我が国が開国したのは、嘉永(かえい)7年(=1854年)の日米和親条約からであり、その4年後の安政5(1858)年には不平等な内容の日米修好通商条約を結ばされたほか、他の4ヵ国とも同じような条約を締結しました。その後、我が国が条約改正を最終的に実現したのは明治44(1911)年になってからであり、何と50年以上もかかっているのです。
なぜ我が国は条約改正にこれだけの膨大(ぼうだい)な時間を費やさなければならなかったのでしょうか。また、そもそもなぜ我が国は不平等条約を結ばされなければならなかったのでしょうか。
今回の講座では、条約改正を目指しての我が国の苦難の道のりと、それに前後する大きな歴史の流れを振り返りたいと思います。
※下記の映像は10月17日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
半世紀ですか・・
言われてみれば、確かに気が遠くなる程長いですが
やはり嫌々ながら受け入れざるを得なかった
事という事で、それだけの覚悟とまた改正の為の
方向転換をしなければいけない猶予の時間だったのでしょうかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > やはり嫌々ながら受け入れざるを得なかった
> 事という事で、それだけの覚悟とまた改正の為の
> 方向転換をしなければいけない猶予の時間だったのでしょうかね?
半世紀もかかったのは、条約改正に向けての土壌づくりに一番時間を費やしたというべきかもしれません。
これからじっくりと検証したいと思います。
黒船は蒸気船であり、船上に多くの大砲を並べたうえで空砲を放つなどの威嚇(いかく)を加えながら、幕府に対して開国を求めるフィルモア大統領の国書の受理を迫(せま)りました。
アメリカの有無を言わさぬ態度に対して、抵抗をあきらめた幕府は、やむなく国書を受け取り、回答を翌年に行うことを約束して、ようやくペリーを日本から退去させました。
しかし、幕府のこうした手段は、苦し紛(まぎ)れであるとともに、結論の先送りに過ぎず、幕府はその後の対応に苦しむことになりました。
※下記の映像は10月17日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
確かにその場しのぎの対処法に頼ってしまうと
その時はなんとか引き下がって貰う事は出来ても、根本的な解決法ではないので、より以上
強気で責めて来られてしまいますよね。
この時の日本は外国からの責めを食い止められるだけの体力は無かったのでしょうか・・
やはり江戸時代の平和がこういう時の対処の仇と
なってしまったのでしょうかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > やはり江戸時代の平和がこういう時の対処の仇と
> なってしまったのでしょうかね?
残念ながらそういわざるを得ないのが現実なようです。
詳細は講座の後半で紹介して、ここでは不平等条約の内容を優先に進めていきます。
黒船による砲撃(ほうげき)で我が国に危害が及ぶことを恐れた幕府は、結局ペリーの武威(ぶい)に屈して、同年旧暦3月に日米和親条約を結びました。条約の主な内容としては、
1.アメリカ船が必要とする燃料や食糧を日本が提供すること
2.難破船を救助し、漂流民を保護すること
3.下田・箱館(現在の函館)の2港を開き、領事の駐在を認めること
4.アメリカに一方的な最恵国待遇(※注)を認めること
以上が挙げられます。幕府はこの後、イギリス・ロシア・オランダとも同様の条約を結び、200年余り続いた鎖国体制から、我が国は何の準備もなく開国して、いきなり世界の荒波に揉(も)まれることになってしまいました。
※最恵国待遇=日本が他国と条約を結んだ際に、アメリカが与えられたよりも有利な条件を他国に認めた場合、アメリカにも自動的にその条件が認められること。当時の幕府は外交知識に欠けていたため、アメリカの言われるままに一方的な最恵国待遇を認めた。
※下記の映像は10月17日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
なるほど。。
大東亜戦争に日本が負けてアメリカの言いなりになる以前、既にこの頃から
アメリカは日本よりも高い位置から見下ろす様に
優位に物事を進めようとしていたのですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 大東亜戦争に日本が負けてアメリカの言いなりになる以前、既にこの頃から
> アメリカは日本よりも高い位置から見下ろす様に
> 優位に物事を進めようとしていたのですね。
この流れを見る限りはそうなりますね。
それを許した幕府の失策も深刻と言えそうです。
当時の老中であった堀田正睦(ほったまさよし)は、アメリカとの通商に理解を示しましたが、幕府の独断で通商条約を結べば、開国に反対して外国を排斥(はいせき)しようとする攘夷派(じょういは)の激しい反発を招く可能性があることを警戒しました。
そこで、堀田は条約の締結に際して天皇の許可、すなわち勅許(ちょっきょ)を得ることで世論を納得させようと考えました。封建社会において、それまでは独断で何事も強行してきた幕府でしたが、この頃には朝廷の顔色をうかがわなければならないまでに権威が低下していたのです。
しかし、堀田の狙(ねら)いは裏目に出てしまいました。当時の孝明天皇(こうめいてんのう)をはじめとして、朝廷に攘夷派の意見が強く、容易に勅許が下りなかったのです。自分で仕掛けた足枷(あしかせ)により行きづまった幕府に対して、ハリスは当時の世界を揺(ゆ)るがした大きな出来事を利用して、追い打ちをかけるかのように通商を迫りました。
※下記の映像は10月17日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
もう少し心に余裕があったのなら、また時間に猶予があったら、朝廷に攘夷派が多いという事は分かるはずだったのかも知れませんが、焦る気持ちで
藁をも掴む思いでいる最中は、何も見えなかったのかも知れませんね。
また、アメリカ側もそれを狙う為の手段を取ったのでしょうね。交渉上手なアメリカの方がこの時は
上手でしたね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 朝廷に関しては、攘夷派の多数派工作にしてやられたという説もありますね。いずれにせよ、根回し不足が大きかったと思います。アメリカの件については、詳しいやり取りを次回(14日)の更新でご紹介します。
アロー戦争で清はまたしても敗北し、1858年にさらに不平等となる天津(てんしん)条約を結ばされましたが、ハリスはこの条約を口実として、以下のように幕府に対して通商条約を強く要求しました。
「清に勝ったイギリスやフランスが、勢いに乗って日本を侵略する可能性が否定できないから、これを防ぐには、日本と友好的なアメリカと通商条約を先に結んで、彼らに戦争の口実を与えないようにする以外に方法はない」。
ハリスによる最後通牒(さいごつうちょう)ともいえる警告を受けて、当時の大老であった井伊直弼(いいなおすけ)は、勅許を得ないままアメリカと通商条約を結ぶことを決断しました。
※下記の映像は10月17日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
そうでしたか。。今まで日本ばかりが開国を迫られたとばかり思っていましたが、中国もまた外国から開国を迫られ、戦争にまで発展してしまったのですね。
まだ、戦って敗北した方が、良かったのでしょうかね・・?
無条件降伏の様な日本の開国は今考えると良かったのか、悪かったのか。。(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 当時の我が国にとって、清国の悲劇は決して対岸の火事ではありませんでした。
攻められて植民地化されるよりは、勅許がなくとも条約を結ぶ方がましだという考えだったと思われます。
もし、ジョン万次郎が通訳なら
青田です。 黒田先生
青田です。
私は、ジョン万次郎に、この条約を結ぶ前に『欧米の文化・考え方』を
幕府が勉強し、少なくともジョン万次郎を
通訳にすべきだったと思います。
ジョン万次郎こと中浜万次郎ですが、幕府ではペリーの来航によってアメリカの知識の重要性が増していたことから、
1853年、幕府に召聘され直参の旗本となりました。
しかし、「いざ交渉」となった時、徳川斉昭をはじめとする攘夷派(→ 尊王攘夷運動)は、
アメリカの教育を受けた万次郎がアメリカ側のスパイをするのではないかと懸念し、
結局交渉の席で万次郎が通訳をすることはありませんでした。
(ただ、1860年(万延元)、日米修好通商条約の批准書交換のための遣米使節には通弁(通訳)主事にえらばれ、
咸臨丸で活躍しましたが、完全に後手に廻りました。)
ジョン万次郎は、単に、英語ができるだけではなく、日本語と英語の背景まで、十分に理解していました。
① 日本語は、『共感』、英語は、『人間関係』
を大事にすることから、成り立っていること。
(英語)
・ thank you.
英語は、ほとんどの文章には、必ず、youが入る。
それにたいして、
(日本語)
・ 有難うございます。(こんなことは、滅多にないですね。)の意味です。
つまり、英語は、相手との関係性を基に二成り立っていますが、日本語は、二人称のない文章が多いです。それで、日本人は、相手に伝わると思っていました。
② 英語は、地名に人の名前をつけるが、日本語では、滅多に地名に人の名をつけない。
たとえば、
・ アメリカ・カナダの州・駅の名前はほとんど人の名前。
・ 日本では、岡山県の方谷駅(山田方谷という例外はありますが)では人の名前を地名でつけない。
英語(アングロサクソン)は、人間を地名につけることで、人間をカリスマス化する傾向があります。
③ 日本人では、挨拶をする時、自分を小さく見せるようにする。(お辞儀)
アングロサクソンは、自分を大きく見せるように挨拶する。
→ 手を広げるのは、手に武器を持ってないことの証拠。
→握手は、効き手に武器を持ってないことの証拠を相手に示すこと。
こういったことを背景に知らないと、やはり、欧米と平等な条約を結ぶのは、至難の技です。
この条約を結ぶ際、英語の通訳もいたようですが、いくら通訳がいても、相手の国の歴史・文化的な背景まで知らないと難しいと思います。
このことを日本人は、知らないで、条約締結したことが、不平等条約に繋がったと思います。
ジョン万次郎への起用が後手に廻り過ぎたと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、確かにジョン万次郎の起用を誤った風潮がありますね。
それだけ当時の幕府が外交下手になっていたと言えそうです。
1.神奈川・長崎・新潟・兵庫を新たに開港し、江戸や大坂で市場を開くこと
(※実際には神奈川の代わりに横浜が、兵庫の代わりに神戸が開港しました。なお、横浜の開港後に下田が閉鎖されています)
2.通商は自由貿易とすること
3.外交官の江戸駐在や日本国内の旅行を認めること
4.開港場に居留地を設けるが、一般外国人の国内旅行を禁止すること
ここまではまだ良かったのですが、問題だったのは以下の2つでした。
5.アメリカに対して領事裁判権を認めること
6.関税はあらかじめ両国で協議すること(=協定関税制)
※下記の映像は10月17日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
万里ママ 領事裁判権を認めたのはちょっと・・・ですね。
ただ、突然のことだったのでしょうし、
植民地化の文字が頭に浮かんだのも否めません。
税については、今でも色々ともめている
全世界的な内容ですよね。
ぴーち こんばんは!
法的な事は存じませんが、
最後のふたつを拝見していると
一々アメリカのお伺いを立てなければ
物事が進まないというのは
何やら面倒くさい法案ですね(^_^;)
万里ママさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、植民地化を免れるためには致し方なかったかもしれませんが、それまでの対応次第では大きく変化した可能性がありますからね。
関税は現代でも大きな問題となっていますが、この場合も非常に深刻でした。詳しくは後に紹介します。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 一々アメリカのお伺いを立てなければ
> 物事が進まないというのは
> 何やら面倒くさい法案ですね(^_^;)
そのとおりですね。アメリカのお伺いが結局はアメリカの言いなりと化してしまう訳ですから、非常に困ったことになってしまいました…。
例えば、A国とB国のうち、A国のみが領事裁判権を認められた場合、A国の国民がB国で罪を犯してもA国で裁判が行われたのに対して、B国の国民がA国で罪を犯せば現地のA国によって裁判が行われるため、著しく不利となったのです。
なお、我が国に領事裁判権がなかったことが、明治以降の外交問題に甚大(じんだい)な影響をもたらすようになります(詳しくは後述します)。
領事裁判権の問題も大きな不平等でしたが、これよりももっと深刻だったのは6.でした。協定関税といえば聞こえは良いですが、実際には我が国に関税自主権が認められなかったのです。
※下記の映像は10月17日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
確かに5の領事裁判権に関しては、
早く言えば、罪を犯さなければ適用されない
事でしょうからね。
6の場合は、一般国民の生活に直結した問題なだけに厄介と言えば厄介でしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに5の領事裁判権に関しては、
> 早く言えば、罪を犯さなければ適用されない
> 事でしょうからね。
> 6の場合は、一般国民の生活に直結した問題なだけに厄介と言えば厄介でしょうね。
どちらも大変重要なんですよね…。
6.については次回に詳しく紹介しますが、5.の場合も実際に数々の問題が起きてしまったのが残念でなりません。
ぴーち なるほど!
文面から、6の方が最重要であるかのような
選択問題に
見せかけての本当はどちらも重要であった・・という・・引掛け問題だったんですか(笑)
恐れ入りましたm(__)m
確かに5の方も理不尽な問題が起きた事でしょうね(^_^;)
またお邪魔させてください
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 いえいえ、こちらの書き方にも問題があったかもしれませんので…。
いずれにせよ、今後の展開をご覧いただければと思います。
例えば、国内にて100円で販売されている商品に対し、外国の同じ商品が50円で買える場合、関税を40円に設定して合計90円での販売となれば、十分対抗できることになります。
このためには関税自主権が必要となるのですが、日米修好通商条約によって我が国には認められませんでした。このため、外国の安い商品が低い関税で輸入されることで、国内の産業が大きな打撃を受けるとともに、関税による収入が見込めないことで、我が国は二重の苦しみを味わうことになってしまったのです。
アメリカと通商条約を結んだ後に、幕府はイギリス・フランス・ロシア・オランダとも同じように条約を結びましたが(これを「安政の五ヵ国条約」といいます)、その内容はアメリカと同様に我が国にとって不平等なものでした。
こうした幕府によるとてつもなく大きな失政のツケは、明治維新後に誕生した新政府にも、重い負担としてのしかかるようになるのです。
※下記の映像は10月17日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
こういうお話を伺うと
益々、江戸時代の鎖国は日本人にとって
本当の意味で良かったのか、悪かったのかと
考えさせられますね。
余りに違いすぎる外国との文化、経済観念に
この当時の日本の苦悩は計り知れなかったと
思います。
ぴーちさん
黒田裕樹 鎖国の是非に関しては、講座の後半で改めて検証することになりますが、少なくとも現実のような諸外国に振り回される事態は避けられたのではないかと思えますね。
新政府からすれば、自分たちが政治の実権を握る前に、江戸幕府が諸外国に無理やり結ばされた不平等条約など引き継ぎたくはありませんでしたが、政権が交代しても、国家間のルールをそのまま継承するのが世界の常識であった以上、やむを得なかったのです。
明治政府が受けいれた安政の五ヵ国条約でしたが、1872年7月4日(旧暦明治5年5月29日)から改正が可能となっていました。これを知った政府は、条約改正の交渉を開始するとともに、欧米列強からの侵略を受けないようにするためには、自分たちが直接西洋まで出かけて見聞を広める必要があると考えました。
そこで、明治4(1871)年旧暦11月に、右大臣の岩倉具視(いわくらともみ)を全権大使とし、大久保利通(おおくぼとしみち)や木戸孝允(きどたかよし)、伊藤博文(いとうひろぶみ)らを副使とする大使節団を欧米に派遣(はけん)しました。これを岩倉使節団といいます。
ところが、条約改正の交渉は、最初の訪問国アメリカで早くもつまずいてしまいました。外交使節が交渉を外国で行うためには、国家元首からの全権委任状が必要だったのですが、そのことを知らなかった岩倉使節団は持参していなかったのです。
※下記の映像は10月24日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
これまでの日本人が重んじてきた常識が
ある日を境に180度急展開した訳ですから
知らないことだらけ、急務の課題山積で
大変でしたよね。
けれど、日本人の底力はそんな困難にもヘコタレなかったと信じたい所ですが。。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、課題山積で大変だった明治政府でしたが、確実な歩みで我が国を世界の一等国にまでのし上げた実績は素晴らしいと思います。
ただ、そんな政府も当初は思わぬ落とし穴にはまることも多かったんですよね…。
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。
その後の使節団は、その目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも、内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。
なお、岩倉使節団の条約改正交渉の失敗に対しては、以下のように風刺(ふうし)した狂歌(きょうか、日常を題材に洒落や風刺を盛り込んだ短歌のこと)が知られています。
「条約は 結びそこなひ 金は捨て 世間へたいし 何と岩倉」
(※「たいし」は「対し」と「大使」とをかけている)
※下記の映像は10月24日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
確かに条約交渉には失敗しても、転んでもタダでは置き上がらない精神は、学ぶ所大だと思います!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに条約交渉には失敗しても、転んでもタダでは置き上がらない精神は、学ぶ所大だと思います!
私もそう思います。特に大久保利通や伊藤博文は大きな屈辱を味わっただけに、その後の外国視察には期するものがあったでしょうし。その一方で、常に結果が求められる政治への風刺は厳しいものがありますね。
寺島はアメリカとの間で関税自主権回復の同意を得ることができましたが、当時アジアに対して大きな利権を持っていたイギリスやドイツが反対したことで、交渉は暗礁(あんしょう)に乗り上げてしまいました。
また、寺島が条約改正の交渉をしていた頃の明治10(1877)年に、イギリス商人のハートレーが我が国にアヘンを密輸入して捕まりながら、イギリス人の裁判によって無罪となったというハートレー事件が起きました。
さらに明治12(1879)年には、西日本を中心にコレラが流行した際に、神戸に停泊していたドイツ船のヘスペリア号が、我が国からの検疫(けんえき)命令を無視して横浜入港を強行したことで、結果として関東地方でもコレラによる被害が拡大し、全国で10万人を超える多数の死者を出してしまったというヘスペリア号事件が起きました。
こうした流れを受けて、寺島は外務卿を辞任し、条約改正に向けての交渉も失敗に終わりました。そして、ハートレー事件やヘスペリア号事件のような出来事を繰(く)り返させないためにも、政府は領事裁判権の撤廃を優先して交渉を続けることになりました。
※下記の映像は10月24日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
世論に関しては、何か直ぐに手柄を立てないと
認めて貰えない風潮が有りますよね。
今でも何ら変わらないですが・・
失敗があったりすると、余計な事をするからだと
言う方もいらっしゃいますが、失敗をした後の
対応が成功すれば、それは新たな進歩と認められるべきものではないかと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
表舞台での成功には、陰での数えきれない失敗がつきものです。
明治政府も様々な失敗を重ねながら、条約改正を成功へと導くことになります。
井上は、条約改正を有利に進めるためには欧米列強の制度や風俗、あるいは習慣や生活様式などを我が国でも積極的に導入すべきであると考え、明治16(1883)年に洋風の鹿鳴館(ろくめいかん)を東京・日比谷に建設して、国際的な社交場としました。
鹿鳴館では連日のように舞踏会(ぶとうかい)が行われ、我が国の要人も、夫人に洋装させてダンスを踊り続けました。井上によるこれらの手法は欧化政策(おうかせいさく)と呼ばれていますが、条約改正のためには格式にこだわってはいられないという、明治の要人たちの必死の思いと気概を感じさせるエピソードでもあります。
こうした努力が実ったのか、明治20(1887)年には外国人の内地雑居(ないちざっきょ、外国人に我が国への自由な居住を認めること)を認める代わりに、領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復を盛り込んだ改正案を列強が了承しました。
しかし、領事裁判権の撤廃には「ある条件」があり、またその条件と深くかかわった「ある事件」が起きていたことによって、井上は政府の内外で大きな非難を受けてしまったのです。
※下記の映像は10月24日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
あの有名な鹿鳴館は、そんな政府の苦肉の策から
生まれた建物だったとは存じませんでした。
その後の井上氏の非難が気になりますね・・・(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > あの有名な鹿鳴館は、そんな政府の苦肉の策から
> 生まれた建物だったとは存じませんでした。
> その後の井上氏の非難が気になりますね・・・(^_^;)
政府も遊びであんな建物をつくったわけではなかったんですよね。
ただ、井上氏は条約改正を急ぐあまり、禁じ手ともいえる事をしでかしていたのです…。
ぴーち おはようございます!
さすがに、遊びで・・とまでは思いませんでしたが、
単に西洋かぶれが高じて作られた建物だったのか・
くらいにしか考えておりませんでしたので、
内情を伺えて勉強になりました^^
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 いえいえ、お言葉有難うございます。
鹿鳴館を始めとして、特に近代における政府の苦悩が、完全に誤解(あるいは曲解)されていることが多いですからね。これからも真実を見極めていきますので、よろしくお願いいたします。
我が国において外国人を被告とする裁判に対して、半数以上の外国人の判事(=裁判官)を採用するという条件が付いていたのです。もしこれが実現した場合には、仮に領事裁判権が撤廃されたとしても、過半数の外国人判事が存在することで、我が国で罪を犯した外国人に有利な判決が出る可能性が高いことは明白でした。
井上の改正案は政府内からも批判が多く、我が国のフランス人顧問(こもん)で法学者のボアソナードが反対したほか、農商務大臣の谷干城(たにたてき)が抗議の辞任をしました。
やがて改正案の内容が一般の国民の知るところとなると、井上によるそれまでの極端な欧化政策に反発していた民衆が、前年に起きていた「ある事件」に対する不満もあって激高し、収拾がつかなくなってしまいました。
では、その「ある事件」とは何だったのでしょうか。
※下記の映像は10月24日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
外国人絡みの犯罪は難しいですね。。
以前、聞いた話ですが
日本で犯してしまった罪が本国へ帰ると全くの無罪になってしまうそうだと言うので、驚いたことがあります。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 外国によって罪の種類も大きく異なりますからね。
だからこそ、領事裁判権を一方的に与えてはいけないはずですが…。
船長は神戸の領事裁判所で裁判を受けましたが、同じイギリス人の判事は無罪の判決を言い渡しました。多くの日本国民はこの判決に激怒し、政府も船長を殺人罪で告訴して横浜領事裁判所で再び裁判が行われましたが、船長に下された判決はわずかに禁錮(きんこ、監獄に閉じ込める刑罰のこと)3ヵ月であり、被害者への賠償は一切行われませんでした。
我が国で罪を犯した外国人に対して、同じ外国人が裁判権を握っている以上、正当な裁判が行われることが不可能であることを嫌(いや)というほど思い知らされた国民の間から、領事裁判権の撤廃を求める声が日増しに高くなっていきましたが、そんな折に外国人判事を認める井上の改正案が発覚したものですから、国民の怒りが頂点に達してしまったのです。
結局、井上の改正案は見送られ、条約改正の交渉を中止するとともに、井上は混乱の責任を取って外務大臣を辞任しました。
なお、井上による一連の条約改正交渉に失望した民権派によって三大事件建白運動が始まり、自由民権運動が再び活発化しました。また、同じ紀州沖でこれより4年後の明治23(1890)年に再び起きた不幸な遭難(そうなん)事故(=エルトゥールル号事件)が、我が国とトルコとの厚い友情のきっかけとなりました。
※下記の映像は10月24日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
この時代、日本という国は
これ程までに見くびられていた訳ですね。
白人至上主義の最たるもの・・ですね・・
その後のトルコとのお話は、黒田さんの所で
以前勉強させていただいた記憶がありますが、
その記憶が少し曖昧になってしまったので、
再確認させていただきます♪
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、白人は有色人種など人間扱いしていなかったのです。そんな排他主義が招いた悲劇でもありました。
我が国とトルコの関係については、第13回歴史講座で紹介しました。
下記のURLをご参考ください。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-category-25.html
しかし、条約改正案の内容がイギリスの新聞であるロンドン・タイムズにすっぱ抜かれると、井上と同じように政府の内外で強い反対論が起きました。
なぜなら、大隈の改正案には「大審院(だいしんいん、現在の最高裁判所)に限って外国人判事を任用する」と書かれていたからです。いくら大審院に限定であっても、下級裁判所で外国人が判決を不服として上訴すれば、最後には大審院で裁かれることになり、井上案と同じ結果になるのは目に見えていました。
大隈の改正案を受けいれるかどうか政府内で様々な議論が続けられましたが、そんな折の明治22年10月18日、大隈が閣議からの帰途(きと)で馬車に乗っていた際に、政治団体の玄洋社(げんようしゃ)の来島恒喜(くるしまつねき)が大隈めがけて爆弾を投げつけました。
爆弾によって大隈が右足を切断するという重傷を負うと、これを機に条約改正の交渉は再び中断し、大隈も外務大臣を辞職しました。なお、大隈を傷つけた来島は、爆弾の炸裂(さくれつ)と同時に自決しています。
※下記の映像は10月24日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
何処の国でもそうなのでしょうけれど、外国人にその国の政権を担って貰うと言うことは、
外国に魂を売った事と何ら変わりはない気がします。
大げさに言えば、侵略されたと思っても良いくらいだと思えてなりません。
ですので、
何が何でもそれだけは死守して行きたいと思う考えとのせめぎ合いが
起こっても仕方が無かったのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
国が成長していく過程において、時には生命を賭けたせめぎあいが起きることもあるかもしれません。
ロシアがシベリア鉄道を計画し、明治24(1891)年までに建設を始めると、ロシアの東アジアへの本格的な進出に対して、利害関係にあるイギリスが危機感を持ち始めました。
東アジアにおける権益を守るためには、日本が持つ軍事力を利用したほうが、自国に都合が良いと判断したイギリスは、それまで条約改正交渉において対立関係にあった我が国に対して好意的になり、またこの頃までに大日本帝国憲法(=明治憲法)その他の諸法典が我が国で相次(あいつ)いで成立したこともあって、条約改正に応じる態度を見せるようになりました。
イギリスの軟化を受けて、外務大臣の青木周蔵(あおきしゅうぞう)が条約改正の交渉を進め、領事裁判権の撤廃を含めた我が国の改正案に、イギリスが同意するまでこぎつけました。
ところが、そのような大事な時期に、我が国の今後を揺るがしかねない大事件が起きてしまったのです。
※下記の映像は10月29日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
イギリスと言う国もなかなかの曲者ですねぇ・・・
利用するだけ利用してやろうと目論む策略があるがゆえに日本の条件を受け入れるとは・・
日本からすれば、余り喜ばしい事では有りませんが、そうでもしなければ、条約が通らなかったというのなら、情けないながらも仕方が無いですね。
なんとなく、腑に落ちませんが。。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに情けない話ではありますが、相手の弱点を突いて我が国に有利に導くのも外交の常套手段ですからね。
ところが、今回は思わぬかたちから大きな事件が起きることになってしまうのです。
そんな折の5月11日、琵琶湖を観光したニコライを乗せた人力車に対して、滋賀の大津で警備を担当していた巡査の津田三蔵(つださんぞう)が、突然ニコライに襲いかかりました。これを大津事件といいます。
ニコライは負傷したものの、生命に別条はありませんでしたが、大国ロシアの皇太子がよりによって警備中の巡査に襲われるという想定外の出来事に、国内は大パニックになりました。何しろ相手は大国ロシアであり、これを口実に攻めてこられれば、我が国は滅亡するしか道はありません。
事の重大さに対し、明治天皇は直ちに列車で京都へ向かわれ、療養中のニコライをお見舞いされました。また、国民の中には「ロシアの皇太子様に申し訳ない」と京都府庁前で自害する女性まで現われました。
政府首脳も当然のように大混乱となり、ロシアの機嫌を損ねないためにも、犯人の津田を直ちに死刑に処すべきであるという意見でほぼ一致しましたが、それはできない相談でした。なぜなら、津田の犯した罪は「謀殺未遂罪(ぼうさつみすいざい)」であり、当時の最高刑は無期徒刑(むきとけい、現在の無期懲役=むきちょうえき)だったからです。
※下記の映像は10月29日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
そうですか。
こうして伺っていると
人間とは色々な考え方がありますね・・
片方では、暗殺を目論んでみたり
また片方では、他人の事であるにも関わらず
まるで自分の身内にでも起こった出来事の様に
解釈する心優しい人も居るんですものね。
それにしても、それ以前には
死刑に匹敵する程の犯罪は日本には
存在しなかったのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに仰るとおりですね。
当時の我が国は存亡の危機を迎えた大パニックでしたが、そんな中でこそさまざまな人間模様があったと思われます。
死刑の制度は明治にも存在していました。ただ、この場合の最高刑が無期懲役だったことが大きな問題となったのです。
しかし、大逆罪はそもそも日本の皇族を想定してつくられており、同じ皇族といえども外国人にまで適用させるのは無理がありました。また、戒厳令のような非常の手段で死刑にしたとしても、「法に規定が存在しないのに無理やり死刑にした」ことに変わりはなく、近代的な法治国家をめざす我が国がとるべき手段ではありませんでした。
加えて、いくら国際問題に発展しかねないからといえ、政府が裁判所に刑罰を強要するという行為は、司法権の独立を揺るがす大問題であり、近代国家として許されるものでないことは明らかでした。
結局、当時の大審院長(現在の最高裁判所長官)であった児島惟謙(こじまいけん、または「こじまこれかた」)は政府の要求をはねつけ、犯人の津田に刑法の規定どおり無期徒刑の判決を下しました。
※下記の映像は10月29日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
国内だけの問題ならば、死刑を唱える程の大罪では
無かったのでしょうけれど、相手が外国からの国賓級の人物となれば、話は違って来てしまうのは当然の事かも知れませんが、当時は我先に外国との交流分野のみが
先走ってしまい、法の改定が後手に回ってしまっていたのですね。
いづれにせよ、同じ国の民族同士であっても何か1つ問題が起これば
収めるのが難しいのに、外国との関わりとなると更に
難易度が高まり、厄介なのは今も昔も変わりは無いようですね・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、大変厄介ですよね。
だからこそ、近代法治国家として、法に基づいた判断が求められるのです。
当事者のロシアも、判決当初は「いかなる事態になるか分からない」と不服であったものの、明治天皇をはじめとする我が国側からの迅速(じんそく)な謝罪があったことや、イギリスやアメリカなどが上記の理由で我が国を高く評価したこともあって、賠償請求などの報復を一切行いませんでした。
大津事件は我が国にとって滅亡の危機をもたらしかねない大事件でしたが、事後の処置を誤らなかったことで、結果として我が国の国際的な地位を高めるとともに、その後の条約改正にも有利に働くことになったのです。
ただし、青木周蔵はロシアの在日公使に対して津田の死刑を密約しており、事件の責任を取って外務大臣を辞職したため、条約改正の交渉はまたしても延期となり、青木の後を継いだ榎本武揚(えのもとたけあき)も、具体的な交渉ができないまま外務大臣を辞任しています。
なお、司法権の独立を守った児島惟謙ですが、大津事件より前の明治19(1886)年に大阪で開校した関西法律学校(現在の関西大学)の創設者の一人としても知られています。
※下記の映像は10月29日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
自分が良かれと思った事を何がなんでも
死守しようとする思いはやはり大切であり、
守りぬいた事が結果、成功への道へつながるものであるという事を今日のお話から教えていただいた
気がしました^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 本当にそうですよね。
明治期の人々の気概が伝わるようなエピソードだと思います。
約1年かけたイギリスとの交渉が実って、明治27(1894)年7月16日に両国は日英通商航海条約を結び、領事裁判権の撤廃や、最恵国待遇の相互平等および関税自主権の一部回復などに成功しました。
イギリスとの成功を受けて、陸奥は他の欧米列強とも同様の内容の条約を結び、それらはすべて明治32(1899)年に同時に施行(しこう)されました。そして、最後まで残った関税自主権の完全回復も、先の条約が期限を迎えた明治44(1911)年に、当時の外務大臣の小村寿太郎(こむらじゅたろう)によって達成されました。
かくして、我が国は安政の五ヵ国条約を結ばされてから半世紀以上もの時間をかけて、ようやく欧米列強から、条約上において対等な国家として承認を受けることができたのです。
その背景には、憲法などの諸法典を整備するとともに、日清戦争や日露戦争に勝利して、我が国が世界に誇れる一等国として君臨(くんりん)するまでに成長したという、大きな歴史の流れがありました。
※下記の映像は10月29日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
確かに日本の先人達のこれまでの必死な苦労が
今の日本という国をここまでに高めてくれたことは
感謝したいと思います。
この先の日本を担う私達は、今後、どうしたいのか・・
どのような方向性に向かうのかは、分かりませんが
先人たちのこうした苦労に報いる様な
生き方を選んで行きたいものです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
先人の方々のご努力を無駄にしないためにも、次代へとしっかりつなげるような生き方をしないといけませんね。
例えば、相手側と交渉をまとめようとするのであれば、まずは自分自身が相手に負けないくらいの立派な存在となることが重要であり、そのためにも不断の努力が欠かせないということが良く分かります。
一方で、その真逆(まぎゃく)として、開国に向けて何の準備もしておらず、諸外国の言われるままに不平等条約を結ばされた、江戸幕府の体(てい)たらくぶりも、私たちは「反面教師」としてしっかり学ぶべきではないでしょうか。
ここからは、なぜ江戸幕府が諸外国と不平等条約を結ばなければならなかったのかという歴史的事実を、幕府成立当時の世界情勢から紹介していきたいと思います。
実は、幕府は当初から「鎖国」をしていたわけではなかったのです。
※下記の映像は11月6日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
そう言われてみれば、私も鎖国への経緯を
十分に理解して居たわけでは無かったなと改めて
思いました。是非、続きを教えていただければと
思いますm(__)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 開国に至った経緯は、単なる幕末だけでなく、幕府成立以前の歴史から振り返らなければなりません。
次回以降の更新をぜひご覧ください。