私たちが「唱歌」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、いわゆる「文部省唱歌(もんぶしょうしょうか)」といわれる歌の数々ですが、それらは明治末期から編集された「尋常小学読本唱歌(じんじょうしょうがくとくほんしょうか)」や、あるいは「尋常小学唱歌(じんじょうしょうがくしょうか)」に代表されるものが有名ですね。
しかし、唱歌はそれらばかりではなく、例えば「鉄道唱歌」のように学校とは無関係のものも親しまれていますし、また、いわゆる軍歌も「戦時唱歌」と言い換えられることもあることから、唱歌の一種であると考えることができます。
つまり、真面目な、そして広い意味で教育的な目的でつくられた歌が唱歌であるといえ、その点では、明治期につくられた「紀元節」や「天長節」、あるいは旧制高校の寮歌やキリスト教の讃美歌(さんびか)も、唱歌と同類であるといえるのです。
※下記の映像は8月23日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
私が卒業した高校はキリスト系の高校でした。
ですので、朝礼の際には「賛美歌」を
歌わされたものです。
私自身は仏教徒ですので
実生活にはほとんど活用する事は有りませんが、
それでも一音楽としては、美しい旋律に惹かれましたね・・
クリスマスソングなどは日常でも
平気で歌わせていただいてますがw
万里ママ 唱歌、いいですよね^^
今なお歌い継がれていく形で
残っている数々の歌には、
やはり、良いメロディーと
印象に残る歌詞があります。
同類の歌にも、口ずさみやすくて
良い物が多く、古き良き日本の象徴ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私もミッション系の高校でしたので、賛美歌は良く歌いました。
厳かな雰囲気の歌は、やはり唱歌らしさを感じます。
万理ママさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
唱歌が廃れていくのは寂しいし、またもったいないですが、だからこそ、一度は歴史をじっくり振り返るべきだと思います。
明治5(1872)年、明治新政府によって学制が公布され、その際に小中学校における音楽教育も規定されましたが、具体的には何の準備もできていませんでした。
その後、明治12(1879)年に文部省(現在の文部科学省)に音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)が設立され、アメリカ留学帰りの伊沢修二(いさわしゅうじ)が御用掛(ごようがかり)に任命されました。
伊沢は、アメリカの音楽教育家であったメーソンを我が国に招き、音楽教員の育成方法や教育プログラムの開発を行うとともに、我が国初の官制唱歌である「小学唱歌集」を明治14(1881)年から17(1884)年にかけて、3編に分けて発表しました。
※下記の映像は8月23日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
何事も付け焼き刃で制定された
ものは、余り成功した事はないようですが、
この場合は、どんな行く末を辿ったのでしょうか・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かに一般的にはそのようなイメージが強いですよね。
小学唱歌集の場合は、意外な事実が発覚するかもしれません。
また、歌詞の流れも我が国古来の万葉集(まんようしゅう)にさかのぼる、「五・七・五」からくる「七五調」のリズミカルな旋律が多かったため、小学唱歌集は多くの日本人に親しまれるとともに、掲載された歌の多くが、その後に発表された官制あるいは民間の唱歌集に受け継がれました。
さらには、「見渡せば(むすんでひらいて)」「蝶々」「螢の光」「仰げば尊し」「庭の千草」のように、歌集に収められた曲の一部は、現在もなお歌い継がれているのです。
なお、スコットランド民謡の名曲である「アニーローリー」もこの歌集に収められていますが、歌詞が紫式部(むらさきしきぶ)と清少納言(せいしょうなごん)を称える「才女」となっています。
※下記の映像は8月23日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
確かに日本語と言うのは、多種多様なので
どんな言い方にも変えることが出来るので
便利といえば便利ですよね。
よく聞かれる話で、外国映画の日本語吹き替えを
する際に、口の開き方を見て、その言葉の意味と
ほぼ同じような意味の日本語をピッタリと入れてしまうのが得意なのは日本語であるが故の芸当だと言いますもんね!
アニー・ローリーはあの才女達がモデルになっていたとは、驚きました!
初代リカちゃん人形が当時の正統派アイドル「酒井和歌子」さんと「吉永小百合」さんのいいとこ取り
だという事に似ているような(全く比較にならないですね(^^ゞすみません。。)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 外国由来の曲が、ここまでピッタリはまるのは偶然を超えて何かを感じますよね。しかも100年以上も愛されているんですから。
アニーローリーは愛情がこもった歌ですが、才女を称えるというのがいかにも日本らしいです(笑)。
また、明治34(1901)年に東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)から発行された、官制唱歌の「中学唱歌」では、日本人の作詞・作曲の意欲の向上のために、あらかじめつくられた歌詞に対する作曲を懸賞募集としましたが、これに見事当選したのが滝廉太郎(たきれんたろう)であり、「箱根八里」や「荒城の月」などが収められています。
その後、音楽の進歩発展ぶりや、それに比して民間唱歌が乱発行されているのを憂慮(ゆうりょ)した文部省が、「日本人の子供を教育する唱歌は日本人の作詞・作曲によるべきである」として、当時の「尋常小学読本(じんじょうしょうがくとくほん)」の中に出ていた詩に日本人が作曲したものを中心に、「尋常小学読本唱歌」が明治43(1910)年に発表されました。
「尋常小学読本唱歌」の中では、「ツキ(お月さま)」「ふじの山」「春が来た」「虫のこえ」「水師営の会見」「われは海の子」などが現在も有名です。
※下記の映像は8月23日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんにちは!
滝廉太郎氏の曲は良いですね~
私は「荒城の月」も好きですが、「花」も
好きです。
歌詞を辿っていると、そこに確かに春の情景が
浮かんで来ますものね^^
話は逸れますが
最近のアニメなどは
殺伐としたものか、あるいは
逆に短絡的でその場限りの笑いを誘う内容の
ものが多く、一昔前の様に、世界名作劇場やら
日本の昔話の様な情操性がある
内容のものを放送してくれないかなと
息子がボヤいていたのを
ふと思い出しました(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
我が国らしい昔の情緒ある風景を、私たちの世代で取り戻すべきです。そのためにも唱歌の復活が望まれます。
「尋常小学読本唱歌」に収められた歌をすべて取り込んだほか、1学年ごとに20曲の合計120曲がすべて日本人の作詞・作曲によるものであった「尋常小学唱歌」は、まさに明治初期以来の「唱歌教育」の賜物(たまもの)といえました。
その一方で、「尋常小学唱歌」に収録された曲のほとんどが、先述した「ヨナヌキ音階」であったほか、曲全体が「起承転結」など行儀(ぎょうぎ)よく整っており、終止音も「ド」あるいは「ラ」と判で押したように同じとなった単調さが、もう一つの大きな特徴でもありました。
また、これは「尋常小学読本唱歌」も同様ですが、「尋常小学唱歌」は文部省が東京音楽学校に編纂を依頼し、当時の東京音楽学校に依頼して編纂委員会を組織させ、音楽学校の教授を中心に構成された編纂委員が合議して作詞・作曲されたものでした。
このため、著作権は文部省が所有するとともに、個々の詞あるいは曲の作者が伏せられてしまったことから、これらの唱歌の多くが「作詞・作曲者不詳」となっています。なお、唱歌の中には「春が来た」「朧(おぼろ)月夜」「故郷(ふるさと)」のように、後に個々の作詞・作曲者が判明したとされる曲があるものの、その多くは根拠(こんきょ)が弱いとされています。
※下記の映像は8月23日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
確かに作詞、作曲者不詳という曲が有りますよね。
そういう理由があったんですか。
そう言えば、君が代なども作詞者
不詳だったように記憶しています。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 子供心に「どうして作詞作曲者が分からないんだろう」とは常々思っていましたので、理由を初めて聞いた際には驚いた記憶がありますね。
国歌である君が代は、古来の和歌に明治になって曲が作られたものですが、作曲者は林広守氏だそうです。
1年
「日の丸の旗」「鳩(鳩ポッポ)」「人形」「かたつむり」「桃太郎」
2年
「浦島太郎」「案山子(かかし)」「紅葉(もみじ)」「雪」
3年
「茶摘(ちゃつみ)」「汽車(今は山中)」「村祭」「冬の夜」
4年
「春の小川」「広瀬中佐」「村の鍛冶屋(かじや)」「橘中佐」
5年
「鯉のぼり(いらかの波と)」「海(松原遠く)」「冬景色」
6年
「朧(おぼろ)月夜」「故郷(ふるさと)」
皆様の思い出の歌が、これらの中にあるでしょうか。また、今回紹介した以外にも、 「尋常小学読本唱歌」あるいは「尋常小学唱歌」の中で皆様それぞれの愛唱歌が存在することでしょう。
※下記の映像は8月23日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
タイトルを見ただけでは浮かんでこない曲も
有りますが、懐かしい歌が並んでいますね^^
日本の四季を織り交ぜた作品も多いことに
改めて気付かされました。
この所、日本の四季の様相も変化しつつありますが、
せめて歌で四季というのをしっかりと感じて
行きたいものだと思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、唱歌などの昔の歌は、四季などの季節感がはっきりしていましたね。
昔の情緒を失わないためにも、こういった財産をしっかり守っていきたいです。
「新訂尋常小学唱歌」で新たに発表され、現在でも有名な歌としては、4年生用の「牧場の朝」、6年生用の「スキーの歌」などが挙げられます。
その後、昭和16(1941)年に小学校が国民学校に改編されると、いくつかの歌の入れ替えを行ったうえで、1年生用が「ウタノホン」、2年生用が「うたのほん」、3年生から6年生用が「初等科音楽」と分けられて発行されました。
これらの中では1年生用の「ウミ」「おうま」や、2年生用の「たなばたさま」、6年生用の「スキー」が今も知られています。
※下記の映像は8月23日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
「スキー」ですか^^
今なら、「スノボー」の歌という事に
なるでしょうかw
スノボーとなると、同じカタカナ語でも
なんとなく落ち着きが無くなりますね(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、今ならさしずめ「スノボー」ですよね(笑)。
冬の風物詩にも時代の移り変わりがあるというところでしょうか。
これらの唱歌集で収録された曲では、1年生用で、かつての「小学唱歌集」の「見渡せば」の曲を活かした「むすんでひらいて」や、「ぶんぶんぶん(蜂が飛ぶ)」、3年生用の「小ぎつね」、4年生用の「かえるの合唱」「アマリリス」「夜汽車」、6年生用の「思い出」「よろこびの歌(ベートーベンの第九)」などが有名ですが、実は紹介したすべての曲が外国由来のものです。
その後、教科書がそれまでの国定教科書から、文部省による検定教科書とされたため、民間会社発行の教科書が主流となりました。一部の唱歌は「検定済教科書に必ず採録すべき歌」とされたものの、時代の流れとともに唱歌が歌われなくなってきているのは残念な限りです。
また、GHQの占領政策の悪影響によって、歌詞の書き換えあるいは一部削除を受けたり、中には存在そのものが抹消されたりした数々の歌が、独立回復から60年以上、そして戦後から70年近くも経過しているにもかかわらず、未だに「名誉回復」がなされていないのも大きな問題ではないでしょうか。
ここからは、数々の唱歌の中から有名な数曲を選び、講師である私(黒田裕樹)自身が歌いながら、その詳細を紹介したいと思います。
※下記の映像は8月23日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
何なんでしょうかね?
日本人の考え方って、
特別自分の身に降りかからない
事でなければ、可怪しい事が起こっても
別に気にしないみたいな所が
有りますよね・・
歌の歌詞に関しては
特に「気にもならない」と
思っている人が大多数を占めているのではないかと
思いますね。。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
由緒ある唱歌の歴史を汚してはなりません。
将来を嘱望(しょくぼう)された滝廉太郎は、明治34年にヨーロッパへと留学しましたが、わずか2ヵ月後に肺結核にかかり、帰国して治療したものの、明治36(1903)年に23歳の若さで夭折(ようせつ)してしまいました。
滝廉太郎の悲運の生涯にも重なる、哀切をおびた非常に悲しげなメロディーである荒城の月は、彼の若死によって伝説となり、発表から110年以上が経過した今もなお、我が国の代表的な歌として、欧米を中心に世界の人々に愛され続けています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
※下記の映像は8月29日までの掲載分をまとめたものです。
(※追記で「荒城の月」の全歌詞をご覧いただけます)
巡(めぐ)る盃(さかずき) かげさして
千代(ちよ)の松が枝(え) わけ出(い)でし
昔の光 いまいずこ
2.秋陣営(あきじんえい)の 霜(しも)の色
鳴きゆく雁(かり)の 数見せて
植(う)うる剣(つるぎ)に 照りそいし
昔の光 いまいずこ
3.いま荒城(こうじょう)の 夜半(よわ)の月
替(かわ)らぬ光 誰(た)がためぞ
垣(かき)に残るは ただ葛(かずら)
松に歌うは ただ嵐(あらし)
4.天上影(てんじょうかげ)は 替(かわ)らねど
栄枯(えいこ)は移る 世の姿
写さんとてか 今もなお
嗚呼(ああ)荒城の 夜半(よわ)の月





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ぴーち こんばんは!
人は死して名を残す。。。
まさに滝廉太郎もその一人だった訳ですか・・
荒城の月は
名曲中の名曲ですものね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
元々素晴らしい曲でしたが、滝廉太郎の夭折で伝説の名曲となった。そんな思いがします。
「われは海の子」の歌詞をすべて読めば、これが「海洋国家日本に生まれた男子の成長の歌」であることがよく分かります。
1番で故郷である海辺の住家をイメージして、2番から4番までで、幼少期から成長期までの流れを歌った後、5番でたくましく成人した「海の男」と、6番でその心意気を示し、そして7番で海洋国家である我が国日本を護る決意をあらわすという、見事な物語として完結しています。
ところが、大東亜戦争の敗北後に、7番の歌詞が 「国防思想や軍艦が登場するのはケシカラン」という理由でGHQの指示によって教科書から削られてしまい、その流れを受けて戦後の教科書では3番までしか教えられなくなってしまっているのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
※下記の映像は8月29日までの掲載分をまとめたものです。
(※追記で「われは海の子」の全歌詞をご覧いただけます)
騒(さわ)ぐ磯辺(いそべ)の 松原に
煙(けむり)たなびく ※1苫屋(とまや)こそ
我がなつかしき 住家(すみか)なれ
2.生まれて潮(しお)に 浴(ゆあみ)して
浪(なみ)を子守の 歌と聞き
千里寄せくる 海の気を
吸いて童(わらべ)と なりにけり
3.高く鼻つく 磯(いそ)の香(か)に
不断(ふだん)の花の かおりあり
なぎさの松に 吹く風を
※2いみじき楽(がく)と 我は聞く
4.※3丈余(じょうよ)の※4ろかい 操(あやつ)りて
行手(ゆくて)定めぬ ※5浪まくら
※6百尋(ももひろ)千尋(ちひろ) 海の底
遊びなれたる 庭広し
5.幾年(いくとせ)ここに きたえたる
鉄より堅(かた)き かいなあり
吹く塩風に 黒みたる
はだは赤銅(しゃくどう) さながらに
6.浪にただよう 氷山(ひょうざん)も
来(きた)らば来(きた)れ 恐(おそ)れんや
海まき上(あ)ぐる たつまきも
起(おこ)らば起(おこ)れ 驚かじ
7.いで大船を 乗出(のりだ)して
我は拾わん 海の富(とみ)
いで軍艦に 乗組(のりく)みて
我は護(まも)らん 海の国
※1 苫屋=苫(とま、「むしろ」の意味)で屋根を葺(ふ)いた家のこと
※2 いみじき=立派な、素晴らしい
※3 丈余=一丈(約3m)余りあること
※4 ろかい=船を動かす艪(ろ)と櫂(かい)のこと
※5 浪まくら=船中で旅寝をすること、または「船路(ふなじ)の旅」
※6 尋=長さの単位で、約1.8m(=6尺)





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ぴーち こんばんは!
以前にも「我は海の子」に関してのお話を
黒田さんは仰っていましたね。
実際にはそれ以外の歌詞が存在するのに
伏せられてしまい、日の目を見られないのは、
哀しい事ですよね。
そういう時代だったとその時は
諦めるしか無かったのでしょうけれど、
もういつまでもそれを引きずっている時では
無いでしょうね。
そろそろ、お蔵入りになってしまったものに
光を充ててあげても良いのではないかと
思いますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 覚えていてくださり、有難うございます。
仰るとおり、戦後の占領期という異常な時代のことを、いつまでも引きずるのはおかしいと思います。
加えて、7番の「いで大船を乗出して 我は拾わん海の富 いで軍艦に乗組みて 我は護らん 海の国」という歌詞は、北方領土や竹島、あるいは尖閣諸島といった我が国固有の領土を意識させるのに、この上ない「生きた教育」になるのではないでしょうか。
私たちの貴重な財産である唱歌をありのまま歌い継ぐことは当然であるとともに、我が国と国民の未来のためを思えば、それが使命でもあるのです。
※下記の映像は8月29日までの掲載分をまとめたものです。
(※追記で「われは海の子」の全歌詞をご覧いただけます)
騒(さわ)ぐ磯辺(いそべ)の 松原に
煙(けむり)たなびく ※1苫屋(とまや)こそ
我がなつかしき 住家(すみか)なれ
2.生まれて潮(しお)に 浴(ゆあみ)して
浪(なみ)を子守の 歌と聞き
千里寄せくる 海の気を
吸いて童(わらべ)と なりにけり
3.高く鼻つく 磯(いそ)の香(か)に
不断(ふだん)の花の かおりあり
なぎさの松に 吹く風を
※2いみじき楽(がく)と 我は聞く
4.※3丈余(じょうよ)の※4ろかい 操(あやつ)りて
行手(ゆくて)定めぬ ※5浪まくら
※6百尋(ももひろ)千尋(ちひろ) 海の底
遊びなれたる 庭広し
5.幾年(いくとせ)ここに きたえたる
鉄より堅(かた)き かいなあり
吹く塩風に 黒みたる
はだは赤銅(しゃくどう) さながらに
6.浪にただよう 氷山(ひょうざん)も
来(きた)らば来(きた)れ 恐(おそ)れんや
海まき上(あ)ぐる たつまきも
起(おこ)らば起(おこ)れ 驚かじ
7.いで大船を 乗出(のりだ)して
我は拾わん 海の富(とみ)
いで軍艦に 乗組(のりく)みて
我は護(まも)らん 海の国
※1 苫屋=苫(とま、「むしろ」の意味)で屋根を葺(ふ)いた家のこと
※2 いみじき=立派な、素晴らしい
※3 丈余=一丈(約3m)余りあること
※4 ろかい=船を動かす艪(ろ)と櫂(かい)のこと
※5 浪まくら=船中で旅寝をすること、または「船路(ふなじ)の旅」
※6 尋=長さの単位で、約1.8m(=6尺)





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ぴーち こんばんは!
そう言えば、一昔前まで
テレビのCMか何かで
北方領土は我が国固有の領土です。
と訴えかけていた広告が
有りましたが、いつのまにやら
放送しなくなってしまいましたね。
何かの圧力があったのかどうかは
存じませんが、常にそういう
訴えかけはあるべき姿だと
思いますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 我が国にとっての敵は、どこから仕掛けてくるか分かったものではありません。
だからこそ、我が国の真の姿を後世に伝える唱歌を大事にしないといけませんね。
日本人として郷愁(きょうしゅう)を覚える「故郷」は、北朝鮮による日本人拉致問題の支援者団体(「救う会」など)が開催する集会で、日本人拉致被害者の早期帰国を願って、参加者全員で歌唱することが通例となっています。
なお、歌詞の大意は以下のとおりです。
1.野兎を追ったあの山や、小鮒を釣ったあの川よ。今なお心巡る思い出深き故郷よ。
2.父や母はどうしておいでだろうか、友は変わりなく平穏に暮らしているだろうか。風雨の度に(苦労をする度に、という意味)思い出す故郷よ。
3.自分の夢を叶えて目標を達成できたら、いつの日にか故郷へ帰ろう。山青く水清らかな故郷へ。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
※下記の映像は8月29日までの掲載分をまとめたものです。
(※追記で「故郷」の全歌詞をご覧いただけます)
小鮒(こぶな)釣(つ)りし彼(か)の川
夢は今も巡(めぐ)りて
忘れ難き故郷(ふるさと)
2.如何(いか)にいます父母(ちちはは)
恙無(つつがな)しや友がき
雨に風につけても
思ひ出(い)ずる故郷
3.志(こころざし)を果たして
いつの日にか帰らん
山は青き故郷
水は清き故郷





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- 黒田先生
青田です。
この故郷の歌詞は、日本独特のものです。
淡々と自然について、歌っています。
しかし、それを聴いていると、
日本人の心に響きます。
その理由は、日本人が、古来より、自然と共生し、
自然そのもの、全てに霊性(魂)が宿ることを感じてきた文化を持っているからです。
過酷な自然と戦ってきた西洋人には、絶対に理解できません。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
日本人の感性を余すところなく表現した素晴らしい歌詞に、この上ない作曲。
「故郷」が文部省唱歌のみならず、我が国を代表する歌に選ばれる理由がよく分かります。
1.螢の光や雪に反射して窓から差し込む月の光を使って、書物を読む日々を重ねていると、いつの間にか年月が過ぎ去っていき、今朝は杉でできた扉を開けてクラスメートと別れていく。
(※「年月が『すぎ』るのと、『すぎ』の戸を開けるのをかけている)
2.故郷に残る人も、出て行く人も、今日限りでお別れということで、互いに思う数限りない心のうちを、「無事であれ」というひと言に込めて歌う。
(※「かたみに」は「互いに」の古語)
では、いよいよ本題に入りましょう。3番の歌詞は、筑紫は九州、陸の奥は陸奥(みちのく)、つまり東北のことですから、「我が国のどこにいようと国のために真心を尽くしなさい」と解釈できますね。
3番が歌われなくなった理由としては、大東亜戦争後に、軍国主義を過剰なまでに排除する風潮が高まったことで、歌詞の「一つに尽くせ国の為」が敬遠されてしまったからのようです。歌詞全体をよく読めば、愛国心を持つとともに相手を思いやり、社会に貢献するという当然の内容だと思うのですが…。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
※下記の映像は8月29日までの掲載分をまとめたものです。
(※追記で「螢の光」の全歌詞をご覧いただけます)
書(ふみ)読む月日 重ねつつ
何時(いつ)しか年も すぎの戸を
開けてぞ今朝は 別れゆく
2.止まるも行くも 限りとて
互(かた)みに思う 千万(ちよろず)の
心の端(はし)を 一言(ひとこと)に
幸(さき)くとばかり 歌うなり
3.筑紫(つくし)の極(きわ)み 陸(みち)の奥(おく)
海山(うみやま)遠く 隔(へだ)つとも
その真心(まごころ)は 隔(へだ)てなく
一つに尽(つ)くせ 国の為(ため)
4.千島(ちしま)の奥(おく)も 沖縄(おきなわ)も
八洲(やしま)の内(うち)の 守りなり
至(いた)らん国に 勲(いさお)しく
努(つと)めよわが背(せ) 恙無(つつがな)く





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ぴーち こんばんは!
仰るとおり、日本という国に生まれ
日本人としてこうして生かされていることに
感謝の思いを持つ事は大切だと思います。
そしてその思いを愛国心として
抱くことは1つも悪いことではなく、
むしろこの国の住人として、これまで
生きて来られたという事は
それだけ恵まれていた証拠であり、
国に命を守られて来たと言っても過言では
無いと思います。
その日本のことをもっと大切にして行こうという
考え方はこれからもずっと絶やしたくはありませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰ること、まさにその通りです。
だからこそ、私たちは唱歌の歴史を語り継ぐとともに、螢の光の3番を歌い継がねばなりません。もちろん4番も…。
「千島の奥」は千島列島すべてを意味しますから、明治8(1875)年に樺太・千島交換条約を結び、また明治12(1879)年に沖縄県を設置した後でつくられた歌詞であるということが分かります。ちなみに4番の歌詞は我が国の領土が拡大するたびに変化していきました。
「千島の奥も 台湾も 八洲の内の 守りなり」
(日清戦争後に台湾を領有)
「台湾の果ても 樺太も 八洲の内の 守りなり」
(日露戦争後に南樺太を領有)
その後、大東亜戦争で我が国が敗戦した際に樺太や台湾を手放(てばな)しただけでなく、千島列島がソビエト連邦(現在のロシア)に不法占拠(ふほうせんきょ)され、また沖縄が長い間アメリカの支配下に置かれたことで「実情に合わない」からと歌われなくなってしまったようです。
しかし、沖縄が返還されてから早や40年以上が経過した現在、我が国固有の領土である北方領土の存在を絶(た)えず意識するためにも、当初の歌詞である「千島の奥も 沖縄も」を堂々と歌い継(つ)ぐべきではないでしょうか。
※下記の映像は8月29日までの掲載分をまとめたものです。
(※第43回歴史講座の内容はこれで終了です。次回[8月30日]からは通常の更新[=昭和時代・戦後]に戻ります)
(※追記で「螢の光」の全歌詞をご覧いただけます)
書(ふみ)読む月日 重ねつつ
何時(いつ)しか年も すぎの戸を
開けてぞ今朝は 別れゆく
2.止まるも行くも 限りとて
互(かた)みに思う 千万(ちよろず)の
心の端(はし)を 一言(ひとこと)に
幸(さき)くとばかり 歌うなり
3.筑紫(つくし)の極(きわ)み 陸(みち)の奥(おく)
海山(うみやま)遠く 隔(へだ)つとも
その真心(まごころ)は 隔(へだ)てなく
一つに尽(つ)くせ 国の為(ため)
4.千島(ちしま)の奥(おく)も 沖縄(おきなわ)も
八洲(やしま)の内(うち)の 守りなり
至(いた)らん国に 勲(いさお)しく
努(つと)めよわが背(せ) 恙無(つつがな)く





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ぴーち こんばんは!
確かに日本人の奥ゆかしさは、世界に絶賛されるべき特性かも知れませんが、
世界と切磋琢磨し、また先進国の一国として
歩んでいくことを選んだのなら、
主張していくべき事はしっかり主張するべきですよね。
「何も言わなくても分かるだろう」
と言う小声の主張は、国内では通じても
外国からは甘えではないか?。。くらいにしか思われなくなってしまいますよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「何も言わなくても分かるだろう」
> と言う小声の主張は、国内では通じても
> 外国からは甘えではないか?。。くらいにしか思われなくなってしまいますよね。
まさしく仰るとおりです。日本人の「奥ゆかしさ」はあくまで国内でとどめるものであり、外国に対しては積極的にアピールすべきです。