この時代の大きな特徴といえば、何といっても大仏の造立(ぞうりゅう)であり、他にも三世一身法(さんぜいっしんほう)や墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)によって、それまでの公地公民制が崩れ、荘園が発達するきっかけがつくられたことも有名です。
しかし、奈良時代には私たちが知らされていない「もう一つの顔」があることをご存知でしょうか。実は、この時代は「政治の実権を握った者」が目まぐるしく移動しており、はっきり分かるだけで「6回」も交代しているのです。
わずか80余年の短い間に、なぜそれだけ頻繁(ひんぱん)に替わったのでしょうか。そのカギを握るのは、政権を担当した者が「藤原氏」か、あるいは「非藤原氏」か、ということでした。
※下記の映像は8月15日までの掲載分をまとめたものです。
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659年に生まれた不比等は、幼い頃に父である鎌足を亡くしましたが、成年後は着実に出世を重ね、701年に大宝律令(たいほうりつりょう)、718年には養老律令(ようろうりつりょう)の編纂(へんさん)事業に携(たずさ)わるなど、朝廷からの厚い信任を得ました。
当時の朝廷では、707年に文武(もんむ)天皇が崩御されると、その後は文武天皇の母親で、天智(てんじ)天皇の娘でもある元明(げんめい)天皇と、元明天皇の娘で文武天皇の妹でもあり、皇室の血を引く元正(げんしょう)天皇の二人の女性天皇が相次(あいつ)いで即位されました。
女性天皇がしばらく続いたことは、結果として不比等の存在を朝廷内で大きくしました。さらに不比等は、娘の藤原宮子(ふじわらのみやこ)を文武天皇に嫁(とつ)がせると、二人の間に産まれた首皇子(おびとのみこ)に、自分の娘で宮子の異母妹(いぼまい、母親のちがう妹のこと)にあたる藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)をさらに嫁がせて、皇室と密接な関係を築きました。
こうして不比等は、自分の血を引く娘を皇室に嫁がせることで自らの地位を固めるという、かつての蘇我氏(そがし)と同じ方法で政治の実権を握ることに成功したのです。
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ぴーち こんばんは!
先日、天皇が「お気持ち」を著され
それに伴い、皇太子不在問題、先々
女性天皇に関する問題が挙げられていますよね。
素朴な疑問で恐縮ですが、
この頃の時代には女性天皇が存在したという事ですが、
現代になって女性が天皇に即位することに
どのような問題が起こるのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 我が国における女性天皇は、いずれも神武天皇の直系にあたる「男系の女性天皇」です。これに対し、現状では「女系天皇」とわざと混同させ、皇統をないがしろにする勢力も存在します。
また、女性天皇は、本来は男性の天皇が即位されるまでの「中継ぎ」というお立場が多く、ご自身にも様々な不文律があります。そのあたりについては、いずれ今回の講座で詳しく紹介します。
長屋王が政治を担当した当時は、人口の増加で口分田(くぶんでん)が不足し、公地公民制の基礎が揺(ゆ)らいでいました。このため、長屋王は722年に「百万町歩(ひゃくまんちょうぶ)の開墾(かいこん)計画」を立てましたが、文字どおりの「計画倒れ」に終わってしまいました。
なぜなら、計画を立てたところで、そのメリットがなければ行動に移そうとしないのが人間というものだからです。このため、長屋王は翌723年に「三世一身法(さんぜいっしんほう)」を出しました。
これは、新たに灌漑(かんがい)施設を設けて未開地を開墾した場合は三世(さんぜ)にわたり、旧来の灌漑用地を再開発した場合は本人一代を限りに、田地(でんち)の保有を認めるというものでしたが、それでも開墾はなかなか進みませんでした。
確かに自分の代や三世の間は所有が認められますが、いずれは国に返還しなければならないことを考えると、どうしても二の足を踏んでしまうからです。自分が汗水たらして開墾した土地は、自分や子孫のものとしたいのが人情でもあり、この問題は、新たに開墾した世代が次へと交替し始める約20年後に、再び大きくクローズアップされることになります。
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ぴーち おはようございます!
確かにそうかもしれませんね。
税金だとて、自分が汗水垂らして稼いだ収入の一分をどうして国に納めなければならないんだ?とボヤいている声を聞いた事が有りますが(^_^;)
直接声に出すか出さないかで
多かれ少なかれ心の中ではそう思う人が
大半なのでは無いでしょうか
それでもそれが義務化されているからこそ
渋々ながらも皆納めなければならないと思って
国民として当たり前だと言い聞かせて
納めてはいるでしょうけれど
(国の為に役立ててください!誰かの為に
使ってください!と心から願う人も
勿論いらっしゃるでしょうけれど)
それでも、今回のお話の様に
将来に向けて自分の利益が見えないものには
どうしても不満を感じてしまうのは
無理もない話ですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
奈良時代の税法も、こういった「人間臭さ」で考えれば、おのずと流れが見えてきますね。
巻き返しを図りたい藤原四兄弟の武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)は、聖武天皇の后(きさき)であり、自分らの妹でもある光明子を皇后(こうごう)にしようと計画しました。
皇后は天皇の代わりに政治が行えるほか、場合によっては自らが天皇として即位できるという大変重い地位でした。しかし、律令では「皇后は皇族に限る」と明記されており、藤原氏出身の光明子が皇后になれる資格はなく、長屋王もそれを理由に四兄弟の願いを退けました。
このこともあって、長屋王と藤原四兄弟との仲は次第に険悪になっていきましたが、そんな折にとんでもない事件が起こってしまうのです。
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ぴーち こんばんは!
確かに
どんなに由緒正しいお家柄であっても
皇族でなければ皇后にはなれないというのは
根本的に超えられない壁が
存在する限り、手も足も出せませんね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 常識で考えれば、まさに仰るとおりです。
ところが、その常識が覆される日がやってくるのも、歴史の何とも言えないところでもありますね。
詳しくは後日改めて紹介いたします。
ところが、翌728年に、皇子は1歳足らずで亡くなってしまったのです。聖武天皇や光明子、さらには四兄弟にとっても大きなショックでしたが、四兄弟は不幸を逆手(さかて)にとっての大きな陰謀を計画しました。
悲しみに打ちひしがれた聖武天皇に対して「皇子が亡くなられたのは、長屋王がそうなるように呪ったからだ」と事実無根の噂(うわさ)を広めたのです。我が子を亡くして精神的に弱られていた聖武天皇は、この讒言(ざんげん、他人をおとしいれるために事実でないことを告げ口すること)を信用されてしまいました。
729年2月、天皇に対する反逆の罪で邸宅を軍勢に取り囲まれた長屋王は、自らの無実を訴えましたが、結局は一族とともに自殺しました。この事件を「長屋王の変」といいます。
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ぴーち こんばんは!
何時の世でも悪巧みを考える人は
まるでオセロの様に周りの人間を
自分の考えと同じ色に
染めて、包囲していくものですね・・
けれど、惜しいことに
長屋王には最後まで戦って貰いたかったですね。
諦めが早過ぎます・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > けれど、惜しいことに
> 長屋王には最後まで戦って貰いたかったですね。
> 諦めが早過ぎます・・
確かにそうでしたね。ところが、そう簡単に終わらないのが、歴史の大きな闇でもあります。詳しくは次回の更新をご覧ください。