しかし、その一方で、1955(昭和30)年にはスイスのジュネーブで、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の各首脳によって、軍縮やヨーロッパの安全保障、あるいは東西間の交流の拡大などを協議したジュネーブ四巨頭会談が行われました。
ジュネーブ四巨頭会談そのものは具体的な成果に乏(とぼ)しかったものの、米ソによるこうした流れは、両国間の緊張緩和への期待を高めることになりました。なお、これらの動きは今日では「雪どけ」と呼ばれています。
米ソの「雪どけ」を受けて、東アジアでも緊張緩和の動きが進みました。1954(昭和29)年には、中華人民共和国の周恩来(しゅうおんらい)首相がインドのネール首相と会談を行い、主権尊重・相互不可侵・内政不干渉・平等互恵・平和共存の平和五原則を確認しました。
また、1953(昭和28)年にソ連のスターリンが死去すると、後継となったフルシチョフが1956(昭和31)年にスターリン政権における不当な粛清(しゅくせい)や恐怖政治を批判する(これを「スターリン批判」といいます)など、東西における「平和共存」路線を打ち出しました。
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ぴーち こんばんは!
>主権尊重・相互不可侵・内政不干渉・平等互恵・平和共存。
これ良いですね~!
日本と中国、韓国の間にも
この様な条約は結べなかったのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに仰るとおりですが、仮に我が国側にその意思があったとしても、相手国が受けいれるかどうか、ですね…。
ソ連の動きを警戒したアメリカのケネディ大統領がキューバを海上封鎖したため、米ソ両国の間で核戦争の危機が迫りました。これを「キューバ危機」といいます。この危機はその後、ソ連がミサイルを撤去したことで治まりました。
キューバ危機を回避した翌年の1963(昭和38)年に、米ソの首脳間で意志の疎通(そつう)を直接行うことで、偶発的に戦争が発生しないようにという目的によって、両国間でホットライン協定が結ばれました。
また、同年にはアメリカ・イギリス・ソ連の3ヵ国を中心として、地下以外の核実験を禁止した部分的核実験停止条約(=PTBT)が結ばれたほか、1968(昭和43)年には56ヵ国が核拡散防止条約(=NPT)に調印するなど、核軍縮に向けて世界が動き出しました。
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西側陣営では、復興を成し遂(と)げつつあった日本や西ドイツが経済的に台頭しはじめました。このうち、我が国では昭和35(1960)年に日米安保条約が改定され、日本がアメリカの「核の傘(かさ)」に入ったことで、政府が経済を中心とした政策を行い、国内における高度経済成長をもたらしたのが大きな原因でした。
また、1958(昭和33)年にフランスの大統領に就任したド=ゴールは、米ソと対等な関係を確保すべく核実験を進め、1966(昭和41)年には北大西洋条約機構(=NATO)の軍事機構から脱退しました。
ただし、NATOからの脱退は、前述のとおり軍事機構のみであり、政治機構には引き続き加盟しました。なお、フランスは2009(平成21)年にNATOに完全復帰しています。
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ぴーち こんばんは!
結局、大国と肩を並べたいという
野心が有る国は、核保有を積極的に
行おうとするんですものね。
それしか方法は無いのか?と
思うほどに、挙って核を持ちたがる。
フランスのしたたかさ
青田です。 青田です。
フランスは、原発大国です。
原子力の力を軍事でも、経済でもフル活用です。
それと外交に関しては
フランスのずうずうしさは、日本も見習うべきことがあります。
フランスは、ナポレオン戦争で、最後は敗北したのに、
それでも、ヨーロッパの大国として、君臨。
しかも、ナポレオン戦争で、兵隊の数が減ったので
フランス外人部隊を創設。
第二次世界大戦で、アメリカ、イギリスの力で、勝てただけなのにいつの間にか
国連の常任理事国で、核保有国。
しかも、このドゴール大統領は、何度も暗殺計画を受けてもしぶとく、生き抜きました。
日本にも このくらいの、ずる賢さとしたたかさが、あれば、イイのですが。。。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 当時は、自国の安全保障のために核保有も辞さないというのが、国家の思考の一つでもありました。
現代において、北朝鮮が核実験を繰り返すのもその流れですね。
青田さんへ
黒田裕樹 フランスのお国柄が良く表れていますね。
我が国が世界で信頼が高いのは、ある意味フランスの真逆をいっているからでしょう。
そして、1965(昭和40)年には、アメリカが北ベトナムへの爆撃を開始し(これは「北爆」と呼ばれています)、アメリカや南ベトナム政府と、ソ連や中華人民共和国の支援を受けた南ベトナム解放民族戦線および北ベトナムとの全面対決へと発展しました。これをベトナム戦争といいます。
その後、1973(昭和48)年にベトナム和平協定が結ばれてアメリカ軍が撤退すると、1975(昭和50)年にはサイゴン(現在のホーチミン市)が陥落して戦争が終結し、北ベトナムが南ベトナムを併合すると、翌1976(昭和51)年にベトナム社会主義共和国が成立しました。
なお、ベトナムの社会主義化によって多くの難民が生まれ、南シナ海に漂流船に乗った「ボート・ピープル」とよばれるベトナム人が助けを求めました。また、ベトナム戦争に参戦した韓国軍によって現地のベトナム人女性が暴行され、その結果として誕生した子供が迫害を受けるといった、いわゆる「ライダイハン」の問題が起きています。
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ぴーち こんばんは!
戦争と言うのは、人間の通常の営みを
容易く破壊してしまうものですね・・。
自分自身の業の深さによっては
争いごとが耐えない国などに生を受けてしまうと
言われていますが
そう考えると、一人ひとり、自分自身の生き方を
常に反省し、誠意を持って生きてこそ
世の中の平和に近づいていくのではないかと
思いますね・・
なかなか難しいですがね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 戦争は、ある意味ひとりでも起こすことができます。
一人の人間の業の深さが、他の多くの人間を巻き込んでしまう現実を知ることで、今後の備えとしなければなりませんね。
そんな中で、1964(昭和39)年に初の核実験を行い、核保有国となった中華人民共和国は、西側諸国に対する発言力を強めるとともに、1966(昭和41)年には毛沢東(もうたくとう)が復権をめざして文化大革命を起こし、劉少奇(りゅうしょうき)国家主席ら実権派を追放しました。約10年間続いた文化大革命によって、一説には数百万人が犠牲となるなど、国内は大混乱となりました。
一方、スターリン批判が行われた1956(昭和31)年には、ハンガリーで政治的自由化を求める改革運動が起こりましたが、東欧諸国の自由化の波が拡大することを恐れたソ連が軍事介入のうえ厳しく弾圧しました。これを「ハンガリー動乱」といいます。
また、1968(昭和43)年には、チェコスロバキアで政治や経済の自由化への改革が行われましたが(これは「プラハの春」と呼ばれています)、ソ連などのワルシャワ条約機構軍が軍事介入を行って強引に弾圧しました。これを「チェコ事件」といいます。
ハンガリー動乱からチェコ事件への一連の流れは、共産主義に基づく東欧の支配が、スターリン批判後も、軍事力による一方的かつ抑圧的なものであることを世界中に認識させるとともに、国際的な非難を浴びたソ連の影響力を次第に低下させる流れをもたらしました。
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ぴーち こんばんは!
人間と言うのは
抑圧されれば、自由を求め
いざ自由を手に入れると
今度はある程度の決まりごとを
求めるようになる。
世の中と言うのは常に
その押し引きの中を
行ったり来たりしているものなんでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
人間の欲望が留まることを知らなければ戦争になる。
我が国の道徳精神は、本来であれば戦争を引き起こすとは思えないのですが…。
冷戦が続く中において連帯を強めたアジア・アフリカの新興独立諸国を中心として、米ソどちらの陣営にも加わらないとする非同盟主義が唱えられ、これらの諸国は「第三世界」と呼ばれるようになりました。
第三世界の国々によって、1955(昭和30)年にインドネシアのバンドンでアジア=アフリカ会議(バンドン会議)が開かれ、我が国など29ヵ国が参加しました。
史上初の有色人種だけによる国際会議となったアジア=アフリカ会議では、反植民地主義や平和共存などの平和十原則が採択されました。この他、1961(昭和36)年には、ユーゴスラビアのベオグラードで第1回非同盟諸国首脳会議が開催されています。
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ぴーち こんばんは!
考えてみれば
世界の国の数は、約200カ国近くあるわけですものね。
(全部の国の名前は言えませんが(^_^;)
その中の30カ国近い国々が参加したとあっては
随分と大規模な会議となりましたね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 バンドン会議へ参加した日本代表団は歓呼の声で迎えられたそうです。
大東亜戦争によって有色人種の国々が独立の気運を得られたことに感謝していることを、GHQや左翼、マスコミに洗脳された日本人は知らなかったのでしょうが、今思っても哀れなことですし、この状態は今も続いていますね。
デタントの進展は、米中間にも大きな変化をもたらしました。1972(昭和47)年2月に、アメリカのニクソン大統領が中華人民共和国を訪問して、毛沢東(もうたくとう)主席や周恩来(しゅうおんらい)首相と会談し、中華人民共和国を事実上承認したことで、米中の歴史的和解が実現しました。
この時期に米中が接近した背景には、1960年代から続いていた中ソ対立と、ベトナム戦争におけるアメリカの苦戦があったと考えられています。両国がそれぞれ苦境に立たされる中で、まさに「敵の敵は味方」と言わんばかりに、国際社会の力学変動がもたらされたのでした。
なお、これより以前の1971(昭和46)年には、中華人民共和国が中華民国(台湾)に代わって国際連合に加盟するとともに、安全保障理事会の常任理事国に就任しています。
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ぴーち こんばんは!
「デタント」ですか・・
初めて聞いた言葉です。
これはどういう意味がある言葉なのでしょうか?
どこかの地名から来ているのですか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 デタントは、フランス語で「戦争の危機にある二国間の対立関係が緊張緩和すること」が由来です。
この時期は世界も緊張緩和に向かっていたのですが…。
キッシンジャーが
青田です。 青田です。
このキッシンジャーが諸悪の根源です。
自分では、外交の天才と思い込んでいますが
完全な外交音痴だったのがキッシンジャーです。
キッシンジャーのせいで、中華人民共和国は、常任理事国で、第二次世界大戦の戦勝国の地位を得ました。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、彼の存在が、その後の歴史を変えたといって差し支えないでしょうね。
そして、その影響は今もなお…。
今でも。。
青田です。 青田です。
今でも、キッシンジャーは、カリスマ性があり、
影響力があるから、不思議です。
トランプ大統領の娘婿もキッシンジャーの弟子に
会っていましたし、
まあ、『アメリカは、頭のない恐竜、勉強のできる馬鹿。』と言われていて、
大学教授の地位は、日本と比較できないくらい
高いことが、災いしている気がします。
青田さんへ その2
黒田裕樹 なるほど、その影響もあるのでしょうね。
トランプ新大統領の外交姿勢に注目です。
また、1975(昭和50)年には、東西ヨーロッパ諸国とアメリカ、カナダなど35か国が参加した全欧(ぜんおう)安全保障協力会議(CSCE)が開催され、人権や経済の分野で東西対話が促進されました。
デタントによるこれら一連の流れで、東西の緊張緩和が進んだように思われましたが、アメリカの国防費が低く抑えられたのに対して、ソ連は1970年代にかけて大幅な戦略核兵器の増強を行い、ICBM(大陸間弾道ミサイル)やSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)の保有量がアメリカを上回るようになりました。
戦略核兵器でアメリカを抜き去り、優位に立ったソ連は、返す刀で石油の供給地である中東に包囲網を仕掛けるため、1977(昭和52)年にエチオピア、翌1978(昭和53)年には南イエメンとアフガニスタンでクーデターを起こさせ、親ソ政権を樹立させました。
結果的に、デタントはソ連に時間稼ぎの場を与えたに過ぎなかったのです。やがて、ソ連による軍事的侵攻をきっかけとして、1970年代末には、米ソの関係は再び悪化へと向かうのでした。
※「政治経済の授業から学ぶ国際政治」については今回で一旦中断し、次回(12月12日)からは第57回歴史講座「平安後期の政治史 ~院政と平氏政権」の更新を開始します。
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ぴーち こんばんは!
野望の強い国が相手だと
攻撃の手を緩めた途端、空きを狙って
強く出てくるものですね(^_^;)
またそれにすぐさま反応して
応戦して行こうと思うと
相手の思うつぼでも有りますし・・
こういうときこそ、冷静な判断を
取っていきたいものです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いくら当方が冷静に対処しても、相手方の挑発があまりにも狡猾であれば、やられてしまうこともありますからね。
この後も困難な時代が続くこととなりました。