されますが、
ということは、上皇になられるということのように
感じます。
この時代は、、制度化されていた摂政や関白され、天皇については、制度化されていませんでしたが、
現在は、立憲君主制で、皇室典範なので、制度化されています。
この時代にも天皇だけが出来る国事行為があったのが気になります。
青田さんへ
黒田裕樹 現代においては、憲法を全くいじれないところに問題があると思います。
院政は律令のどこにも規定がありませんでしたので、今なら「憲法違反」になりかねません。
政治家がまず、歴史を学ばないと
青田です。 青田です。
よく、憲法改正と言えば、スグ憲法9条ばかり頭に浮かべますが、
天皇の御譲位という問題が起こった時にも、ブロックするのですね。
もはや、憲法をアンタッチャブルになるのは、無理ですね。
今、歴史離れが進んでいて
我が国の歴史も知らない政治家が多く
根本を考えられる人間が、今の政治家に少ないことも問題ですね。
青山繁晴さんが、欧米先進国で、自国の歴史を知らない政治家は、会ったことがないとネットで、話していました。
個人的には、政治家は、当選したら、日本史検定試験を義務付けるべきだと思います。
(鎌倉幕府も知らない政治家もいるそうですから)
青田さんへ その2
黒田裕樹 確かにその危惧はありますね。
それだけ、これまでの歴史教育がいい加減であったことを証明していることにもなりますが。
院政のもとでは、上皇からの命令を伝える院宣(いんぜん)などが、国政に対して大きな影響力を持つようになりました。また、白河上皇は直属の警備機関として「北面(ほくめん)の武士」を組織されました。
院政は、白河上皇が43年間続けられた後にも、鳥羽(とば)上皇が27年、さらに後白河(ごしらかわ)上皇が32年と、合計約100年間という長期にわたって続けられたのです。
院政時代を築いた各上皇は、仏教を厚く信仰され、それぞれ出家して法皇(ほうおう)となられました。各法皇は、白河法皇が天皇ご即位時の1076年に建てられた法勝寺(ほっしょうじ)などの造寺・造仏事業を行われるとともに、熊野三山(くまのさんざん)への熊野詣(くまのもうで)や、高野山への高野詣(こうやもうで)を繰り返されました。
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ぴーち こんばんは!
そうですよね。まだこの時代は
仏教に対しての信仰心は強く
亡くなった後何とか
成仏したいという気持ちが
大いにあった時代だと思います。
それにしても1世紀もの長い間
院政が続いたというのも、すごかったですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりのお考えがおありだからこそ、ご出家あそばされたのでしょうね。
院政は約1世紀続きましたが、それ以前の摂関政治も長いですからね(^^;
また、かつては摂関家に集中していた荘園が、新たに政治の実権を握った院に集まるようになり、不入(ふにゅう)の権に警察権の排除も含まれるなど、不輸(ふゆ)や不入の特権が強化されることによって、荘園の独立性が強まりました。
一方、院と同様に荘園の寄進が集中した大寺院では、自衛のために下級僧侶(そうりょ)や荘園の農民を僧兵として組織しました。大寺院では僧兵を使用して国司と争い、また自らの要求を通すために、奈良の興福寺(こうふくじ)では春日大社(かすがたいしゃ)の神木(しんぼく、神社の境内に植えられた神聖な木のこと)を、比叡山(ひえいざん)の延暦寺(えんりゃくじ)では日吉大社(ひよしたいしゃ)の神輿(しんよ、神社の祭礼に使用する「みこし」のこと)を先頭に立てて京都へ乱入し、朝廷へ強訴(ごうそ)することもありました。
朝廷はこれらの圧力に対抗するために、源氏や平氏といった武士を用いて警護や鎮圧にあたらせましたが、このことが、やがて武士の中央政界への進出をもたらすことになるのです。
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ぴーち こんばんは!
この頃から
宗教と政治の癒着、絡みが顕著になって
行ったのでしょうかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この頃から
> 宗教と政治の癒着、絡みが顕著になって
> 行ったのでしょうかね?
癒着というよりも、上皇(法皇)の権力が強くなりすぎたことによる弊害でしょうね。
その後始末を武士にまかっせきりだったツケが、この後大きな影響を及ぼすことになります。
また、院に経済的基盤が集中したことによって、治天の君と称された上皇(または法皇)の権力は飛躍的に高まり、さらに「天皇の父(あるいは祖父)」という強い立場もあって、院の権力は、歯止めがかからないほどの独裁的な色彩を見せるようになりました。
例えば、白河法皇による「賀茂川(かもがわ)の水と、双六(すごろく)の賽(さい、サイコロのこと)の目、それに山法師(やまほうし、延暦寺の僧兵のこと)だけは自分の意にならない」というお言葉が有名ですが、裏を返せば、先述の三つ以外については自己の思いのままに動かせる、という意味でもあるわけです。
白河法皇や鳥羽法皇は、やがては皇位の継承についても意見されるようになり、結果として政治の混乱を招くことになりました。また、土地制度に大きな変化がなかったことが、全国各地の武士の不満を高めることとなり、来るべき新しい時代へ向けての大きな原動力と化していったのです。
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ぴーち こんばんは!
人間、何もかも意のままになってしまうとのは
極めて、危険であり
恐ろしい事だと改めて感じるお話ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに仰るとおりですね。
だからこそ、歴史の神様に大きなしっぺ返しを食らうことにもなるのですが…。
清和源氏は、先述したように源経基が始祖とされており、経基の子である源満仲(みなもとのみつなか)は、摂津の多田(ただ、現在の兵庫県川西市多田)に土着していましたが、969年に起きた「安和(あんな)の変」で謀反(むほん)を密告して、源高明(みなもとのたかあきら)を失脚させた功績によって、摂関家に接近しました。
源満仲の子のうち、源頼光(みなもとのよりみつ)は各地の国司を歴任し、その際に蓄えた財産を利用して、藤原道長の側近として仕えることによって、武家の棟梁(とうりょう)としての地位を高めました。
その頼光の弟にあたるのが、平忠常の乱を鎮圧した源頼信でした。忠常の反乱によって平氏の勢力が衰えた一方で、源氏は頼信の活躍によって、東国における勢力を広げるきっかけをつくったのです。
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ぴーち こんばんは!
この頃は、何事も戦いによって
勝敗が決められていた時代だったのですね。
そんな中、源頼光は
お金に物を言わせて
地位を獲得したと言う事ですが
この時代のお金に対する
価値観は現代と同等だったのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 当時は貨幣の発行がなされなくなっていましたが、財産を金銀などの貴金属に変えて保管していたと思われます。
こうした豊富な経済力に支えられて、東北地方では現在の太平洋側を安倍氏(あべし)が、日本海側を清原氏(きよはらし)が地方豪族として支配し、その力は次第に強くなっていきました。
1051年、安倍氏の棟梁であった安倍頼時(あべのよりとき)が反乱を起こしました。朝廷では源頼信の子である源頼義(みなもとのよりよし)を陸奥守(むつのかみ)・鎮守府(ちんじゅふ)将軍に任じて、頼義の子である源義家(みなもとのよしいえ)とともに鎮圧を命じました。
しかし、平将門を滅ぼした藤原秀郷の子孫とされる藤原経清(ふじわらのつねきよ)が寝返ったことで、朝廷側は苦戦し、戦いは長期化しました。
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ぴーち こんばんは!
あら!
この頃にも安倍氏が活躍していたんですね^^
現代の首相は山口出身との事ですので
ご先祖という事は無いでしょうけれど(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 現代の首相は山口出身との事ですので
> ご先祖という事は無いでしょうけれど(^_^;)
さぁどうでしょう(笑)?
次回以降の更新をお待ちくださいm(_ _)m
1051年から1062年まで続いた安倍氏による一連の反乱は、「前九年(ぜんくねん)の役(えき)」と呼ばれています。
反乱の後、安倍氏の領地は清原氏に与えられ、清原氏が事実上の東北地方(=陸奥)の覇者となりました。なお、滅ぼされた安倍氏の中で流罪(るざい)となり、生き残った安倍宗任(あべのむねとう)の子孫が、九州で松浦党(まつらとう)と呼ばれる武士団として活躍したと伝えられ、また、その血脈は現代にまで残り、21世紀には国政のトップにまで登りつめました。
安倍晋三(あべしんぞう)内閣総理大臣のことです。
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ぴーち こんばんは!
流罪で!
そうでしたか(^_^;)
それでは岸信介氏もその流れだったのですかね?
それにしても、血は争えませんね~
ぴーちさんへ
黒田裕樹 岸信介元首相は、佐藤家(佐藤栄作元首相の実兄です)から、婿養子だった父の実家である岸家の養子になりました。岸元首相の娘と安倍晋太郎氏が結婚して、生まれたのが安倍晋三首相になります。
また、滅ぼされた藤原経清の未亡人が、武則の子の清原武貞(きよはらのたけさだ)の妻として新たに迎えられました。
武貞には既(すで)に嫡子(ちゃくし、跡継ぎのこと)である清原真衡(きよはらのさねひら)がいましたが、未亡人と藤原経清との間の連れ子である清原清衡(きよはらのきよひら)を養子とし、また未亡人との間に清原家衡(きよはらのいえひら)が生まれました。武貞の子はいずれも父親もしくは母親が異なるという複雑な関係となり、兄弟同士の不仲をもたらしてしまいました。
こうした兄弟同士の不仲が、やがて清原氏の内紛を引き起こし、ついには兄弟同士で大きな戦乱になってしまいました。1083年から1087年まで続いたこの戦いのことを「後三年(ごさんねん)の役(えき)」といいますが、この内紛に乗じて源氏による陸奥の支配を目指した源義家は、朝廷から陸奥守を拝命して、後三年の役に積極的にかかわりました。
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ぴーち こんばんは!
確かに
兄弟の間で
親がそれぞれ違かったりすると
成長した後に関係がどうもしっくりいかず
どこかギクシャクした関係になるものですよね。
そこの所は、人の感情の難しい所ですね。
なかには完全に割り切った付き合いをして
仲睦まじい兄弟も居るようですが
なかなかそこまで捌けた考え方が
出来ないのが現状ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 通常の家庭ですら難しいのに、ましてや武士であれば尚更ですからね。
起こるべくして起こった内紛といえそうです。
途方に暮れた義家は、自腹を切って部下に恩賞を与えましたが、皮肉にもこのことで義家は東国の武士たちの心をとらえ、源氏を棟梁と仰ぐ深い信頼関係が生まれたのです。
なお、前九年の役は11年、後三年の役は4年続いているのに、なぜ「九年」「三年」と名づけられているかについては、様々な説が挙げられていますが、正確には分かっていません。
後三年の役の勝者となった清原清衡は、源義家が東北を去った後に、藤原氏に復姓して藤原清衡(ふじわらのきよひら)を名乗り、豊富な資金力で工作した結果、朝廷から陸奥の支配権を認めてもらいました。
藤原清衡は奥州の平泉(ひらいずみ、現在の岩手県平泉町)を本拠地(ほんきょち)として陸奥を完全に手中に収め、清衡の子である藤原基衡(ふじわらのもとひら)、さらに基衡の子である藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の三代、約100年にわたって奥州藤原氏が全盛を極める基礎を固めたのです。
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ぴーち こんばんは!
元から心根に慈悲の思いが強く宿っている人は
どんなに惨めな立場に追いやられたとしても
常に他の人間を気遣う気持ちで
必ず自分自身も救われていくものだと思いますね。。。
地方創生の手本
青田です。 青田です。
なぜか、私の周りの歴史好きに、この奥州藤原氏の話をすると、
盛り上がりません。東北出身の人も、あまり、興味がないようです。
私にすれば、この奥州藤原氏は、もの凄い偉業を成し遂げました。
① 東北を一つにした。
→ それまで、東北は、度重なる戦いの連続で殺し合い、人心がバラバラになっていました。
それを奥州藤原氏は、一つにまとめました。
② 文化地域にした。
→ 当時、東北地方は、京都からすると、蝦夷と蔑称で、呼ばれ、文化的に劣るとされて、馬鹿にされていました。
それを、奥州藤原氏は、この世に極楽浄土を創ろうと、文化地域にしました。
③ 平泉を近代都市にした。
当時の京の都の人口は、17万人都市です。
それに比べて、平泉は、12万都市でした。
その当時、日本第二の都市です。
④ 大経済地域にした。
それまでの東北は、飢饉が多く、貧しい地域でしたが、それを金山の開発と交易で、一大経済地域にしました。
有能なリーダーの力で、ここまで、地方を変えることが出来るという証明です。
現在、日本の地方は、中央ばかりを観ていて、文句ばかり、言っていますが、
地方を視点にした思考も歴史教育では、必要です。
やはり、有能なリーダーで、世の中は、変わりますね。
その後、戦国時代になっても、結局、東北全体を一つにまとめるだけのリーダーは、出現しませんでしたが。。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 義家には義家の思惑があったとは思いますが、結果的に自腹を切ったことが、大きな効果をもたらしましたね。
青田さんへ
黒田裕樹 こうした事実を鑑みれば、確かに素晴らしいことですね。
盛り上がらない背景には、歴史教育の偏向もあると思います。
日本の優れたところは紹介しないとか…。
藤原清衡の裏技
青田です。 青田です。
この源義家の朝廷からの、不当な扱いは
藤原清衡が、金を使った調停工作があると
言われています。
藤原清衡が、源氏が東北に介入してきて、バラバラになった苦い経験があったので、中央の不介入を防ぐために行ったという説があります。
最初から、藤原清衡は、東北に理想郷を創ろうというビジョンがあったようです。
今の時代にいて欲しかったです。
青田さんへ その2
黒田裕樹 そう考えれば、藤原清衡の政治力は大したものですね。
奥州藤原氏は、武士政権の先駆け
青田です。 青田です。
私は、奥州藤原氏は、東北地方だけですが、
日本初の武家政権だと思います。
① 奥州藤原氏は、中央から来る国司を拒まず受け入れ、奥州第一の有力者としてそれに協力するという姿勢を最後まで崩しませんでした。
②清衡は陸奥押領使に、基衡は奥六郡押領使、出羽押領使に、秀衡は鎮守府将軍という軍事権・警察権も与えられました。
③奥州の摂関家荘園の管理も奥州藤原氏に任されていました。
中央政府が権力争いをしているがゆえに、奥州まで介入する余裕が無かったことが幸いだった気がします。
中央から離れた独立政権というのは、画期的でした。
おそらく、今でいうEUのような感じだった気がします。
個人的には、今でも、東京一極集中で、東京から、上から目線で、地方を観るののに腹が立つ私とすれば、当時の京の都を凌いだ平泉を築いた奥州藤原氏は、好きです。
青田さんへ その3
黒田裕樹 仰る思いは良く分かるつもりです。
この功績によって、正盛は白河法皇の厚い信頼を受け、直属の警備機関である北面の武士として登用されると、正盛の子の平忠盛(たいらのただもり)も、瀬戸内海の海賊を討ったことで白河法皇の孫の鳥羽法皇に信頼され、武士として初めて昇殿を許されました。いわゆる「殿上人(てんじょうびと)」のことです。
忠盛は西国を中心に多くの武士を従え、平氏が繁栄する基礎をつくりましたが、昇殿が許された武士の実力は留まることを知らず、12世紀半ば頃に起きた二つの反乱によって、平氏が朝廷にかわって政治の実権を握る道を切り拓(ひら)くことになりました。
その背景には朝廷内の権力争いがあり、またそれを上手に活用した人物こそが、有名な平清盛(たいらのきよもり)だったのです。
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ぴーち こんばんは!
どこかで
てんじょうびと・・という言葉を
聞いたことが有り
天上人」だと思っていたら
殿上人の方だったんですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、「殿上人」なんです。
昇殿を許されるのはかなりの身分なんですが、それよりもさらに上に立ったのが清盛なんですよね。
院政によって、上皇(=法皇)の地位は「治天の君」と称されるまでになりましたが、その独裁的な政治手法は周囲の混乱をもたらすことになり、それは皇位の継承に関しても例外ではありませんでした。
白河法皇は孫の鳥羽天皇と藤原璋子(ふじわらのしょうし)との間にお生まれになった顕仁(あきひと)親王を大変可愛がられ、親王が5歳になられた1123年に、崇徳(すとく)天皇として即位させました。
祖父の白河法皇によって無理やり退位させられた鳥羽上皇(のち法皇)は、いつしか自身の退位の引き金となった我が子の崇徳天皇に対して、良い感情を持たれなくなられました。そんな中、1129年に白河法皇が崩御(ほうぎょ)され、鳥羽上皇が待望久しい「治天の君」になられました。
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ぴーち こんばんは!
やはり独裁的なやり方は
いづれ憎しみが芽生える種となりますよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 畏れ多いことではありますが、白河法皇がなされたことが、この後の武家政権の誕生に直結しましたからね…。
しかし、近衛天皇は1155年に子孫を残されぬまま崩御されました。次の天皇は、崇徳上皇の子である重仁(しげひと)親王が継承される可能性が高かったのですが、崇徳上皇の血統を嫌われた鳥羽法皇は、崇徳上皇と同じ璋子との間にお生まれになり、上皇の弟にあたる雅仁(まさひと)親王を後白河天皇として強引に即位させました。
我が子である重仁親王が天皇として即位しなければ、崇徳上皇は「治天の君」として院政を行うことができません。鳥羽法皇による冷酷ともいえる仕打ちに激怒された崇徳上皇は、1156年に鳥羽法皇が崩御されるとクーデターを計画され、兄の藤原忠通(ふじわらのただみち)と関白の座を争って敗れた藤原頼長(ふじわらのよりなが)を味方に引き入れられるとともに、自前の軍をお持ちでなかったので、武士である平忠正(たいらのただまさ)や源為義(みなもとのためよし)らを呼び寄せられました。
しかし、崇徳上皇のお考えを先読みされた鳥羽法皇は、ご自身の崩御の前に後白河天皇や関白の藤原忠通に味方する武士団を準備され、ご自身の信頼が厚かった平忠盛の子であり、忠正の甥(おい)にあたる平清盛や、源為義の子である源義朝(みなもとのよしとも)らが参集しました。
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ぴーち こんばんは!
自らの子供を設けていれば
何の憂いもなかったのでしょうけれど
椅子取り合戦も
ここまで来ると醜い泥仕合ですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 畏れ多いことではありますが、全くもって仰るとおりですよね。
この混乱が武士の台頭につながってしまうところが、何とも言えない皮肉です。
御譲位
青田です。 青田です。
私が、真っ先に、天皇の譲位に関して浮かんだのが、
この時代の上皇、法皇、天皇の関係でした。
歴史を知らない日本人が増えたからだと思いますが、
現代の今上天皇の御譲位に関して
特例とすべきか、慣例とすべきかで、識者でも
意見が分かれていますが、(特例になりそうですが。。)
今は、時代が違い、今は立憲君主制の議院内閣制ではありますが、かなり、神経質でデリケートな問題ですね。
未来において、また、馬鹿な政党が政権を取るとも限りませんから。。
青田さんへ
黒田裕樹 この件は、軽々しく口にできることではありません。
私は今後の経緯を静かに見守りたいと思います。
1158年、後白河天皇は子の二条(にじょう)天皇に譲位され、自らは上皇として院政を開始されましたが、まもなく後白河上皇の近臣であった、信西(しんぜい)と藤原信頼(ふじわらののぶより)との対立が激しくなりました。
一方、保元の乱の戦功によって、平清盛や源義朝にも恩賞が与えられましたが、その差は歴然としていました。九州の大宰大弐(だざいのだいに)に任じられ、中国の宋(そう)とのいわゆる「日宋貿易」を行って経済的実力が高まった清盛に対して、義朝には十分な恩賞が与えられなかったばかりか、父である源為義を自らの手で処刑したことで、周囲から「父殺し」とさげすまれていたのです。
義朝は信西に不満を持っていた藤原信頼に協力して、1159年に清盛が熊野詣(くまのもうで)に出かけた隙(すき)をついてクーデターを起こし、後白河上皇や二条天皇を軟禁したほか、信西を追い込んで自害させることに成功しました。
しかし、急を聞いて京へ戻った清盛によって、後白河上皇と二条天皇が脱出に成功されると、形勢は一気に逆転しました。清盛軍と戦って敗れた義朝は再起を期して逃亡中に襲われて死亡し、逃げ切れないと思った信頼は後白河上皇を頼って自首しましたが、最期には処刑されてしまいました。この戦いは、当時の年号から「平治(へいじ)の乱」と呼ばれています。
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ぴーち こんばんは!
なんと言うか・・
今回のお話を聞いただけでも
人間というのはこれ程までに残酷に
なれるのものなのか・・という思いを抱きましたね・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 当時、処刑は「ケガレ仕事」ということで、武士に任されていました。
義朝は、父親の処刑を他人にさせるよりも、せめて自分の手で行いたかったのか、あるいは御上からの指示でやらされたのか、いずれにせよ残酷ではありますね。
選挙という民主的な手段がある現代とは違って、昔は政敵とみなされた人物は、本人のみならず、子供であろうが一族もろとも殺されるのが常でした。なぜなら、身内を殺されたことで残った恨みは消えることなく、当時の子供がそのまま大人になれば、復讐のために生命を奪おうとする可能性が十分考えられたからです。
こうした原則からすれば、清盛によって捕らえられた頼朝や義経らの運命は風前の灯(ともしび)であり、処刑されてもおかしくないはずでした。しかし、清盛は結果として彼らの生命を奪おうとはしませんでした。なぜ清盛は頼朝や義経を助けたのでしょうか。
その背景には、二人の女性が存在していたのです。
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ぴーち こんばんは!
女性の存在ですか・・・
どの様な関係の女性だったのでしょうかね^^
何か問題が起きた時は
必ず影には女性の影ありと聞いた事が有りますが(^_^;)
つねまる 先生、こんにちは。いつもお世話になっております。後輩からこんにちはです。
私は在学中に文化会能楽部に入って、生協横の和室でほぼ大学時代を過ごしましたが、今、あちこち巡る折りにとても大きな財産になっております。
謡には源平の話が多いので、お話、楽しく拝見しております。
今年もとても勉強になりました。
先輩が頑張っておいでなのは、とても励みになります。
来年もまた何卒よろしくお願い申し上げます。
良いお年をお迎えくださいませ。
来年はぜひ、先生に、高砂やぁ~♪を謡えますように応援してます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 何か問題が起きた時は
> 必ず影には女性の影ありと聞いた事が有りますが(^_^;)
今回も、まさに仰るとおりの展開となります。
詳しくは次回の更新をご覧ください。
つねまるさんへ
黒田裕樹 こちらこそ、この一年も大変お世話になり、有難うございました。
来年こそは「高砂やぁ~♪」を経験したいですね(笑)。
清盛の母は早くに亡くなりましたが、継母(ままはは)にあたる池禅尼(いけのぜんに)が健在でした。池禅尼は、捕らえられた頼朝の姿を見て「若くして亡くした自分の子に似ているから」という理由で、清盛に対して頼朝の生命を助けるように頼みました。
はじめのうちは継母を無視して処刑しようとした清盛でしたが、池禅尼が「夫(=清盛の父である忠盛のこと)が生きていればこんなつれないことは言わないだろうに」と激しく抗議したため、仕方なく頼朝を伊豆(いず、現在の静岡県の一部)へと流罪にしました。
一方、赤ん坊だった源義経の場合は、義経の母であった常盤御前(ときわごぜん)が絶世の美女であったことで、御前が清盛の愛人となることを条件に義経が助命されたと伝えられています。
いずれにせよ、この時に頼朝・義経兄弟を生かしてしまったことが、やがては平氏の将来に暗い影を落とすことになるのですが、当時日の出の勢いであった清盛が気づくはずもないことでした。
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ぴーち こんばんは!
情の深さと美しさですか・・
女性の最大の武器でも有りますね(苦笑)
そこの部分にしてやられることが
致命傷だったとは言え、そこを
無慈悲にしなかった事は
人間として負けでは無かったのでは
無いかと存じます。
改めて
今年も大変お世話になりましたm(_ _)m
来年もどうぞ宜しくお願いいたします。
良いお年をお迎えください^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 難しいところですね。
平氏に未来に暗雲をもたらしたのは事実ですが、後の鎌倉幕府設立のきっかけもつくっていますからね。
こちらこそ、今年もお世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。
1160年、清盛は正三位(しょうさんみ)に昇進して、武士でありながら公家(くげ)の身分を得ることとなり、それまで貴族から見下されていた武士が初めて公家の仲間入りをし、彼らと肩を並べることになりました。後に清盛は、1167年には従一位(じゅいちい)の太政大臣(だじょうだいじん)にまで昇進します。
また、清盛は高倉(たかくら)天皇に自分の娘の平徳子(たいらのとくこ)を嫁(とつ)がせ、二人の間に言仁(ときひと)親王がお生まれになると、親王が3歳の1180年に安徳(あんとく)天皇として即位させたことで、清盛は天皇の外祖父(=母方の祖父のこと)にまで出世しました。
清盛によって隆盛を極めた平氏の下には、全国各地から500以上の荘園が集まると同時に、平氏が支配を任された知行国(ちぎょうこく)の数も、全国の半数近くの30数ヵ所にまで拡大するなど、経済的な基盤も強化されました。
このような政治的・経済的な背景に支えられた平氏によって、我が国史上初めて武士が本格的に政治の実権を握りました。しかし、その政権は清盛が天皇の外祖父になったり、平氏一門が次々と朝廷の要職に就いたりしたことで、摂関家のような貴族的な性格を持ったことから、平氏による権力の独占は、やがて周囲の大きな反発を招くことになるのです。
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