光仁(こうにん)天皇の子の桓武(かんむ)天皇が、794年に都をそれまでの長岡京から平安京に遷(うつ)された頃、桓武天皇の子で皇太子の安殿(あて)親王は身体が弱く、病気がちでした。そんな親王の后(きさき)としてある女性が選ばれた際に、その女性が幼かったため、彼女の母親も後見役として一緒に迎えられましたが、ここでとんでもないことが起きてしまいました。
何と、后の母親が、自身に夫がいるにもかかわらず、親王と「男女の関係」になってしまったのです。その母親こそが、藤原氏の式家(しきけ)の血を引く藤原薬子(ふじわらのくすこ)でした。安殿親王と薬子との不倫(ふりん)ともいえる関係に激怒された桓武天皇によって、やがて薬子は朝廷から追放されてしまいました。
しかし、桓武天皇が崩御され、安殿親王が平城(へいぜい)天皇として即位されると、薬子は再び召(め)し出されました。二人の関係が深くなることで、薬子の兄にあたる藤原仲成(ふじわらのなかなり)も出世を重ね、朝廷では仲成・薬子兄妹による政治の専横が続きました。
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ぴーち こんばんは!
こういうお話を伺うと
女人の恐ろしさを感じずには居られなくなりますね(^_^;)
同性として考えて見てもどうも受け入れがたい
存在ですね・・
野望の果てに行き着いた場所は
心の底から喜べる境涯なのでしょうか・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 やはり同性としても受け入れがたいですか…。
この愛憎の結末は、次回の更新をご覧ください。
兄の不穏(ふおん)な動きに対して、嵯峨天皇は810年3月に、天皇の命令を速やかに伝えるための秘書官としての役割を持つ蔵人所(くろうどどころ)を設置され、側近の藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)らが、その長官に当たる蔵人頭(くろうどのとう)に任命されました。
810年9月、平城上皇はついに平城京への再遷都(さいせんと)を宣言され、朝廷に反旗を翻(ひるがえ)されましたが、事前に動きを察知された嵯峨天皇によって阻止されました。敗れた上皇が出家されると、仲成は射殺され、薬子は毒をあおって自殺しました。
この事件を「薬子の変」、もしくは「平城太上天皇(だいじょうてんのう、もしくは「だじょうてんのう」)の変」といいます。なお、太上天皇とは、退位された天皇の尊号である「上皇」の正式名称です。
薬子の変の結果、藤原四兄弟の宇合(うまかい)を始祖とする式家は没落し、房前(ふささき)の子孫である藤原冬嗣が率いる北家(ほっけ)が力をつけるきっかけになりました。また、薬子の変の際に嵯峨天皇の側について勝利の祈祷を行い、後の大出世につながる働きをした僧がいました。その名を空海(くうかい)といいます。
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オバrev 買っても負けても藤原という完璧な布陣(゚_゚i)タラー
薬子の変、私が高校の時は多分習わなかったけど、子供の中学校受験の際にだったと思うけど、初めて知りました。
でも負けはしたけど、こんな女性がいる藤原氏の力は、やっぱ凄いと言わざるをえない。平安時代は藤原時代とも言えそうですね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 確かに仰るとおりですね。
平安時代は、朝廷の中では藤原氏が一歩抜けた存在になっていく過程が一つの見どころでもあります。
例えば、842年には伴健岑(とものこわみね)や橘逸勢(たちばなのはやなり)らが、皇太子を東国へ移して謀反(むほん)をたくらんでいるとして処罰されたり、866年に平安京の応天門(おうてんもん)が炎上した際には、事件の首謀者として伴善男(とものよしお)が処罰されたりしています。
なお、842年の事件は「承和(じょうわ)の変」、866年は「応天門の変」と呼ばれています。
承和の変や応天門の変によってライバルを蹴落とした藤原氏は、藤原良房(ふじわらのよしふさ)が866年に皇族以外で初の摂政(=天皇が幼い時などの場合に政治を代行する職のこと)に正式に任命されると、良房の養子の藤原基経(ふじわらのもとつね)が884年に関白(=天皇の成人後に政治を代行する職のこと)に事実上就任し、藤原氏はますますその権力を強めることになりました。
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ぴーち こんばんは!
なんとまあ、藤原氏のやり口は
徹底したものだったのですね(^_^;)
向かう所敵なしといった所でしょうか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに徹底していますね。
藤原氏の勢いは9世紀は良かったのですが、これが10世紀になると…。
オバrev まさにやりたい放題(´ε`;)ウーン…
努力が報われない、公平性のない世の中は嫌ですね┐(´д`)┌ヤレヤレ
ただこれは、超上流社会の権力闘争ですけど、一般庶民はそんなことは無かったんかなぁ?
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、上流階級同士の争いですからね。
一般庶民にとっての平安時代は、生きにくい世の中だったとも言えます。
「阿衡」とは中国の古典から引用したものでしたが、基経は「『阿衡』という言葉には地位はあっても実職が伴っていないから、その意味どおりに今後は一切政治を行わない」と宣言して、朝廷への出仕をやめてしまったのです。驚かれた宇多天皇は基経を説得されましたが、基経は首を縦に振ろうとしませんでした。
基経の不出仕によって、政治の混乱が生じてしまったことを心痛された宇多天皇は、勅書を起草した橘広相(たちばなのひろみ)を失脚させることで、ようやく事態を収拾されました。この事件は「阿衡の紛議(ふんぎ)」と呼ばれ、基経は自己の権力の強さを宇多天皇に知らしめたのでした。
ご即位後間もなく起きた阿衡の紛議によって、ご心痛を受けられた宇多天皇でしたが、自身は藤原氏を外戚(がいせき、母方の親戚のこと)とせず、また基経の死後に後を継いだ藤原時平(ふじわらのときひら)がまだ幼かったこともあって、藤原氏以外の貴族を次々と登用されましたが、その中のひとりに菅原道真(すがわらのみちざね)がいました。
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897年、宇多天皇は実子で母が藤原冬嗣の血を引く醍醐(だいご)天皇に譲位されましたが、宇多上皇は醍醐天皇に菅原道真を引き続き重用するよう強く求められました。そして899年、道真はついに右大臣となり、同時に左大臣となった藤原時平と肩を並べることになりました。
「このままでは、道真率いる菅原氏によって、藤原氏が築いてきた栄光を乗っ取られてしまう」。焦った時平は、901年に醍醐天皇に対して「道真が自分の娘婿(むすめむこ)である斎世(ときよ)親王を皇位に就(つ)けようとしている」というデタラメな密告をしました。
この讒言(ざんげん、他人をおとしいれるために事実でないことを告げ口すること)を信用された醍醐天皇は、道真を北九州の大宰府(だざいふ)の役職である大宰権帥(だざいごんのそち)へと左遷(させん)されました。この事件は「昌泰(しょうたい)の変」と呼ばれています。2年後の903年、道真は左遷先の大宰府で失意のうちに亡くなりましたが、この事件がやがて我が国全体を揺るがす大騒動へと発展することになるとは、当時の誰もが予想できないことでした。
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ぴーち こんばんは!
なるほど。。
人の心の弱さが巻き起こす因果は
最終的には自分で自分の首を締める
ことになるかも知れないという
結末が隠されている気がしてなりません(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
当時ではまさに「因果応報」としか思えない出来事が立て続けに起きてしまいました。
詳しくは次回の更新をご覧ください。
当時は全国的に天災や疫病(えきびょう)が立て続けに発生しており、これらの不幸が道真の怨霊(おんりょう)によって起きたと判断された醍醐天皇は、923年に道真の左遷を取り消され、生前と同じ右大臣の地位を追贈(後の993年にはさらに太政大臣を追贈)されました。
しかし、その後の930年に、平安京の清涼殿(せいりょうでん)に落雷が発生して炎上し、かつて左遷後の道真の動きを監視していた役人を含めて、多数の死傷者が出てしまったのです。
ご自身の居所で発生した惨劇に強い衝撃を受けられた醍醐天皇は体調を崩され、落雷から数ヶ月後に子の朱雀(すざく)天皇に譲位されると、程なく崩御されました。「道真公の怨霊が天皇の御生命まで奪った」。恐怖におびえた当時の人々は、道真の怨霊を鎮(しず)めるのに躍起(やっき)になりました。
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ぴーち こんばんは!
悪業が積もり積もって
一気に堰を切ったように溢れでてしまった
感が有りますね。
怨霊のせい・・と考えれば、ある意味
気が楽ですが、
あくまでも自分自身の行いが招いた
因果だと気がつくことが大切だとは思いますが・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 まさしく仰るとおりですね。
当時は怨霊信仰が本格化しておりましたから、因果応報に気付いていたかどうかは定かではありませんが…。
落雷を起こしたことから、道真は雷の神であった火雷天神(からいてんじん)と同一視され、やがて「天神様」と称されました。また、「雷神となった道真公の怨霊が天に満ちた」ことから、道真を祀った社(やしろ)は「天満宮(てんまんぐう)」と称されるようになり、先述の社も、後世には太宰府天満宮や北野天満宮などと呼ばれるようになりました。
やがて時代が下り、怨霊から穏やかな御霊(みたま)へと変化した道真に対して、人々は自然と信仰心を抱くようになり、江戸時代の頃には、道真が生前に著名な学者や歌人であったことから「学問の神様」として信仰されるようになりました。
菅原道真公をめぐる「天神信仰」は、21世紀の現代においても国民から絶大なる支持を受けているのです。
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ぴーち こんばんは!
そうですね。
人間が人間だった人を祀ると
後世の人々の思惑が付属されていくので
次第に変化してしまいますよね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
天神様として祀られていることを、泉下の道真公はどう思われておられるのでしょうか。
他の勢力を排除したことで、権力をほしいままにした藤原氏を待ち受けていたのは、同じ一族による骨肉の争いでした。特に有名なのは、藤原兼通(ふじわらのかねみち)と藤原兼家(ふじわらのかねいえ)との兄弟同士の対決や、甥(おい)の藤原伊周(ふじわらのこれちか)と叔父(おじ)の藤原道長(ふじわらのみちなが)との争いでしたが、これらの戦いを最終的に勝ち抜いた人物こそが藤原道長だったのです。
道長は4人の娘を天皇の后(きさき)として自らは摂政となり、約30年にわたって権力を握り続けました。彼が絶頂の頃に詠(よ)んだとされる「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という歌はあまりにも有名ですね。
道長によって全盛期を迎えた藤原氏の権力は、子の藤原頼通(ふじわらのよりみち)にそのまま引き継がれました。始めは摂政、やがて関白となった頼通は、約50年に渡って政治の実権を握り続けました。このように10世紀後半から11世紀後半にかけて、藤原氏が摂政や関白を独占して行った政治のことを摂関政治といい、摂政や関白を出した家柄のことを摂関家といいます。
それにしても、摂関家はなぜここまで繁栄することができたのでしょうか。その背景には、土地に関する当時の様々な問題がありました。
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ぴーち こんばんは!
確かに
他に敵が居なくなれば
最終的には内輪揉めで
淘汰されていくものですよね。
土地の問題ですか・・
土地の持ち主には強みがある
という話でしょうかね?
オバrev 他の勢力を潰した後は、骨肉の争いですか┐(´д`)┌ヤレヤレ
人間、権力持つと、更にその権力を強大なものにしたくなるんかねぇ。権力欲ってのは本能なんだろうか?
それにしても、何故藤原氏がこんなに長い間権力を思うままに出来たのか不思議でなりません。
おそらく、それを維持するバックがあったはずですが・・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 まさに仰るとおりであり、内輪もめの形式になりますよね。
土地に関する問題を理解することで、藤原氏やその後の権力者の裏事情が見えてきます。詳しくは次回以降の更新をご覧ください。
オバrevさんへ
黒田裕樹 権力欲は、仰るとおり人間の本能ですが、それを満たすには経済的な事情が必須です。
「維持するバック」の巧みさを、ぜひご覧ください。