この時代の大きな特徴といえば、何といっても大仏の造立(ぞうりゅう)であり、他にも三世一身法(さんぜいっしんほう)や墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)によって、それまでの公地公民制が崩れ、荘園が発達するきっかけがつくられたことも有名です。
しかし、奈良時代には私たちが知らされていない「もう一つの顔」があることをご存知でしょうか。実は、この時代は「政治の実権を握った者」が目まぐるしく移動しており、はっきり分かるだけで「6回」も交代しているのです。
わずか80余年の短い間に、なぜそれだけ頻繁(ひんぱん)に替わったのでしょうか。そのカギを握るのは、政権を担当した者が「藤原氏」か、あるいは「非藤原氏」か、ということでした。
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659年に生まれた不比等は、幼い頃に父である鎌足を亡くしましたが、成年後は着実に出世を重ね、701年に大宝律令(たいほうりつりょう)、718年には養老律令(ようろうりつりょう)の編纂(へんさん)事業に携(たずさ)わるなど、朝廷からの厚い信任を得ました。
当時の朝廷では、707年に文武(もんむ)天皇が崩御されると、その後は文武天皇の母親で、天智(てんじ)天皇の娘でもある元明(げんめい)天皇と、元明天皇の娘で文武天皇の妹でもあり、皇室の血を引く元正(げんしょう)天皇の二人の女性天皇が相次(あいつ)いで即位されました。
女性天皇がしばらく続いたことは、結果として不比等の存在を朝廷内で大きくしました。さらに不比等は、娘の藤原宮子(ふじわらのみやこ)を文武天皇に嫁(とつ)がせると、二人の間に産まれた首皇子(おびとのみこ)に、自分の娘で宮子の異母妹(いぼまい、母親のちがう妹のこと)にあたる藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)をさらに嫁がせて、皇室と密接な関係を築きました。
こうして不比等は、自分の血を引く娘を皇室に嫁がせることで自らの地位を固めるという、かつての蘇我氏(そがし)と同じ方法で政治の実権を握ることに成功したのです。
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ぴーち こんばんは!
先日、天皇が「お気持ち」を著され
それに伴い、皇太子不在問題、先々
女性天皇に関する問題が挙げられていますよね。
素朴な疑問で恐縮ですが、
この頃の時代には女性天皇が存在したという事ですが、
現代になって女性が天皇に即位することに
どのような問題が起こるのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 我が国における女性天皇は、いずれも神武天皇の直系にあたる「男系の女性天皇」です。これに対し、現状では「女系天皇」とわざと混同させ、皇統をないがしろにする勢力も存在します。
また、女性天皇は、本来は男性の天皇が即位されるまでの「中継ぎ」というお立場が多く、ご自身にも様々な不文律があります。そのあたりについては、いずれ今回の講座で詳しく紹介します。
長屋王が政治を担当した当時は、人口の増加で口分田(くぶんでん)が不足し、公地公民制の基礎が揺(ゆ)らいでいました。このため、長屋王は722年に「百万町歩(ひゃくまんちょうぶ)の開墾(かいこん)計画」を立てましたが、文字どおりの「計画倒れ」に終わってしまいました。
なぜなら、計画を立てたところで、そのメリットがなければ行動に移そうとしないのが人間というものだからです。このため、長屋王は翌723年に「三世一身法(さんぜいっしんほう)」を出しました。
これは、新たに灌漑(かんがい)施設を設けて未開地を開墾した場合は三世(さんぜ)にわたり、旧来の灌漑用地を再開発した場合は本人一代を限りに、田地(でんち)の保有を認めるというものでしたが、それでも開墾はなかなか進みませんでした。
確かに自分の代や三世の間は所有が認められますが、いずれは国に返還しなければならないことを考えると、どうしても二の足を踏んでしまうからです。自分が汗水たらして開墾した土地は、自分や子孫のものとしたいのが人情でもあり、この問題は、新たに開墾した世代が次へと交替し始める約20年後に、再び大きくクローズアップされることになります。
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ぴーち おはようございます!
確かにそうかもしれませんね。
税金だとて、自分が汗水垂らして稼いだ収入の一分をどうして国に納めなければならないんだ?とボヤいている声を聞いた事が有りますが(^_^;)
直接声に出すか出さないかで
多かれ少なかれ心の中ではそう思う人が
大半なのでは無いでしょうか
それでもそれが義務化されているからこそ
渋々ながらも皆納めなければならないと思って
国民として当たり前だと言い聞かせて
納めてはいるでしょうけれど
(国の為に役立ててください!誰かの為に
使ってください!と心から願う人も
勿論いらっしゃるでしょうけれど)
それでも、今回のお話の様に
将来に向けて自分の利益が見えないものには
どうしても不満を感じてしまうのは
無理もない話ですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
奈良時代の税法も、こういった「人間臭さ」で考えれば、おのずと流れが見えてきますね。
巻き返しを図りたい藤原四兄弟の武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)は、聖武天皇の后(きさき)であり、自分らの妹でもある光明子を皇后(こうごう)にしようと計画しました。
皇后は天皇の代わりに政治が行えるほか、場合によっては自らが天皇として即位できるという大変重い地位でした。しかし、律令では「皇后は皇族に限る」と明記されており、藤原氏出身の光明子が皇后になれる資格はなく、長屋王もそれを理由に四兄弟の願いを退けました。
このこともあって、長屋王と藤原四兄弟との仲は次第に険悪になっていきましたが、そんな折にとんでもない事件が起こってしまうのです。
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ぴーち こんばんは!
確かに
どんなに由緒正しいお家柄であっても
皇族でなければ皇后にはなれないというのは
根本的に超えられない壁が
存在する限り、手も足も出せませんね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 常識で考えれば、まさに仰るとおりです。
ところが、その常識が覆される日がやってくるのも、歴史の何とも言えないところでもありますね。
詳しくは後日改めて紹介いたします。
ところが、翌728年に、皇子は1歳足らずで亡くなってしまったのです。聖武天皇や光明子、さらには四兄弟にとっても大きなショックでしたが、四兄弟は不幸を逆手(さかて)にとっての大きな陰謀を計画しました。
悲しみに打ちひしがれた聖武天皇に対して「皇子が亡くなられたのは、長屋王がそうなるように呪ったからだ」と事実無根の噂(うわさ)を広めたのです。我が子を亡くして精神的に弱られていた聖武天皇は、この讒言(ざんげん、他人をおとしいれるために事実でないことを告げ口すること)を信用されてしまいました。
729年2月、天皇に対する反逆の罪で邸宅を軍勢に取り囲まれた長屋王は、自らの無実を訴えましたが、結局は一族とともに自殺しました。この事件を「長屋王の変」といいます。
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ぴーち こんばんは!
何時の世でも悪巧みを考える人は
まるでオセロの様に周りの人間を
自分の考えと同じ色に
染めて、包囲していくものですね・・
けれど、惜しいことに
長屋王には最後まで戦って貰いたかったですね。
諦めが早過ぎます・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > けれど、惜しいことに
> 長屋王には最後まで戦って貰いたかったですね。
> 諦めが早過ぎます・・
確かにそうでしたね。ところが、そう簡単に終わらないのが、歴史の大きな闇でもあります。詳しくは次回の更新をご覧ください。
藤原四兄弟も同時に昇進し、再び藤原氏が政治の実権を握ることになりました。四兄弟は、武智麻呂が南家(なんけ)、房前が北家(ほっけ)、宇合が式家(しきけ)、麻呂が京家(きょうけ)のそれぞれの始祖(しそ)となりました。
まさに我が世の春を迎えた四兄弟でしたが、その繁栄は長くは続きませんでした。彼らには過酷な運命が待っていたのです。
737年、九州地方から発生した疫病(えきびょう)である天然痘(てんねんとう)が、都の平城京でも大流行しました。藤原四兄弟も相次いで天然痘にかかり、何と全員がそろって病死してしまったのです。あまりの凶事(きょうじ)、そしてあまりの偶然に、当時の朝廷では「長屋王のタタリが起こった」と恐怖におびえました。
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ぴーち こんばんは!
そうですね
この場合は、民衆は「祟り」だと思うでしょうけれど、
藤原四兄弟の死は
「悪因悪果」の現証そのものだったのでは無いでしょうか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、そういう見方もあり得ますね。
当時の朝廷では「長屋王のタタリ」と大問題になったようですが…。
橘諸兄は、唐から帰国した留学生の吉備真備(きびのまきび)や玄ボウ(げんぼう・※注)を重用しましたが、これに反発した、藤原四兄弟の宇合(うまかい)の子である藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が、740年に北九州の大宰府(だざいふ)で大規模な反乱を起こしました。これを「藤原広嗣の乱」といいます。
乱自体は間もなく平定されたものの、相次ぐ凶事や政情不安に動揺された聖武天皇は、この後、平城京から山背国相楽郡(やましろのくにそうらくぐん、現在の京都府木津川市)の恭仁京(くにきょう)、摂津国難波(せっつのくになにわ、現在の大阪市中央区)の難波宮(なにわのみや)、近江国甲賀郡(おうみのくにこうかぐん、現在の滋賀県甲賀市信楽町)の紫香楽宮(しがらきのみや)と相次いで都を遷(うつ)されました。
そして、長屋王のタタリを鎮(しず)め、政情不安をなくすためには、仏教への信仰を深めることが大切と考えられた聖武天皇は、仏教に国家を守る力があるとする鎮護国家(ちんごこっか)の思想のもとに、仏教の興隆を政策の最重要課題とされました。
※注:玄ボウの「ボウ」の字は正しくは「日+方」ですが、機種依存文字のためにカタカナで表記しています。
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オバrev この話は、私が大学受験(理系です)の時は知りませんでした(・・・40年以上前ですが)が、子供の受験で初めて知りました(゜o゜;
藤原広嗣の乱って、昔から有名だったんですかね・
オバrevさんへ
黒田裕樹 藤原広嗣の乱は結構有名ですよ。
乱の減員も、乱がもたらした影響も、すべてつながっていますからね。そう考えれば結構重要な事実です。
次いで743年には、大仏の造立(ぞうりゅう)によって我が国の平安を築こうとする壮大な計画の下に、大仏造立の詔が出されました。
当初は紫香楽宮で計画が進められた金銅仏(こんどうぶつ)の造立は、745年に平城京に都が戻ると、場所を移して再開されました。
8世紀当時の最新の技術によって造られた大仏は、約10年の歳月を費やして752年にようやく完成し、東大寺(とうだいじ)で僧侶(そうりょ)1万人が参列した盛大な開眼供養(かいげんくよう)が行われました。
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ぴーち こんばんは!
東大寺は華厳宗=天台宗の管轄ですね。
建立された時代にはまだ力を成していた宗派でも
時代が移り変わり、色々な邪教がそこへ
入り込んでしまった事は残念な結末です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに宗派は時代によって変化しますからね。
色々なことが起きています。
朝廷は行基に対して、当初は厳しい姿勢で臨みましたが後に和解し、大仏造立の際には僧侶の最高職である大僧正(だいそうじょう)に任命しました。行基は大仏造立に積極的に関わったとされていますが、惜しくも大仏完成前の749年に死去しています。
ところで、橘諸兄が政権を担当していた頃には、もう一つの大きな出来事がありました。大仏造立の詔が出された743年に「墾田永年私財法」が発布されたのです。先述のとおり、三世一身法が施行されて約20年が経過し、開墾した世代が交替する頃に、身分に応じた一定の面積の開墾した田地(でんち)を無期限に所有できることとなりました。
これによって、田地の数はようやく増加しましたが、私有地の拡大も同時に進み、公地公民制の根本を揺るがすという結果を招いてしまいました。なお、有力な貴族や東大寺などの大寺院は、地方の豪族らの協力のもとに、広大な山林や原野の開墾を進め、私有地を拡大していきました。これを初期荘園(しょきしょうえん)といいます。
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ぴーち こんばんは!
私にはよく分かりませんが
私有地化することのデメリットの一つに
現代では山林を保持することが出来なくなった
個々人が外国人に(特に中国)荒れ果てた山林の土地を売却してしまうケースが見られるように
国が管理運営していれば、見す見す外国人の手に
委ねなくても済むのにと思うんですよね
現代とこの当時の問題はまた違うのでしょうけれど。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、当時とは全く逆の現象が起きていることになりますね。
ぴーちさんの仰るとおりだと私も思います。
この結果、政治の実権は藤原仲麻呂が握るようになり、仲麻呂は自分のライバルを次々と倒していきました。755年には、朝廷を誹謗(ひぼう、悪口を言うこと)したという密告によって、橘諸兄に左大臣を辞職させました。また757年には皇太子であった道祖王(ふなどおう)をその地位から引きずり下ろし、仲麻呂の長男の未亡人と結婚させた大炊王(おおいおう)を皇太子に立てました。
これらの動きに反発した、橘諸兄の子である橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が、同じ757年に仲麻呂を除こうと反乱を企(くわだ)てましたが、事前に発覚して失敗しました。この事件を「橘奈良麻呂の乱」といいます。かくして、自分に不満を持つ政敵を一掃することに成功した仲麻呂は、ますます自己の権力を高めていきました。
その後、758年に孝謙天皇が退位され、仲麻呂と縁の深い大炊王が淳仁(じゅんにん)天皇として即位されると、淳仁天皇は仲麻呂に対して、貨幣の鋳造権や税の徴収権とともに、新たに「恵美押勝(えみのおしかつ)」の名を与えられました。
天皇に準ずる権力をもつことになった恵美押勝は、朝廷の官職を中国風に改め、自らは太政大臣(だじょうだいじん)に相当する大師(たいし)に、皇族以外で初めて就任しました。
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ぴーち こんばんは!
藤原氏の野望の強さを伺わせる
お話ですね。
人は自分の目的を果たす為なら
なんでもするものなんですね(^_^;)
勿論、その逆に心が働けば
世のため人の為になれたものを・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
この後も、奈良時代は藤原氏の因果応報が続きます。
630年に舒明(じょめい)天皇が始められた遣唐使(けんとうし)は、一時期の中断を経て702年に復活すると、894年に廃止されるまで長く続けられました。
大陸の政治制度や文化を学ぶために、多くの留学生が唐へ渡りましたが、造船や航海技術が未熟であった当時は、遣唐使による航海は命がけであり、中には帰国できずに、そのまま唐で生涯を終えた留学生もいました。
717年に吉備真備(きびのまきび)らが入唐(にっとう)した際、彼らに同行していた阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は、唐の超難関の試験である科挙(かきょ)に合格し、後に唐の高い役職を歴任しました。詩人の李白(りはく)と親交を持ち、また唐の皇帝の玄宗(げんそう)の厚い信任を得ましたが、才能が高かったゆえに、皇帝がなかなか仲麻呂の帰国を許しませんでした。
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ぴーち こんばんは!
遣唐使の中断や廃止は
帰国出来ない者が居たために
そのような措置が取られたのですか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 遣唐使の中断は、唐・新羅の連合軍と白村江の戦いで我が国が敗れた後、新羅との国交回復を優先したために、唐との関係が一時的に断絶したのが主な理由です。また、遣唐使の廃止は、唐の政情不安によって、危険な航海を伴ってまで留学する必要性がなくなったからです。
命からがら長安まで戻った仲麻呂は、その後もついに帰国することなく、770年に唐で73歳の生涯を閉じました。
そんな彼が残した望郷の和歌は、小倉百人一首にも取り上げられ、長く我が国で知られています。
「天(あま)の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠(みかさ)の山に いでし月かも」
ところで、阿倍仲麻呂が帰国しようとして失敗に終わった際に、別の船に乗っていたため、無事に我が国にたどりついた唐の高僧がいました。鑑真(がんじん)のことです。
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しかし、鑑真のような高僧が日本へ渡るということは、大変な苦難を伴いました。弟子たちの密告などによってことごとく失敗し、ようやく船に乗ったと思ったら、嵐にあって難破してしまいました。
5度にわたる渡日に失敗するうちに、鑑真の両目は失明状態になったと伝えられています。
752年に遣唐大使の藤原清河らが来唐し、翌年に帰国する際に、鑑真は船に同乗させてくれるよう依頼しましたが、渡日を許さない玄宗皇帝の意を受けた藤原清河は、これを拒否しました。
しかし、副使の大伴古麻呂(おおとものこまろ)の機転で、密かに別の船に乗ることができた鑑真は、清河と阿倍仲麻呂を乗せた船が難破した一方で、無事に我が国にたどり着き、ついに悲願の渡日を果たしました。
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ちなみに、彼の死後に造られた彫像(ちょうぞう)は、我が国最初の肖像彫刻(しょうぞうちょうこく)とされています。
余談ですが、大伴古麻呂は唐における753年の新年の儀式の際に、我が国の席次が新羅(しらぎ)より下になっていることに対して猛烈に抗議し、結果的に席次を入れ替えさせたというエピソードが残っています。
席次の件といい、また鑑真を密かに渡日させたことといい、気骨(きこつ)ある人物でなければ外交官は務まらないのは、今も昔も同じなのかもしれませんね。
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ぴーち こんばんは!
鑑真の彫刻は
確かに盲目の状態で残されていますよね。
鑑真は、今で言えば
外交官の役割と同等だったのですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。鑑真が我が国に遺した功績は計り知れないと思います。
しかし、この政策は、仮に新羅征討に成功したとしても、やがて勢力を立て直した唐によって巻き返されるのは必至なうえに、我が国が唐に攻め込まれる口実を与えてしまいかねないという、極めて危険なものであったことから、およそ100年前に起きた白村江(はくすきのえ)の悲劇をまた繰り返すのか、と恵美押勝に対する批判の声が次第に高まりました。
こうした中で、最大の後ろ盾であった光明皇太后が760年に死去され、さらには病に倒れられた孝謙上皇(上皇=じょうこうとは「退位された天皇」という意味)が、僧の道鏡(どうきょう)の祈祷(きとう)によって健康を回復されると、上皇が次第に影響力を高められた一方で、恵美押勝の勢力が急速に衰えていきました。
あせった恵美押勝は、道鏡を追放して孝謙上皇の権力を抑えようと764年に反乱を計画しましたが、未然に発覚し、逆に攻められて滅ぼされました。また、恵美押勝と関係の深かった淳仁天皇は孝謙上皇によって廃位となり、淡路(あわじ、現在の兵庫県淡路島)に追放されました。これらの事件を「恵美押勝の乱」といいます。
天皇の位には、孝謙上皇が重祚(ちょうそ)され、称徳(しょうとく)天皇となられました。なお、淳仁天皇は称徳天皇によって崩御後も贈り名を与えられず、長らく「淡路廃帝(あわじはいたい)」と呼ばれました。「淳仁天皇」と追号されたのは、明治になってからのことです。
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また765年には、それまでの墾田永年私財法によって過熱していた私有地の拡大を防ぐために、寺社を除く墾田の私有を禁止しました。この禁止令は、率先して墾田開発を推し進めていた藤原氏に対して、特に大きな打撃を与えました。
ところで、称徳天皇は、母の一族である藤原氏による政治の専横や、それを黙認した淳仁天皇などの皇族に対して、冷ややかな目で見ておられましたが、かといって、ご自身の子孫に天皇の地位を譲ることもできませんでした。なぜなら、称徳天皇は生涯独身でいらっしゃったからです。
実は、女性天皇には「結婚してはならない」という不文律(ふぶんりつ、文章として成り立っていないが、暗黙のうちに守られている約束事のこと)がありました。
21世紀の現代ならばともかく、当時の女性は男性によって「支配される」ことが一般的でした。ということは、仮に女性天皇に夫君(ふくん)がおられる場合には、「天皇」を支配する「天皇」が存在することになり、律令政治に支障が出ると考えられていたのです。
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ぴーち こんばんは!
女性が天皇になるという
条件にはなかなか大変なものがあるのですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
明治以降の皇室典範で、天皇は男性のみとされた理由もここにあるかと思われます。
ちょうどそのとき、769年に北九州の大宰府から「道鏡が天皇の位につけば天下は太平になる」との宇佐八幡宮(うさまちまんぐう、大分県宇佐市)からの神託(しんたく、神からのお告げのこと)があったとの報告がありました。
称徳天皇は大いに喜ばれ、その真偽を和気清麻呂(わけのきよまろ)に確認させました。しかし、和気清麻呂は、称徳天皇のご期待に反して「皇位は神武(じんむ)天皇以来の皇統が継承すべきである」との神託を持ち帰りました。
称徳天皇の逆鱗(げきりん)に触れた和気清麻呂は、名前を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と無理やり改名させられたうえ、大隅(おおすみ、現在の鹿児島県)に追放されてしまいました。これを「宇佐八幡宮神託事件」といいます。
道鏡への皇位継承の夢が破れた称徳天皇は、そのショックが尾を引かれたのか、やがて重い病となられ、770年に53歳で崩御されました。称徳天皇の崩御によって後ろ盾をなくした道鏡は、下野(しもつけ、現在の栃木県)に追放となり、その地で亡くなりました。
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オバrev カープ、また逆転勝ち~!順調にマジックが減っています(*^_^*)
安心は出来ないけど、恐らく25年ぶりの優勝はほぼ間違いないでしょう。
本題ですが、以前から疑問に思っていたのですが、この道鏡に男系天皇としての資格はあったんでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 カープファンとして、今年の大活躍は嬉しい限りですね。大目標まであと少しです(^◇^)
道鏡は神武天皇の血を引いていませんので、男系天皇としての資格はありません。
この時が、皇統継続の最大の危機であったともいえるでしょう。
光仁天皇はもちろん皇室の血を引いておられましたが、実は天智天皇の孫にあたられました。壬申(じんしん)の乱以来、天武系で占められていた天皇の地位が、約100年ぶりに天智系に復帰したことになります。なお、天智天皇の血統は、現代の皇室にも受け継がれておられます。
光仁天皇は、白壁王の時代に他の皇族が権力闘争で次々と生命を落としていくのを横目にしながら、自らは飲酒を続けて野心のないことをアピールし続けていたという苦労されたご経験の持ち主で、ご即位されたときには既に62歳になっておられました。
こうした経緯もあったことから、感謝のお気持ちを持たれた光仁天皇は、藤原百川や藤原永手など藤原氏の一族を重く用いられ、以後は光仁天皇とその信任を受けた藤原氏によって、律令政治の再建が目指されました。なお、藤原百川は四兄弟の宇合(うまかい)の子で、藤原永手は房前(ふささき)の子にあたります。
こうして、100年にも満たない短い間に繰り広げられた勢力争いは、最終的には藤原氏の手に引き継がれ、以後も藤原氏は政治に積極的に関わっていくことになるのです。ちなみに、称徳天皇と道鏡が禁止した墾田の私有は、光仁天皇のご即位後に再開されています。また、仏教勢力を排除する傾向は、やがて迎える「新たな時代」に向けての大きな流れのひとつとなったのでした。
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ぴーち こんばんは!
光仁天皇。
まるで赤穂浪士の討ち入りの
大石内蔵助の様みたいですね(^_^;)
もっとも、時代はそれよりも
随分前の話でしょうから、内蔵助のほうが
真似たのかもw
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、言われてみれば…ですね。
900年以上の時を超えたロマンがあったのかもしれません。
俗説として一般的に有名なのは、「称徳天皇は、始めのうちは藤原仲麻呂と愛人関係にあったが、自分の病を治してくれた道鏡とも関係を持つようになり、振られた仲麻呂が腹いせに乱を起こしたが滅ぼされ、その後は称徳天皇の愛を一身に受けた道鏡が天皇になろうという野心を持った」というものですが、私はこのような話は「有り得ない」と考えます。
まず、称徳天皇と藤原仲麻呂の関係ですが、これまでに書いたように、両者はむしろ対立関係にありました。藤原仲麻呂は光明皇太后の信任を得ることによって、称徳天皇を差し置いて政治の実権を独占していたからです。
その後、専横を強めた仲麻呂改め恵美押勝が、新羅征討まで試みるようになったことに対して、亡国の危機を救うために称徳天皇が立ち上がられ、政界に復帰したというのが本来の姿です。また、称徳天皇と道鏡の関係についても、当時の「常識」として有り得ません。なぜそのように断定できるのでしょうか。
当時の我が国の仏教で不足していたのは「戒律」であり、それを補うために、唐の高僧であった鑑真が来日したのは先述したとおりですが、戒律の中でもっとも重要なもののひとつに「異性と通じてはならない」というのがあります。
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ぴーち 称徳天皇の俗説については
私は今回初めて伺いました。
あくまで私の勝手な推測ですが
女性天皇ということで
当時としても
かなりの注目を集めていたと思うのです。
そんな中、面白可笑しく話をでっち上げる
輩は必ず出てくるものと思います。
今で言うとマスコミが有る事無い事
話を作り、そうして作られた架空の人物像だけが一人歩きしてしまい、それが定説となってしまう
ことが当時も起こったのではないかと
思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんのお考えは果たして的を射ておられるでしょうか。
次回にその結論を述べます。
それに、称徳天皇が崩御された後に、道鏡は下野に追放されていますが、もし彼が称徳天皇と愛人関係になっていれば、ここぞとばかりに戒律を破った罪で彼の僧籍を剥奪(はくだつ)するか、場合によっては殺害されてもおかしくないのに、現実には彼は僧のままこの世を去っているのです。
加えて、先述したように「道鏡が天皇になろうとした」のではなく、「称徳天皇が道鏡を天皇後継に指名された」のが正しい表現ですし、また称徳天皇にしても、もし男性と深い関係におちいるような女性であれば、当時の我が国の風潮として、いかに実力があったとしても、称徳天皇として重祚(ちょうそ)されることや、寺社を除く墾田の私有を禁止するという思い切った政治などを、天皇の周囲が許すことは決してなかったでしょう。
では、なぜ後世にこのような「伝説」が残されてしまったのでしょうか。考えられる理由のひとつとしては、称徳天皇と道鏡が「藤原氏に対抗する勢力」であったことです。
時代の勝者となった藤原氏にとって、仏教勢力を背景に墾田の私有を禁じた政治を行った二人は「敵」であり、悪役として印象づけるために、二人の間に「そういう関係」があることを暗示したのがきっかけではないかと推定されています。
歴史は正しく伝えられ、かつ評価されるのが大前提ですが、時代の勝者によって筆が書き換えられることは、現代でもよくある話です。私たちは歴史を学ぶ際に、当時の背景や勢力争いなどに加えて、歴史の大きな流れを慎重に見極めながら、真実を導き出していきたいものですね。
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ぴーち こんばんは!
なるほど、
時代の勝者によって
捏造されてしまった話でしたか。
それでも嘘偽りで固められた話というのは
メッキと同じで
いづれはその真実を知ることが可能になるのでしょうね。
勿論、そのメッキを剥がそうという人物が居て
その思いが
あればこそでしょうけれど。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
歴史の真実を追求する、という強い意志がなければ、外国によって「つくられた歴史」が、我が国の教科書にも載るようになってしまいます。
光仁(こうにん)天皇の子の桓武(かんむ)天皇が、794年に都をそれまでの長岡京から平安京に遷(うつ)された頃、桓武天皇の子で皇太子の安殿(あて)親王は身体が弱く、病気がちでした。そんな親王の后(きさき)としてある女性が選ばれた際に、その女性が幼かったため、彼女の母親も後見役として一緒に迎えられましたが、ここでとんでもないことが起きてしまいました。
何と、后の母親が、自身に夫がいるにもかかわらず、親王と「男女の関係」になってしまったのです。その母親こそが、藤原氏の式家(しきけ)の血を引く藤原薬子(ふじわらのくすこ)でした。安殿親王と薬子との不倫(ふりん)ともいえる関係に激怒された桓武天皇によって、やがて薬子は朝廷から追放されてしまいました。
しかし、桓武天皇が崩御され、安殿親王が平城(へいぜい)天皇として即位されると、薬子は再び召(め)し出されました。二人の関係が深くなることで、薬子の兄にあたる藤原仲成(ふじわらのなかなり)も出世を重ね、朝廷では仲成・薬子兄妹による政治の専横が続きました。
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ぴーち こんばんは!
こういうお話を伺うと
女人の恐ろしさを感じずには居られなくなりますね(^_^;)
同性として考えて見てもどうも受け入れがたい
存在ですね・・
野望の果てに行き着いた場所は
心の底から喜べる境涯なのでしょうか・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 やはり同性としても受け入れがたいですか…。
この愛憎の結末は、次回の更新をご覧ください。