「およそ2500年前(紀元前3世紀)、朝鮮半島に近い九州北部で水田によるコメ作りが始まった。こうした流れは、中国大陸から朝鮮半島を経て、日本列島に波及したと考えられる」。
つまり、日本列島における水田耕作は、今から約2500年前に、朝鮮半島から伝わったと当然のように書かれているのですが、これは本当のことなのでしょうか。
実は、最新の研究によって、これらの見解は「完全に否定」されています。なぜなら、日本列島における水田耕作は今から約3000年前(紀元前10世紀頃)から行われていたばかりか、焼畑(やきはた)耕作あるいは陸稲(おかぼ)によるイネの栽培は、6000年前から行われていたことが分かったからです。
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オバrev これは朝鮮半島の歴史を同じように検証してみないとハッキリとは言えないかもしれないが、特に食料となると、自分達の生死が関わってきますから、縄文時代からの流れを考えると、自力で始めたことは十分頷けます。
ぴーち こんばんは!
余談ですが、
古代ギリシャ人は、ノートパソコンを
既に使用していた。。!!
なんて話題も動画で発表されていて
驚いたのですが、
私達が想像している以上に
色々な常識が覆られそうですよね(^_^;)
https://youtu.be/n7isUmJ7BN8
オバrevさんへ
黒田裕樹 食糧問題はいつも重要ですからね。仰るとおりだと思います。
朝鮮半島の稲作などについては、いずれ今回の講座で明らかにします。ご期待下さい。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、大変興味深い話ですね。
昔の文化が今より優れていたというのも、大きなロマンではあります。
その後も30ヵ所を上回る縄文遺跡からプラントオパールが発見されたことで、縄文時代において、すでに稲作が行われていたことが明らかになったのです。もっとも、当時は水田耕作が行われておらず、焼畑や陸稲による耕作であったと考えられています。
また、佐賀県唐津(からつ)市の菜畑(なばた)遺跡などの出土物を、較正(こうせい)炭素年代法などで測定した結果によって、日本列島で水田耕作が行われたのは、今から3000年前(紀元前10世紀頃)であったことが分かりました。
一方、朝鮮半島での稲作は、約3000年前に畑作物として栽培され、水田耕作は紀元前千年紀中頃(約2500年前)に始まったとされています。つまり、歴史教科書の記載とは全く逆であり、日本列島から朝鮮半島へと水田耕作が伝わった可能性が高いのです。
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オバrev 朝鮮半島での同じ方法による検証は必要だけど、逆に稲作に関しては、日本から朝鮮半島へ輸出した可能性は十分あると思います。
科学的証明がされたなら、確かに教科書の記述を変えて欲しいですね^^;
ぴーち こんばんは!
ここまで読ませて頂いた時点で
どうして歴史の教科書は
嘘、偽りの宝庫になってしまっているのでしょうかね?
何か大きな圧力が教科書検定の時点で
加わっているのでしょうか・・?
オバrevさんへ
黒田裕樹 今回の講演の参考文献によれば、朝鮮半島での調査結果はほぼ間違いないそうです。
仰るとおり、教科書の速やかなる書き換えが望まれますが…。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 一つ考えられるのは、現在の歴史学は、我が国よりも中国や朝鮮といった外国を重視する傾向にある、ということです。
学問の世界において頭角を現すには、上司たる教授の推薦も必要ですから…。
一方、私のような「変わり者の教師」は、そういったしがらみとは無縁ですからね。
「弥生文化は、農耕社会をすでに形成していた朝鮮半島から、必ずしも多くない人々が新しい技術を携(たずさ)えて日本列島にやってきて、従来の縄文人とともに生み出したものと考えられる」。
上記のうち、朝鮮半島から農耕社会の技術が伝わったというのが、実際には逆だったことは先述のとおりですが、では「渡来(とらい)した弥生人と、従来の縄文人が共存した」というのはどうなのでしょうか。
もし、北部九州にやってきた渡来人が増加し、東に向かって広がっていったのであれば、渡来系とみなされるDNAが、東日本と西日本で大きな差があるはずですが、調査の結果、DNAの分布は全国でほぼ共通していることが分かりました。
つまり、日本人のDNAは、弥生時代に渡来人によって大きく変化したのではなく、縄文時代から日本各地に存在していたことになります。
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ぴーち こんばんは!
確か以前、NHKで
中国、韓国などの大陸に住んでいる
アジア人と日本人との関係について
外見は似ていても、遺伝子でみると
違っているという内容の特集を
観たことが有りました。
似て非なるもの同士なのだなと
その時思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 外見は似ていても、遺伝子が全く異なるのは良くある話です。
征服されてY染色体が絶滅しても、母系のDNAは残りますからね。
オバrev 縄文以降については理解できますし、歴史教科書や常識も変わって欲しいですが、縄文以前の日本人の祖先いついてはどうなんでしょうか?
そこまで遡った情報が欲しいです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 そこまでさかのぼると、人骨などもなかなか出てきませんし、大陸とも陸続きでしたから、さらに複雑化している可能性がありますね。今後の研究を待ちたいところですが…。
歴史を鑑(かんが)みれば、我が国は異民族に征服されたこともなければ、民族虐殺(ぎゃくさつ)を伴う惨劇を国内で経験したこともなく、また縄文時代以降に日本民族を圧倒するような移民もありませんでした。
我が国には、古くからのY染色体が、その基本形を保ったまま、現代まで連綿と続いていることが明らかになったのです。
一方、世界各地では、古くから異民族同士の戦争や、一方的な虐殺が行われており、現代でも中華人民共和国によって、満州やチベット、ウイグルなどの「民族浄化」が進められています。それに比べれば、日本民族の存在は稀有(けう)であるといえるでしょう。
そして、そんな日本民族の中で、2670年以上も同じ男系の血脈を保ち続けておられる皇室のご存在が、世界中の人々からどのように思われているか、ということを、私たちはもっと知るべきかもしれません。
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ぴーち こんばんは!
2670年以上ですか・・・
そう考えると、歴史の重みをヒシヒシと
感じますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
皇室の伝統も含めて、血統の大切さは、日本人よりも外国人の方がより重要視していると思われます。
だからこそ、我が国に対して快く思わない国は、その伝統を崩そうとしているのかもしれません。
男系天皇
オバrev 確かに男性の性染色体はXYとなっており、この男性にしかないY染色体は、先祖代々の祖々々・・・父由来のものであるということですね。
そしてこのY染色体が維持されてきたというのが男系天皇ということでいいでしょうか。
長い目で見ると男系天皇が続く保証はありません。このY染色体をと切らせない仕組みを考えておくことが必要だと思います。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るお考えで間違いないと私も思っております。
皇室の血統を失わせてはなりません。