また765年には、それまでの墾田永年私財法によって過熱していた私有地の拡大を防ぐために、寺社を除く墾田の私有を禁止しました。この禁止令は、率先して墾田開発を推し進めていた藤原氏に対して、特に大きな打撃を与えました。
ところで、称徳天皇は、母の一族である藤原氏による政治の専横や、それを黙認した淳仁天皇などの皇族に対して、冷ややかな目で見ておられましたが、かといって、ご自身の子孫に天皇の地位を譲ることもできませんでした。なぜなら、称徳天皇は生涯独身でいらっしゃったからです。
実は、女性天皇には「結婚してはならない」という不文律(ふぶんりつ、文章として成り立っていないが、暗黙のうちに守られている約束事のこと)がありました。
21世紀の現代ならばともかく、当時の女性は男性によって「支配される」ことが一般的でした。ということは、仮に女性天皇に夫君(ふくん)がおられる場合には、「天皇」を支配する「天皇」が存在することになり、律令政治に支障が出ると考えられていたのです。
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ぴーち こんばんは!
女性が天皇になるという
条件にはなかなか大変なものがあるのですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
明治以降の皇室典範で、天皇は男性のみとされた理由もここにあるかと思われます。
ちょうどそのとき、769年に北九州の大宰府から「道鏡が天皇の位につけば天下は太平になる」との宇佐八幡宮(うさまちまんぐう、大分県宇佐市)からの神託(しんたく、神からのお告げのこと)があったとの報告がありました。
称徳天皇は大いに喜ばれ、その真偽を和気清麻呂(わけのきよまろ)に確認させました。しかし、和気清麻呂は、称徳天皇のご期待に反して「皇位は神武(じんむ)天皇以来の皇統が継承すべきである」との神託を持ち帰りました。
称徳天皇の逆鱗(げきりん)に触れた和気清麻呂は、名前を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と無理やり改名させられたうえ、大隅(おおすみ、現在の鹿児島県)に追放されてしまいました。これを「宇佐八幡宮神託事件」といいます。
道鏡への皇位継承の夢が破れた称徳天皇は、そのショックが尾を引かれたのか、やがて重い病となられ、770年に53歳で崩御されました。称徳天皇の崩御によって後ろ盾をなくした道鏡は、下野(しもつけ、現在の栃木県)に追放となり、その地で亡くなりました。
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オバrev カープ、また逆転勝ち~!順調にマジックが減っています(*^_^*)
安心は出来ないけど、恐らく25年ぶりの優勝はほぼ間違いないでしょう。
本題ですが、以前から疑問に思っていたのですが、この道鏡に男系天皇としての資格はあったんでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 カープファンとして、今年の大活躍は嬉しい限りですね。大目標まであと少しです(^◇^)
道鏡は神武天皇の血を引いていませんので、男系天皇としての資格はありません。
この時が、皇統継続の最大の危機であったともいえるでしょう。
光仁天皇はもちろん皇室の血を引いておられましたが、実は天智天皇の孫にあたられました。壬申(じんしん)の乱以来、天武系で占められていた天皇の地位が、約100年ぶりに天智系に復帰したことになります。なお、天智天皇の血統は、現代の皇室にも受け継がれておられます。
光仁天皇は、白壁王の時代に他の皇族が権力闘争で次々と生命を落としていくのを横目にしながら、自らは飲酒を続けて野心のないことをアピールし続けていたという苦労されたご経験の持ち主で、ご即位されたときには既に62歳になっておられました。
こうした経緯もあったことから、感謝のお気持ちを持たれた光仁天皇は、藤原百川や藤原永手など藤原氏の一族を重く用いられ、以後は光仁天皇とその信任を受けた藤原氏によって、律令政治の再建が目指されました。なお、藤原百川は四兄弟の宇合(うまかい)の子で、藤原永手は房前(ふささき)の子にあたります。
こうして、100年にも満たない短い間に繰り広げられた勢力争いは、最終的には藤原氏の手に引き継がれ、以後も藤原氏は政治に積極的に関わっていくことになるのです。ちなみに、称徳天皇と道鏡が禁止した墾田の私有は、光仁天皇のご即位後に再開されています。また、仏教勢力を排除する傾向は、やがて迎える「新たな時代」に向けての大きな流れのひとつとなったのでした。
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ぴーち こんばんは!
光仁天皇。
まるで赤穂浪士の討ち入りの
大石内蔵助の様みたいですね(^_^;)
もっとも、時代はそれよりも
随分前の話でしょうから、内蔵助のほうが
真似たのかもw
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、言われてみれば…ですね。
900年以上の時を超えたロマンがあったのかもしれません。
俗説として一般的に有名なのは、「称徳天皇は、始めのうちは藤原仲麻呂と愛人関係にあったが、自分の病を治してくれた道鏡とも関係を持つようになり、振られた仲麻呂が腹いせに乱を起こしたが滅ぼされ、その後は称徳天皇の愛を一身に受けた道鏡が天皇になろうという野心を持った」というものですが、私はこのような話は「有り得ない」と考えます。
まず、称徳天皇と藤原仲麻呂の関係ですが、これまでに書いたように、両者はむしろ対立関係にありました。藤原仲麻呂は光明皇太后の信任を得ることによって、称徳天皇を差し置いて政治の実権を独占していたからです。
その後、専横を強めた仲麻呂改め恵美押勝が、新羅征討まで試みるようになったことに対して、亡国の危機を救うために称徳天皇が立ち上がられ、政界に復帰したというのが本来の姿です。また、称徳天皇と道鏡の関係についても、当時の「常識」として有り得ません。なぜそのように断定できるのでしょうか。
当時の我が国の仏教で不足していたのは「戒律」であり、それを補うために、唐の高僧であった鑑真が来日したのは先述したとおりですが、戒律の中でもっとも重要なもののひとつに「異性と通じてはならない」というのがあります。
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ぴーち 称徳天皇の俗説については
私は今回初めて伺いました。
あくまで私の勝手な推測ですが
女性天皇ということで
当時としても
かなりの注目を集めていたと思うのです。
そんな中、面白可笑しく話をでっち上げる
輩は必ず出てくるものと思います。
今で言うとマスコミが有る事無い事
話を作り、そうして作られた架空の人物像だけが一人歩きしてしまい、それが定説となってしまう
ことが当時も起こったのではないかと
思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんのお考えは果たして的を射ておられるでしょうか。
次回にその結論を述べます。
それに、称徳天皇が崩御された後に、道鏡は下野に追放されていますが、もし彼が称徳天皇と愛人関係になっていれば、ここぞとばかりに戒律を破った罪で彼の僧籍を剥奪(はくだつ)するか、場合によっては殺害されてもおかしくないのに、現実には彼は僧のままこの世を去っているのです。
加えて、先述したように「道鏡が天皇になろうとした」のではなく、「称徳天皇が道鏡を天皇後継に指名された」のが正しい表現ですし、また称徳天皇にしても、もし男性と深い関係におちいるような女性であれば、当時の我が国の風潮として、いかに実力があったとしても、称徳天皇として重祚(ちょうそ)されることや、寺社を除く墾田の私有を禁止するという思い切った政治などを、天皇の周囲が許すことは決してなかったでしょう。
では、なぜ後世にこのような「伝説」が残されてしまったのでしょうか。考えられる理由のひとつとしては、称徳天皇と道鏡が「藤原氏に対抗する勢力」であったことです。
時代の勝者となった藤原氏にとって、仏教勢力を背景に墾田の私有を禁じた政治を行った二人は「敵」であり、悪役として印象づけるために、二人の間に「そういう関係」があることを暗示したのがきっかけではないかと推定されています。
歴史は正しく伝えられ、かつ評価されるのが大前提ですが、時代の勝者によって筆が書き換えられることは、現代でもよくある話です。私たちは歴史を学ぶ際に、当時の背景や勢力争いなどに加えて、歴史の大きな流れを慎重に見極めながら、真実を導き出していきたいものですね。
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ぴーち こんばんは!
なるほど、
時代の勝者によって
捏造されてしまった話でしたか。
それでも嘘偽りで固められた話というのは
メッキと同じで
いづれはその真実を知ることが可能になるのでしょうね。
勿論、そのメッキを剥がそうという人物が居て
その思いが
あればこそでしょうけれど。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
歴史の真実を追求する、という強い意志がなければ、外国によって「つくられた歴史」が、我が国の教科書にも載るようになってしまいます。