その一方で、我が国の起源は、いわゆる「四大文明」よりも遅れており、水稲農耕(すいとうのうこう)、すなわち水田耕作などの様々な文化も、中国大陸や朝鮮半島から伝わったと教科書には書かれています。
こうした記述を鵜呑(うの)みにすれば、我が国は他国(特に中国や朝鮮)に比べて「劣(おと)った国家」であるという認識を植えつけられそうですが、これらは本当のことでしょうか。
実は、我が日本列島は、古来より「日本文明」ともいうべき、世界各国とは異なる独自の文明を築き上げてきた特別の地域だったです。
今回の講座では、最新の研究から明らかになった、古代に関する「我が国のほんとうの歴史」について、神話と考古学の両面から紹介していきたいと思います。
※下記の映像は10月4日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
>古来より「日本文明」ともいうべき、世界各国とは異なる独自の文明を築き上げてきた特別の地域だったです。
確かに、島国である事が独自の文化、文明を
産み育てるものですよね。
本当の歴史・・興味深いですね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
我が国の古代における本当の歴史をこれから紹介してまいりますので、どうぞご期待ください。
「気候の温暖化によって植物性食料の重要性が高まり、クリ・クルミ・ドングリなどの木の実や、ヤマイモなどの根茎類(こんけいるい)の採集が行われたほか、クリ林の管理やヤマイモなどの保護、あるいはマメ類の栽培(さいばい)も行われたらしい」。
「このほか、弓矢などの使用によって狩猟(しゅりょう)が行われ、漁労(ぎょろう)も盛んとなった。食料の獲得法が多様化したことによって、人々の生活は安定し、定住的な生活が始まった。縄文文化は、約13000年前から、水田耕作を伴(ともな)う約2500年前頃の期間にわたっている」。
しかし、私(黒田)が高校時代に日本史を勉強した昭和60(1985)年頃の縄文文化の記述は、現在とは大きく異なっていたことをご存知でしょうか。
※下記の映像は10月4日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
私も黒田さんとほぼ同時代、高校生活を
過ごして居たにも関わらず、
日本史に関しては、殆ど記憶に御座いませんで
申し訳ありません(^_^;)
けれど、この時代も温暖化が進んでいたという
記述は初めて伺った気がしますが・・・?
(温暖な気候であるという記述は目にした事が
有ります)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いえいえ、お気になさらないでください。
普通は忘れてしまっているものです。
温暖化が進んで海面が上昇し、日本列島が形成されたのは仰るとおりですね。
そこから先にどのように発展していったかが大きなカギになります。
「当時の人々は、弓矢や石槍(いしやり)・落とし穴などを用いて動物を捕えた。また、水辺では貝をとったり、釣り針などの骨角器(こっかくき)で魚をとったり、木の実を採集したりするなど、自然条件に応じた様々な食料獲得の技術をもっていた」。
「縄文時代は、狩猟・漁労・採集の段階にとどまり、生産力が低かった。動物や植物資源の獲得は、自然条件に左右されることが多く、人々は不安定で厳しい生活を送っていたことが考えられる」。
つまり、私が受験生の頃は、縄文時代と言えば「自然環境に左右された、貧しくて不安定な生活」であったのが、現在の教科書では「自主的な栽培も行われた、豊かで安定した生活」と、大幅に記述が変化しているのです。
なぜここまで教科書の記述が変わったのでしょうか。その背景には、遺跡の発掘調査による新たな発見がありました。
※下記の映像は10月4日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
確かに歴史が古ければ古いほど
人間が営んでいた生活は過酷で
厳しい生活だったのでは無いかと
思いがちですが、
案外、現代人が想像するよりも
ずっと豊かな生活を送っていたのかも
知れませんよね。
それにおっしゃる通り、その裏付けとなる
新たな遺跡などの発掘が
進むと、事実が異なって来てしまうのは
当然の事ですね。
という事は、
歴史に限っては、常に新たな事実が発覚する可能性を
秘めているという事を
生徒さんたちに同時に教えていかねばならない
と言う事でしょうかね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 案外、現代人が想像するよりも
> ずっと豊かな生活を送っていたのかも
> 知れませんよね。
当時は物質的にはもちろん、現代のような過酷な競争めいた状態がなかった分、精神的にも豊かだったかもしれません。
> 歴史に限っては、常に新たな事実が発覚する可能性を
> 秘めているという事を
> 生徒さんたちに同時に教えていかねばならない
> と言う事でしょうかね^^
そのとおりです。本講座の大きな命題でもありますね。
遺跡はすでに江戸時代から知られていましたが、県営野球場建設に先立って、平成4(1992)年から行われた発掘調査によって、前例のない巨大な集落跡が姿をあらわしたほか、膨大(ぼうだい)な量の土器や石器などの生活関連遺物や、土偶(どぐう)などの祭祀(さいし)に関する遺物が出土しました。
さらに平成6(1994)年には、直径約1メートルのクリの巨木を使った、縄文時代中期の大型掘立柱(ほったてばしら)建物跡も見つかりました。
遺跡内の集落の大きさや、遺物や住居跡の多さから、一時期に数百名が生活したともいわれ、また近くに産出しないヒスイや黒曜石(こくようせき)などの物資の存在から、交易も盛んに行われていたなど、様々な新発見がありました。
※下記の映像は10月4日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
これらの発見によって、縄文時代に関する教科書の記載が書き換えられ、現在のように「豊かで安定した生活」となったのです。
遺跡の発掘調査など、新たな発見によって、それまでの「歴史の常識」が覆(くつがえ)されるのは、決して珍しいことではありません。むしろ、それが正当であると認められるのであれば、正しい歴史を知るためにも、大いに書き換えられるべきではないでしょうか。
このことは、縄文時代のはじまりの年代においても、同じことが言えるのです。そのきっかけは、ひとつの土器片の調査にありました。
※下記の映像は10月4日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
確かにこの時代は、現代の様に
最新技術を駆使した物質にあふれていた
訳では無いでしょうが
その分、物に心乱されることも無く
人々の暮らしは平穏で
精神的には安定した毎日を過ごしていたのでは
無いでしょうか。
仏法的にもこの時代の人々の
精神は現代人に比べれば遥かに
崇高であったと記されていますしね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、仏法的においてもそうなんですか。
それだけ優れた時代だったのでしょうね。
この土器片を「較正(こうせい)炭素年代法」で調査した結果、今から約16500年前のものであることが、翌平成11(1999)年に分かりました。つまり、我が国の縄文文化における土器の技術は、世界最古クラスのものであることが明らかになったのです。
世界最古クラスの土器が存在するということは、縄文文化そのものが世界最先端の技術を誇っていたことを意味します。こうした事実が明らかになったのは、較正炭素年代法などといった、最近の技術研究の進化がもたらしたものでもありました。
そして、それらの技術の向上は、いわゆる「弥生文化」における「これまでの常識」をも、大きく覆(くつがえ)すこととなったのです。
※下記の映像は10月4日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
なるほど、たしかに縄文時代がそうなら
次の弥生時代は更にステップアップされているはずですものね。
先走ってしまい申し訳ありませんが
その後の飛鳥時代には「聖徳太子」という
類まれな人物が登場するのを思うと
それ以前の日本人もまた
類を見ない生き方をしていたのではないかと
想像します。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
聖徳太子の登場は偶然ではなく、今までの流れを考えれば、むしろ必然といえると思います。
オバrev おお~!凄い!!
極微量を測定する新しい方法によって歴史が塗り替えられるとは、見事な科学技術の勝利ですね^^;
でも浮かれてばかりいられないかもしれません。
世界の歴史を同じやり方で検証すると、さらに新しい事実が生まれるかも?
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、科学技術の進化は素晴らしいですね。
個人的には、様々な事実が分かることは良いことだと思います。それが本当であるのならば…。
「およそ2500年前(紀元前3世紀)、朝鮮半島に近い九州北部で水田によるコメ作りが始まった。こうした流れは、中国大陸から朝鮮半島を経て、日本列島に波及したと考えられる」。
つまり、日本列島における水田耕作は、今から約2500年前に、朝鮮半島から伝わったと当然のように書かれているのですが、これは本当のことなのでしょうか。
実は、最新の研究によって、これらの見解は「完全に否定」されています。なぜなら、日本列島における水田耕作は今から約3000年前(紀元前10世紀頃)から行われていたばかりか、焼畑(やきはた)耕作あるいは陸稲(おかぼ)によるイネの栽培は、6000年前から行われていたことが分かったからです。
※下記の映像は10月8日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
オバrev これは朝鮮半島の歴史を同じように検証してみないとハッキリとは言えないかもしれないが、特に食料となると、自分達の生死が関わってきますから、縄文時代からの流れを考えると、自力で始めたことは十分頷けます。
ぴーち こんばんは!
余談ですが、
古代ギリシャ人は、ノートパソコンを
既に使用していた。。!!
なんて話題も動画で発表されていて
驚いたのですが、
私達が想像している以上に
色々な常識が覆られそうですよね(^_^;)
https://youtu.be/n7isUmJ7BN8
オバrevさんへ
黒田裕樹 食糧問題はいつも重要ですからね。仰るとおりだと思います。
朝鮮半島の稲作などについては、いずれ今回の講座で明らかにします。ご期待下さい。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、大変興味深い話ですね。
昔の文化が今より優れていたというのも、大きなロマンではあります。
その後も30ヵ所を上回る縄文遺跡からプラントオパールが発見されたことで、縄文時代において、すでに稲作が行われていたことが明らかになったのです。もっとも、当時は水田耕作が行われておらず、焼畑や陸稲による耕作であったと考えられています。
また、佐賀県唐津(からつ)市の菜畑(なばた)遺跡などの出土物を、較正(こうせい)炭素年代法などで測定した結果によって、日本列島で水田耕作が行われたのは、今から3000年前(紀元前10世紀頃)であったことが分かりました。
一方、朝鮮半島での稲作は、約3000年前に畑作物として栽培され、水田耕作は紀元前千年紀中頃(約2500年前)に始まったとされています。つまり、歴史教科書の記載とは全く逆であり、日本列島から朝鮮半島へと水田耕作が伝わった可能性が高いのです。
※下記の映像は10月8日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
オバrev 朝鮮半島での同じ方法による検証は必要だけど、逆に稲作に関しては、日本から朝鮮半島へ輸出した可能性は十分あると思います。
科学的証明がされたなら、確かに教科書の記述を変えて欲しいですね^^;
ぴーち こんばんは!
ここまで読ませて頂いた時点で
どうして歴史の教科書は
嘘、偽りの宝庫になってしまっているのでしょうかね?
何か大きな圧力が教科書検定の時点で
加わっているのでしょうか・・?
オバrevさんへ
黒田裕樹 今回の講演の参考文献によれば、朝鮮半島での調査結果はほぼ間違いないそうです。
仰るとおり、教科書の速やかなる書き換えが望まれますが…。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 一つ考えられるのは、現在の歴史学は、我が国よりも中国や朝鮮といった外国を重視する傾向にある、ということです。
学問の世界において頭角を現すには、上司たる教授の推薦も必要ですから…。
一方、私のような「変わり者の教師」は、そういったしがらみとは無縁ですからね。
「弥生文化は、農耕社会をすでに形成していた朝鮮半島から、必ずしも多くない人々が新しい技術を携(たずさ)えて日本列島にやってきて、従来の縄文人とともに生み出したものと考えられる」。
上記のうち、朝鮮半島から農耕社会の技術が伝わったというのが、実際には逆だったことは先述のとおりですが、では「渡来(とらい)した弥生人と、従来の縄文人が共存した」というのはどうなのでしょうか。
もし、北部九州にやってきた渡来人が増加し、東に向かって広がっていったのであれば、渡来系とみなされるDNAが、東日本と西日本で大きな差があるはずですが、調査の結果、DNAの分布は全国でほぼ共通していることが分かりました。
つまり、日本人のDNAは、弥生時代に渡来人によって大きく変化したのではなく、縄文時代から日本各地に存在していたことになります。
※下記の映像は10月8日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
確か以前、NHKで
中国、韓国などの大陸に住んでいる
アジア人と日本人との関係について
外見は似ていても、遺伝子でみると
違っているという内容の特集を
観たことが有りました。
似て非なるもの同士なのだなと
その時思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 外見は似ていても、遺伝子が全く異なるのは良くある話です。
征服されてY染色体が絶滅しても、母系のDNAは残りますからね。
オバrev 縄文以降については理解できますし、歴史教科書や常識も変わって欲しいですが、縄文以前の日本人の祖先いついてはどうなんでしょうか?
そこまで遡った情報が欲しいです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 そこまでさかのぼると、人骨などもなかなか出てきませんし、大陸とも陸続きでしたから、さらに複雑化している可能性がありますね。今後の研究を待ちたいところですが…。
歴史を鑑(かんが)みれば、我が国は異民族に征服されたこともなければ、民族虐殺(ぎゃくさつ)を伴う惨劇を国内で経験したこともなく、また縄文時代以降に日本民族を圧倒するような移民もありませんでした。
我が国には、古くからのY染色体が、その基本形を保ったまま、現代まで連綿と続いていることが明らかになったのです。
一方、世界各地では、古くから異民族同士の戦争や、一方的な虐殺が行われており、現代でも中華人民共和国によって、満州やチベット、ウイグルなどの「民族浄化」が進められています。それに比べれば、日本民族の存在は稀有(けう)であるといえるでしょう。
そして、そんな日本民族の中で、2670年以上も同じ男系の血脈を保ち続けておられる皇室のご存在が、世界中の人々からどのように思われているか、ということを、私たちはもっと知るべきかもしれません。
※下記の映像は10月8日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
2670年以上ですか・・・
そう考えると、歴史の重みをヒシヒシと
感じますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
皇室の伝統も含めて、血統の大切さは、日本人よりも外国人の方がより重要視していると思われます。
だからこそ、我が国に対して快く思わない国は、その伝統を崩そうとしているのかもしれません。
男系天皇
オバrev 確かに男性の性染色体はXYとなっており、この男性にしかないY染色体は、先祖代々の祖々々・・・父由来のものであるということですね。
そしてこのY染色体が維持されてきたというのが男系天皇ということでいいでしょうか。
長い目で見ると男系天皇が続く保証はありません。このY染色体をと切らせない仕組みを考えておくことが必要だと思います。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るお考えで間違いないと私も思っております。
皇室の血統を失わせてはなりません。
内宮前で各国首脳が勢ぞろいした写真が公開されましたが、これが世界的にどれだけの大きな出来事かということを、皆様はご理解されておられるでしょうか。
我が国は、大東亜戦争後に、GHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)によって発せられた神道指令(しんとうしれい)によって、神道と国家が分離されると同時に、神道が単なる一宗教の扱いを受けることとなり、国家神道や神社神道に対する国家の支援も禁止されました。これには、神社をいずれ自然消滅させるというGHQの意図があったとされています。
これ以降、我が国は神道と国家とのかかわりに否定的となり、靖国(やすくに)神社への玉ぐし料を公費で負担させることが、最高裁の判例によって「憲法違反」とされてしまいました。
しかし、世界主要国の首脳は、そんな「つくられた常識」に見向きもせず、堂々と伊勢神宮の内宮に参拝したのです。このことは、各首脳の記帳の内容からも明らかです。
※下記の映像は10月14日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
アメリカ:オバマ大統領
幾世(いくよ)にもわたり、癒(いや)しと安寧(あんねい)をもたらしてきた神聖なこの地を訪れることができ、非常に光栄に思います。世界中の人々が平和に、理解しあって共生できるようお祈りいたします。
フランス:オランド大統領
日本の源であり、調和、尊重、そして平和という価値観をもたらす、精神の崇高(すうこう)なる場所にて。
ドイツ:メルケル首相
ここ伊勢神宮に象徴される日本国民の豊かな自然との密接な結びつきに深い敬意を表します。ドイツと日本が手を取り合い、地球上の自然の生存基盤の保全に貢献していくことを願います。
イギリス:キャメロン首相
日本でのG7のために伊勢志摩に集(つど)うに際し、平和と静謐(せいひつ)、美しい自然のこの地を訪れ、英国首相として伊勢神宮で敬意を払うことを大変嬉しく思います。
イタリア:レンツィ首相
このような歴史に満ち示唆(しさ)に富む場所ですばらしい歓待をいただきましてありがとうございます。主催国である日本と我々全員が、人間の尊厳を保ちながら、経済成長及び社会正義のための諸条件をより力強く構築できることを祈念します。
カナダ:トルドー首相
伊勢神宮の調和に、繁栄と平和の未来を創るという我々の願いが映し出されますように。
EU:トゥスク欧州理事会議長
静謐(せいひつ)と思索(しさく)の場。そして日本についての深い洞察。どうもありがとう!
EU:ユンカー欧州委員会委員長
この地で目(ま)の当たりにした伝統と儀礼に敬意を表す。
※下記の映像は10月14日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
オバrev 欧米人に、日本的なきめ細かい、おもてなし的な価値観が分かるんだろうかという気がしていましたが、トップになる人はそういう深さを持っているんですかね(?_?)
ぴーち こんばんは!
これ程までに日本の事を
褒め称えてくれているのですから
日本人はこの言葉を胸に
期待を裏切らないよう日々
精進して行かなければいけないですね(^_^;)
オバrevさんへ
黒田裕樹 恐らく仰るとおりでしょうね。
なかには例外もおられるかもしれませんが…。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私もそう思います。
今も昔も、日本は世界からの注目を集める国ですね。
我が国では長いあいだ、神話が絶えず意識されてきました。しかし、GHQによる占領下で、日本を罪深い国に仕立て上げた「WGIP(=ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム、日本人に戦争犯罪者意識を刷り込む計画)」によって、戦後70年を経た今もなお、日本国と日本民族を洗脳し続けています。
WGIPによる影響は、我が国の歴史教科書にも確実に表れており、天照大神や、我が国初代の神武(じんむ)天皇などの神話の記載がほとんど見られません。その理由としては、例えば「神話は空想的なファンタジーであり、教科書に載せるべきではない」というのもあります。
しかしながら、戦後の様々な発掘調査によって、神武天皇が遺(のこ)された足跡が、地質学的に確実に証明されていることを、皆様はご存知でしょうか。
その根拠の一つは、大阪にあります。
※下記の映像は10月14日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
他国からの洗脳を受けながら歩んできた
歴史は虚偽の歴史と言っても過言では無いのでは
ないでしょうか・・・
大阪は歴史の宝庫なんですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、虚偽に満ちています。
だからこそ、私たちは自国の歴史を取り戻さなければなりません。
大阪の歴史は意外なことが多いですよ。
その後、温暖化や土砂の堆積(たいせき)によって、上町(うえまち)台地の北側に位置する河内湾と大阪湾の連絡口が狭(せば)まり、今から約3000~2000年前には、干潟(ひがた)が広がって河内潟(かわちがた)となりました。さらに約1800~1600年前には、湾口(わんこう)が閉ざされて河内湖(かわちこ)となり、やがて平野化したのです。
河内潟の頃は、現在の大阪城から南に延びる上町台地の北端が潟口(かたぐち)であり、引き潮の際には潟の水が開口部から勢いよく大阪湾に流れ出す一方で、満潮の際には、開口部を通って海水が潟内部へ逆流していたと考えられます。
実は、その様子が、8世紀に編纂(へんさん)された「日本書紀」にも書かれているのです。
※下記の映像は10月14日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
私は関西地方の地形には詳しくありませんが
確かに大阪は平野が広がっているものだと
認識しておりましたが、昔は湾だったんですね!
そう言えば、時代は違いますが
今の新宿辺りも江戸時代頃には
沼地が広がっていて、旅人が足を取られてはそこで
息絶えた者が居るなどと伺った事が有りました。
現代の様に高層ビル群が立ち並ぶイメージとは
想像が付きませんが(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 それぞれの時代で自然の地形も変わりますからね。
大阪駅も昔は海の底でしたし。
現在の大阪が「浪速(なにわ)」あるいは「浪花(なにわ)」と呼ばれたり、ミナミの中心地が「難波(なんば)」と呼ばれたりするのは、地質学と記紀の両方にルーツがあることが良く分かりますね。
なお、河内潟の頃に、先の尖(とが)った形をした上町台地は「難波(なにわ)の碕(みさき)」と呼ばれていました。
さらには、神武天皇が大和(現在の奈良県)の国を目指して東征(とうせい)された際に(詳しくは後述します)、大阪湾から現在の大阪府東大阪市に船で移動したという話が日本書紀にみられますが、ここにも地質学的に証明できる記述が見られるのです。
※下記の映像は10月14日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
確かに
「なぜにその地名が付いたのだろう?」と
思う場所は有りますよね。
例えば、富士見などという地名は
良く有りがちですが、
昔はその位置から富士山が見えたというのが
ルーツと聞いて、納得した事が有りましたっけ^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そういえば「富士見」も由来が分かりやすい地名ですよね。
何事にも理由があるものです。
現代語訳すれば「難波の碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変早く着いた」となりますが、この一文は、神武天皇の一行が、河内潟の狭い開口部から流入する潮流に乗って、一気に潟内部に進入し、難波の碕に着いたことを物語っています。
こうした記述は、河内潟の時代でしか考えられません。なぜなら、河内湾の頃であれば、現在の大阪府東大阪市付近での長髄彦(ながすねひこ)らとの戦い(詳しくは後述します)が海戦となってしまいますし、また河内湖になってしまえば、遠浅の湖面では軍船での上陸は厳しいうえに、「速い潮流があって大変早く着いた」とはなりません。
ということは、神武天皇の東征は、今から約3000~2000年前の河内潟の頃に行われたことになりますね。その一方で、日本書紀によれば、神武天皇が即位されたのは、今から2676年前です。
つまり、神武天皇の東征は、地質学的にもその正しさが証明されたことになるのです。
※下記の映像は10月14日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
太陽を神格化した神であり、皇室の祖神たる天照大神(あまてらすおおみかみ)の直系の子孫であられる神武天皇(別名:神日本磐余彦尊=かんやまといわれひこのみこと)は、それまでの日向(ひゅうが、現在の宮崎県)の高千穂(たかちほ)から、都を東方へ移そうと決意されました。
神武天皇がそのように思われたのは、日向よりも東の方で争いが絶えず、まとまりのない状態であったため、大八島(おおやしま、日本のこと)の中心たる大和に向かい、そこで新たに都を造ろうとお考えになったからだと伝えられています。
神武天皇は軍勢を率いられて日向から瀬戸内海を渡り、大阪湾から大和へ上陸されようとしました。先述の「難波(なにわ)の碕(みさき)へは速い潮流があって大変早く着いた」とはこのことです。しかし、現在の大阪府東大阪市付近で、長髄彦(ながすねひこ)らの激しい抵抗にあって、兄を失われました。
※下記の映像は10月20日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
この頃は現在の宮崎に
都が存在していたのですね!
遷都を行う事は珍しくない
事なのでしょうね・
現在の東京だとて
将来的にはもう少し条件の良い場所に
代わる可能性も有りますものね・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 実際に、遷都は何度も行われていますからね。京都が(一時期の福原を除いて)1000年以上続いているので勘違いしやすいですが…。
東京への遷都は、江戸という都市機能を生かした方が何かと都合が良かったという一面もありました。将来の遷都の可能性は十分あると思います。
そんな神武天皇の軍勢の前に、いきなり巨大なカラスが現れました。それは三本足をもつ八咫烏(やたがらす)でした。八咫烏は天照大神の使いとして、天皇を大和まで先導して道案内の役割を果たしたのです。八咫烏は日本サッカー協会のシンボルマークとして用いられているので、サッカーファンにはなじみが深いかもしれませんね。
大和に入られた神武天皇の軍勢は、抵抗する豪族を次々と倒して目的地に近づかれましたが、再び長髄彦(ながすねひこ)らが天皇の前に立ちふさがりました。折しも氷雨(ひさめ)が降るなか、天皇が苦戦されておられたそのときに、どこからともなく金色に輝く一羽のトビが飛んできて、天皇の弓の先に止まると、トビは稲光のようにピカッと光り輝き、敵軍の目をくらまして敗走に追い込みました。
このようにして大和を平定された神武天皇は、橿原(かしはら)の地に宮殿を築かれ、初代天皇として即位されました。なお、現在の橿原神宮は、この伝承に基づいて明治時代に創建されたものです。また、ご即位の日は十干十二支(じっかんじゅうにし)で辛酉(しんゆう、別名を「かのととり」)の年の1月1日と伝えられており、日本書紀では、神武天皇のご即位の年を紀元前660年に定めています。
※下記の映像は10月20日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
サッカーの事はまるで存じませんが
八咫烏がシンボルマークなんですね。
サッカー協会は
天照大神を何方か信仰してるんでしょうか?
それとも道案内という意味合いが
支持されたのでしょうか^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 日本にサッカーを紹介して広めた功績者であり、周囲から神様のように慕われたらしく中村覚之助氏の功績をたたえ、彼の故郷である和歌山県那智勝浦町の渚の宮神社のシンボルである八咫烏を取り入れることにした、という説があるようですね。
神武天皇による建国のご意思は、長いあいだ我が国の理想として絶えることなく伝承され続け、明治時代には「紀元節」として祭日となり、大東亜戦争の終戦後も、昭和23(1948)年の前半頃までは、官庁や学校で祝典が開催されていました。
しかし、GHQの命令によって、新たに国会で祝日法を制定することになった際に、日本人が心を一つにして国の誕生日を祝うことが、日本人の団結心をもたらすとともに、占領に「悪影響」が出ることが予想されたため、紀元節が一方的に廃止されてしまったのです。
その後、我が国が独立を回復する以前から、紀元節の復活を望む声が国民のあいだで高まってきましたが、米ソの冷戦や安保闘争などの保革激突によって実現できませんでした。
※下記の映像は10月20日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
今の日本の体たらくは
戦後のGHQの方針が齎しさ
ものなのだなとしみじみ思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今の日本の体たらくは
> 戦後のGHQの方針が齎しさ
> ものなのだなとしみじみ思いました。
そのとおりですし、そこからいまだに脱出できていないところが残念でなりません。
ちなみに、当時発表された世論調査によれば、「2月11日を建国記念の日とする」案が全体の5割近くを占(し)めるなど、国民から圧倒的な支持を得ていたそうです。
なお、「建国記念の日」が「建国記念日」ではないのは,史実に基づく建国の日とは関係なく,建国されたという事象そのものを記念する日であるという考えによるものであるとされ、祝日制定に断固として反対した当時の日本社会党(現在の社会民主党)を納得させるためだったそうです。
しかしながら、祝日制定からすでに半世紀が経過したのですから、GHQによる洗脳状態から真に脱出するためにも、改めて「建国記念日」として国民がこぞって祝うことができるよう、法律の改正を求めていくべきではないでしょうか。
※下記の映像は10月20日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
建国記念の日ですか(^_^;)
「の」が入ると入らないのでは
意味合いが変わる処も
また日本語らしい解釈ですね(*ノω・*)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに仰るとおりですね。
だからこそ、正常な名称を使用したいものです。
つまり、我が国は世界とは全く異なる、独自の「日本文明」をもっていたということになりますが、我が国の伝統たる記紀にみられる記載と地質学的な知識との一致や、較正(こうせい)炭素年代法など最新の調査で明らかになった事実を鑑(かんが)みれば、ハンティントンの言葉を借りるまでもなく、我が国が古来より輝かしい歴史を誇っていることは明らかです。
我が国は、ハンティントンすら気付いていなかった、遥(はる)かに遠い過去からの独自の文明の源泉があったことを、もっと認識すべきではないでしょうか。
しかし、いまだに「世界四大文明」にこだわった、旧態依然(きゅうたいいぜん)の歴史教科書の記載をみれば、「日本文明の誕生」を人口に膾炙(かいしゃ)させることは、容易ではなさそうです。
※下記の映像は10月20日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
そうですよね!
日本は独自の文明を開拓してきた
優れた民族だと思います。
その部分は是非とも西洋かぶれ、
外国かぶれにならないように
しっかりと保持して行きたいものですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
外国の文化を吸収することは問題ないですが、同時に我が国の文化を捨ててしまうような行為は認められません。