実は、世界史的に見ればこの形式は「有り得ない」ことを、皆さんはご存知でしょうか。
なぜなら、通常であれば藤原氏のようなややこしい立場をとらずに、前の皇帝や国王を追放(あるいは殺害)して自身が王位に就くのが当然だからです。現実に洋の東西を問わず、日本以外の国では何度も同じようなことが行われてきました。
それなのに、なぜ藤原氏は自身が天皇になろうとしなかったのでしょうか。その理由としては、先述のとおり、奈良時代に起きた宇佐八幡宮神託事件の際に「皇位は神武天皇以来の皇統が継承すべきである」と決められたことが挙げられます。
※下記の映像は9月20日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
結局、正統な決まり事から
少しでも外れると
いづれ弾かれていく運命にあるという事ですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
その国にはその国のルールがあります。
つまり、藤原氏といえども、その不文律を破ることが出来ず、この後に天下を取った源氏や足利氏、あるいは徳川氏も、皇室についてはアンタッチャブルのままだったのです。
加えて藤原氏には、その出自から、天皇に逆らって自身が皇位を継承することが許されない宿命がありました。
その根拠が、実は神話にあるのです。
※下記の映像は9月20日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
神話ですか・・
確かに神話となると
太刀打ち出来ない次元の違いを感じますものね。
どのような神話なのでしょうか?
オバrev 神話が実際の政治を動かすところに、日本の神道の精神があるような気がしますけど、どうですかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 神話の内容は、藤原氏がもっていた「運命」のようなものですね。
次回の更新をぜひご覧ください。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 神話が実際の政治を動かすところに、日本の神道の精神があるような気がしますけど、どうですかね?
仰るとおりですね。神話の真髄たる運命の展開を、ぜひご覧ください。
また、天照大神の命によって皇孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原(たかまがはら)から日向の高千穂(たかちほ)に天降(あまくだ)りなさったという天孫降臨(てんそんこうりん)の際に、天児屋根命は瓊瓊杵尊に付き従ったとされています。
つまり、藤原氏は、神話の代から皇室に忠実に仕える家であると決められていました。そんな伝統があったからこそ、藤原氏の権勢がどれだけ強力なものになろうとも、自分が天皇になろうとは思わない、いや思えなかったのです。
また、武家として初めて政権を握った平氏や源氏も、元々は皇室の血を引いていましたから、本家を侵(おか)すことが出来ずに朝廷をそのまま残しましたし、その考えが足利氏以降の武家政権にも脈々と受け継がれています。
我が国では長いあいだ、神話というものが常に意識されてきました。そんな思いが長年の伝統として自然と皇室を尊敬する気持ちを高めるとともに、藤原氏自らが天皇になるという道を閉ざしてきたのです。
※下記の映像は9月20日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
なるほど。。
例えば、私設で建てられた学校で
代々その家に生まれた子供が
学校長として役職を任されているような
所は、いくら外部の教師が学長に
なろうとしても、所詮教頭までしかなれない
と同じようなものですかね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、そういう例えもありますね。
いずれにしましても、我が国の皇室のご存在の大きさがうかがえます。
オバrev お天道さまが見ているという、ある意味非科学的な事を信じる私ですが、それは藤原氏も同じだったのかも(^_^;)
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。藤原氏のみならず、私たち国民が同じ思いなのかもしれませんね。
1068年に藤原氏を外戚としない後三条(ごさんじょう)天皇が即位されると、翌1069年には「延久(えんきゅう)の荘園整理令」を出されて、藤原氏の大きな財産であった荘園を大幅に削減されました。
また、後三条天皇の子の白河(しらかわ)天皇が幼い実子に譲位されると、お自らは幼い天皇を後見するという名目で、政治の実権を握られました。つまり、それまでの摂関家にかわって、天皇の父(あるいは祖父)が上皇として天皇を後見する制度が新たに誕生したのです。
なお、上皇の住居が院と呼ばれ、その後に上皇自身が「院」と称されることになったことから、この制度のことを院政(いんせい)といいます。
※下記の映像は9月20日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
確かに昔は現代の様に医学のちからで
人工授精や体外受精などによって
無理にでも子供を作る事が
出来る技術は無かったでしょうから
人知を超えた出来事に関しては
諦めるしか無かったでしょうから
分を弁えるという意味では
まだ人間らしい判断が出来た時代でも
有りましたよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに仰るとおりですね。
皇室にかかわれなくなった段階で、藤原氏の役割は終わったのかもしれません。
その一方で、経済的基盤を失った藤原氏の権力は急速に没落し、院政が始まって約100年後には、平氏や源氏によって武家政権が誕生してしまいました。
これらによって、藤原氏は政治の実権を完全に失うとともに、摂政や関白は事実上の名誉職へと押しやられてしまったのです。
時代の象徴として繁栄した藤原氏が、やがて時代に捨てられたかのように没落していく。その栄枯盛衰ぶりは我が国の歴史の流れを象徴しているとも考えられそうですが、こうした藤原氏の歴史を振り返ることによって、私たちが得られる教訓は非常に多いといえるのではないでしょうか。
※下記の映像は9月20日までの掲載分をまとめたものです。
(※第55回歴史講座の内容はこれで終了です)
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
オバrev 確かに藤原氏の名前は、道長・頼通あたりまでは記憶にあるのですが、それ以降一気に消えてしまったように思っています。
院政とリンクしていたんですね・・・初めて知りました。
オバrevさんへ
黒田裕樹 実はそうなんですよ。歴史はつながっている、ということが良く分かりますよね。