藤原四兄弟も同時に昇進し、再び藤原氏が政治の実権を握ることになりました。四兄弟は、武智麻呂が南家(なんけ)、房前が北家(ほっけ)、宇合が式家(しきけ)、麻呂が京家(きょうけ)のそれぞれの始祖(しそ)となりました。
まさに我が世の春を迎えた四兄弟でしたが、その繁栄は長くは続きませんでした。彼らには過酷な運命が待っていたのです。
737年、九州地方から発生した疫病(えきびょう)である天然痘(てんねんとう)が、都の平城京でも大流行しました。藤原四兄弟も相次いで天然痘にかかり、何と全員がそろって病死してしまったのです。あまりの凶事(きょうじ)、そしてあまりの偶然に、当時の朝廷では「長屋王のタタリが起こった」と恐怖におびえました。
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ぴーち こんばんは!
そうですね
この場合は、民衆は「祟り」だと思うでしょうけれど、
藤原四兄弟の死は
「悪因悪果」の現証そのものだったのでは無いでしょうか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、そういう見方もあり得ますね。
当時の朝廷では「長屋王のタタリ」と大問題になったようですが…。
橘諸兄は、唐から帰国した留学生の吉備真備(きびのまきび)や玄ボウ(げんぼう・※注)を重用しましたが、これに反発した、藤原四兄弟の宇合(うまかい)の子である藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が、740年に北九州の大宰府(だざいふ)で大規模な反乱を起こしました。これを「藤原広嗣の乱」といいます。
乱自体は間もなく平定されたものの、相次ぐ凶事や政情不安に動揺された聖武天皇は、この後、平城京から山背国相楽郡(やましろのくにそうらくぐん、現在の京都府木津川市)の恭仁京(くにきょう)、摂津国難波(せっつのくになにわ、現在の大阪市中央区)の難波宮(なにわのみや)、近江国甲賀郡(おうみのくにこうかぐん、現在の滋賀県甲賀市信楽町)の紫香楽宮(しがらきのみや)と相次いで都を遷(うつ)されました。
そして、長屋王のタタリを鎮(しず)め、政情不安をなくすためには、仏教への信仰を深めることが大切と考えられた聖武天皇は、仏教に国家を守る力があるとする鎮護国家(ちんごこっか)の思想のもとに、仏教の興隆を政策の最重要課題とされました。
※注:玄ボウの「ボウ」の字は正しくは「日+方」ですが、機種依存文字のためにカタカナで表記しています。
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オバrev この話は、私が大学受験(理系です)の時は知りませんでした(・・・40年以上前ですが)が、子供の受験で初めて知りました(゜o゜;
藤原広嗣の乱って、昔から有名だったんですかね・
オバrevさんへ
黒田裕樹 藤原広嗣の乱は結構有名ですよ。
乱の減員も、乱がもたらした影響も、すべてつながっていますからね。そう考えれば結構重要な事実です。
次いで743年には、大仏の造立(ぞうりゅう)によって我が国の平安を築こうとする壮大な計画の下に、大仏造立の詔が出されました。
当初は紫香楽宮で計画が進められた金銅仏(こんどうぶつ)の造立は、745年に平城京に都が戻ると、場所を移して再開されました。
8世紀当時の最新の技術によって造られた大仏は、約10年の歳月を費やして752年にようやく完成し、東大寺(とうだいじ)で僧侶(そうりょ)1万人が参列した盛大な開眼供養(かいげんくよう)が行われました。
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ぴーち こんばんは!
東大寺は華厳宗=天台宗の管轄ですね。
建立された時代にはまだ力を成していた宗派でも
時代が移り変わり、色々な邪教がそこへ
入り込んでしまった事は残念な結末です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに宗派は時代によって変化しますからね。
色々なことが起きています。
朝廷は行基に対して、当初は厳しい姿勢で臨みましたが後に和解し、大仏造立の際には僧侶の最高職である大僧正(だいそうじょう)に任命しました。行基は大仏造立に積極的に関わったとされていますが、惜しくも大仏完成前の749年に死去しています。
ところで、橘諸兄が政権を担当していた頃には、もう一つの大きな出来事がありました。大仏造立の詔が出された743年に「墾田永年私財法」が発布されたのです。先述のとおり、三世一身法が施行されて約20年が経過し、開墾した世代が交替する頃に、身分に応じた一定の面積の開墾した田地(でんち)を無期限に所有できることとなりました。
これによって、田地の数はようやく増加しましたが、私有地の拡大も同時に進み、公地公民制の根本を揺るがすという結果を招いてしまいました。なお、有力な貴族や東大寺などの大寺院は、地方の豪族らの協力のもとに、広大な山林や原野の開墾を進め、私有地を拡大していきました。これを初期荘園(しょきしょうえん)といいます。
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ぴーち こんばんは!
私にはよく分かりませんが
私有地化することのデメリットの一つに
現代では山林を保持することが出来なくなった
個々人が外国人に(特に中国)荒れ果てた山林の土地を売却してしまうケースが見られるように
国が管理運営していれば、見す見す外国人の手に
委ねなくても済むのにと思うんですよね
現代とこの当時の問題はまた違うのでしょうけれど。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、当時とは全く逆の現象が起きていることになりますね。
ぴーちさんの仰るとおりだと私も思います。