この結果、政治の実権は藤原仲麻呂が握るようになり、仲麻呂は自分のライバルを次々と倒していきました。755年には、朝廷を誹謗(ひぼう、悪口を言うこと)したという密告によって、橘諸兄に左大臣を辞職させました。また757年には皇太子であった道祖王(ふなどおう)をその地位から引きずり下ろし、仲麻呂の長男の未亡人と結婚させた大炊王(おおいおう)を皇太子に立てました。
これらの動きに反発した、橘諸兄の子である橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が、同じ757年に仲麻呂を除こうと反乱を企(くわだ)てましたが、事前に発覚して失敗しました。この事件を「橘奈良麻呂の乱」といいます。かくして、自分に不満を持つ政敵を一掃することに成功した仲麻呂は、ますます自己の権力を高めていきました。
その後、758年に孝謙天皇が退位され、仲麻呂と縁の深い大炊王が淳仁(じゅんにん)天皇として即位されると、淳仁天皇は仲麻呂に対して、貨幣の鋳造権や税の徴収権とともに、新たに「恵美押勝(えみのおしかつ)」の名を与えられました。
天皇に準ずる権力をもつことになった恵美押勝は、朝廷の官職を中国風に改め、自らは太政大臣(だじょうだいじん)に相当する大師(たいし)に、皇族以外で初めて就任しました。
※下記の映像は8月25日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
藤原氏の野望の強さを伺わせる
お話ですね。
人は自分の目的を果たす為なら
なんでもするものなんですね(^_^;)
勿論、その逆に心が働けば
世のため人の為になれたものを・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
この後も、奈良時代は藤原氏の因果応報が続きます。
630年に舒明(じょめい)天皇が始められた遣唐使(けんとうし)は、一時期の中断を経て702年に復活すると、894年に廃止されるまで長く続けられました。
大陸の政治制度や文化を学ぶために、多くの留学生が唐へ渡りましたが、造船や航海技術が未熟であった当時は、遣唐使による航海は命がけであり、中には帰国できずに、そのまま唐で生涯を終えた留学生もいました。
717年に吉備真備(きびのまきび)らが入唐(にっとう)した際、彼らに同行していた阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は、唐の超難関の試験である科挙(かきょ)に合格し、後に唐の高い役職を歴任しました。詩人の李白(りはく)と親交を持ち、また唐の皇帝の玄宗(げんそう)の厚い信任を得ましたが、才能が高かったゆえに、皇帝がなかなか仲麻呂の帰国を許しませんでした。
※下記の映像は8月25日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
遣唐使の中断や廃止は
帰国出来ない者が居たために
そのような措置が取られたのですか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 遣唐使の中断は、唐・新羅の連合軍と白村江の戦いで我が国が敗れた後、新羅との国交回復を優先したために、唐との関係が一時的に断絶したのが主な理由です。また、遣唐使の廃止は、唐の政情不安によって、危険な航海を伴ってまで留学する必要性がなくなったからです。
命からがら長安まで戻った仲麻呂は、その後もついに帰国することなく、770年に唐で73歳の生涯を閉じました。
そんな彼が残した望郷の和歌は、小倉百人一首にも取り上げられ、長く我が国で知られています。
「天(あま)の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠(みかさ)の山に いでし月かも」
ところで、阿倍仲麻呂が帰国しようとして失敗に終わった際に、別の船に乗っていたため、無事に我が国にたどりついた唐の高僧がいました。鑑真(がんじん)のことです。
※下記の映像は8月25日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
しかし、鑑真のような高僧が日本へ渡るということは、大変な苦難を伴いました。弟子たちの密告などによってことごとく失敗し、ようやく船に乗ったと思ったら、嵐にあって難破してしまいました。
5度にわたる渡日に失敗するうちに、鑑真の両目は失明状態になったと伝えられています。
752年に遣唐大使の藤原清河らが来唐し、翌年に帰国する際に、鑑真は船に同乗させてくれるよう依頼しましたが、渡日を許さない玄宗皇帝の意を受けた藤原清河は、これを拒否しました。
しかし、副使の大伴古麻呂(おおとものこまろ)の機転で、密かに別の船に乗ることができた鑑真は、清河と阿倍仲麻呂を乗せた船が難破した一方で、無事に我が国にたどり着き、ついに悲願の渡日を果たしました。
※下記の映像は8月25日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
ちなみに、彼の死後に造られた彫像(ちょうぞう)は、我が国最初の肖像彫刻(しょうぞうちょうこく)とされています。
余談ですが、大伴古麻呂は唐における753年の新年の儀式の際に、我が国の席次が新羅(しらぎ)より下になっていることに対して猛烈に抗議し、結果的に席次を入れ替えさせたというエピソードが残っています。
席次の件といい、また鑑真を密かに渡日させたことといい、気骨(きこつ)ある人物でなければ外交官は務まらないのは、今も昔も同じなのかもしれませんね。
※下記の映像は8月25日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
鑑真の彫刻は
確かに盲目の状態で残されていますよね。
鑑真は、今で言えば
外交官の役割と同等だったのですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。鑑真が我が国に遺した功績は計り知れないと思います。
しかし、この政策は、仮に新羅征討に成功したとしても、やがて勢力を立て直した唐によって巻き返されるのは必至なうえに、我が国が唐に攻め込まれる口実を与えてしまいかねないという、極めて危険なものであったことから、およそ100年前に起きた白村江(はくすきのえ)の悲劇をまた繰り返すのか、と恵美押勝に対する批判の声が次第に高まりました。
こうした中で、最大の後ろ盾であった光明皇太后が760年に死去され、さらには病に倒れられた孝謙上皇(上皇=じょうこうとは「退位された天皇」という意味)が、僧の道鏡(どうきょう)の祈祷(きとう)によって健康を回復されると、上皇が次第に影響力を高められた一方で、恵美押勝の勢力が急速に衰えていきました。
あせった恵美押勝は、道鏡を追放して孝謙上皇の権力を抑えようと764年に反乱を計画しましたが、未然に発覚し、逆に攻められて滅ぼされました。また、恵美押勝と関係の深かった淳仁天皇は孝謙上皇によって廃位となり、淡路(あわじ、現在の兵庫県淡路島)に追放されました。これらの事件を「恵美押勝の乱」といいます。
天皇の位には、孝謙上皇が重祚(ちょうそ)され、称徳(しょうとく)天皇となられました。なお、淳仁天皇は称徳天皇によって崩御後も贈り名を与えられず、長らく「淡路廃帝(あわじはいたい)」と呼ばれました。「淳仁天皇」と追号されたのは、明治になってからのことです。
※下記の映像は8月25日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。