ところが、景晋が養子として迎えられた後に、養父に男子(後の遠山景善=とおやまかげよし)が生まれたので、景晋は景善を自分の養子にしましたが、その手続きを済ませないうちに景元が生まれてしまったのです。このため、景晋は景元の出生届を一年以上遅らせることで、景善の養子届を先に済ませています。
こうした複雑な事情があったため、金四郎という通称を名乗った景元は、青年期を迎える頃までに家を飛び出し、放蕩無頼(ほうとうぶらい、勝手気ままに振る舞って品行の定まらないさまのこと)の生活を送っていたとされており、身体の刺青もこの時期に入れたと考えられています。ただ、景元が刺青を入れていた可能性が高いとされてはいますが、それが桜吹雪であったかどうかということについては確証がありません。
やがて、景善が景晋の隠居前に亡くなったことで、景元は遠山家に戻って家督を継ぐことになるのですが、青年期の町中での生活を通じて、世の中の様々な動き、つまり世情(せじょう)を知ったことによって、景元は江戸の庶民の考えが良く分かるようになっていました。この頃の経験が、後の景元にとって大いに役立つことになります。
※下記の映像は7月14日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
景元が北町奉行となった翌年の天保12(1841)年、将軍退位後も大御所として政治の実権を握っていた11代将軍の徳川家斉が亡くなり、12代将軍の徳川家慶の老中であった、水野忠邦による政治が始まりました。
水野はかつての享保・寛政の両改革を手本とし、衰えつつあった江戸幕府の権力強化を目指して天保の改革を行ったのですが、厳しい倹約令を中心とする改革の内容に対して、世情に通じていた景元は疑問を感じていました。
財政の支出を抑えるため、政府が倹約することは決して間違っていませんが、それを一般庶民にまで強要してしまえば、消費が冷え込んで景気が悪化するばかりでなく、精神面でも余裕がなくなることで文化が衰退し、世の中全体が殺伐とした雰囲気となってしまうのが目に見えていたからです。そしてそれは、改革の実施によって現実のものとなってしまいました。
※下記の映像は7月14日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
徳川家の歴代の将軍は、一代に一度は町奉行・勘定奉行・寺社奉行のいわゆる三奉行による実際の裁判の様子を上覧(じょうらん、身分の高い人がご覧になること)するしきたりがありました。これを「公事上聴(くじじょうちょう)」といいます。
天保12(1841)年に行われた公事上聴において、景元は将軍家慶からその裁判ぶりを激賞され、奉行の模範とまで讃えられました。要するに、景元は将軍の「お墨付き」を与えられたのです。
これでは水野の力をもってしても、景元に対しておいそれと奉行職を罷免(ひめん、職務をやめさせること)できません。そこで水野は、景元にプレッシャーを与える意味も込めて、近いうちに「もう一人の奉行」に対して牙(きば)をむくことになります。
※下記の映像は7月14日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
天保の改革が始まった頃には、江戸をはじめとする大都市を中心に物価が値上がりしており、庶民の暮らしに大きな影響を与えていました。水野は、物価の値上がりは当時の流通システムを仕切っていた商人による株仲間に原因があるとして、天保12(1841)年に彼らの解散を命じましたが、これはとんでもない誤解でした。
なぜなら、物価上昇の本当の原因は、人口が増えて消費量が増えた都会に対する、生産地からの物資の供給不足にあったからです。需要が増えているのに供給が不足すれば、物価が上がるのは当たり前です。従って、本当に物価を下げたいのであれば、大都市への供給量を増やす政策を採るべきなのです。
それなのに、株仲間を解散して、長年にわたる物資の流通システムを壊してしまえば、流通網が混乱して、かえって物価が値上がりするのは明らかでした。景元や南町奉行の矢部定謙は最後まで解散に反対しましたが、水野は商業を異常に蔑視(べっし)する自己の「腹心の部下」の勧めもあって、株仲間を強引に解散させてしまい、その結果、景元や矢部が心配したとおりに、物価がさらに上昇してしまったのです。
※下記の映像は7月14日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
天保の改革に反対する有力者の一人である矢部に対する酷(むご)い仕打ちは、将軍の「お墨付き」をもらっているために処分できない景元など、他の反対派に対する「見せしめ」でもありました。この後、矢部は無実を訴える意味も込めて、お預けとなった家の屋敷で絶食を続け、壮絶な最期を遂げました。
株仲間を強引に解散し、矢部の罪をでっち上げて憤死(ふんし、激しい怒りのうちに死ぬこと)させた水野の「部下」こそが、当時は目付(めつけ、旗本・御家人を監察する役職のこと)であった鳥居耀蔵(とりいようぞう)でした。この後、鳥居は矢部の後を受けて南町奉行に就任して、水野の改革を忠実に行うことになります。
ちなみに鳥居は養子で、本家は幕府お抱えの朱子学者である林大学頭(はやしだいがくのかみ)でした。要するに、鳥居はコチコチの「儒学者」であり、商行為や蘭学を徹底的に嫌うといった偏見の持ち主だったです。世の中の改革が求められる重要な時期に、このような政治家が幅を利かせていたことが、江戸幕府のみならず、我が国自体にも多大な影響を与えてしまいました。
※下記の映像は7月14日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
「矢部!自身の身の潔白を証明したいのなら、
自殺の道を選ばず、命あるかぎり、生きて、生きて
生き抜く事を選択するべきだ!」とご本人が居たら、言ってあげたかったですね(^_^;)
結局、見せしめの為に死を選ぶなんて
彼も愚かすぎます。
それにしても、憤死という死に方があるんですね(゜o゜;
今で言うと、心筋梗塞の診断が付き添うですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 元奉行の矢部にとっては、武士の誇りにかけても自死の道を選んだのでしょうね。
難しいところです。
天保8(1837)年、アメリカの商船(軍艦ではありません)であるモリソン号が、航海の途中で救助した我が国の漂流民の引渡しと、平和的な貿易の交渉を求めて来航しましたが、幕府は異国船打払令の規定どおりに問答無用で砲撃を行い、あわや撃沈(げきちん)されそうになったモリソン号は辛うじて脱出しました。この出来事をモリソン号事件といいます。
幕府による無茶な対外政策に、渡辺崋山(わたなべかざん)や高野長英(たかのちょうえい)らがそれぞれ書物を出して批判しましたが、天保10(1839)年に幕府によって弾圧されました。この事件を蛮社(ばんしゃ)の獄(ごく)といいますが、この際に弾圧を指揮した人物こそが鳥居耀蔵だったのです。
このような人物が南町奉行となり、水野に認めてもらえるように改革を忠実に、いやそれ以上に厳しく実行すれば、江戸の庶民の暮らしはいったいどうなってしまうのでしょうか。
なお、1840(天保11)年にアヘン戦争が勃発(ぼっぱつ)し、清がイギリスに敗れて香港(ホンコン)を奪われると、その事実を知って慌(あわ)てた幕府は、天保13(1842)年に天保の薪水(しんすい)給与令を出して、我が国を訪問した外国船に対し、食糧や燃料を与えて速やかに退去してもらうように方針を転換しています。
※下記の映像は7月14日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
一つの事件が元であらゆる船を目の敵に
してしまうのも余りに極端な政策でしたね(^_^;)
それだけ我が国の政策に余裕が無かったのでしょうけれど。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、極端すぎますね。
こうした政策には、鎖国という当時の幕府による政策が深くかかわっていると思われます。
例えば、町に密偵を放って幕府の政治に対する悪口を言わせて、それに乗ってきた庶民を「幕府を批判した」と言って捕まえたり、倹約令によって禁止されていた絹の着物を着ている疑いがあるとして、往来の真ん中で女性を無理やり裸にしたりしました。
江戸の庶民は鳥居のことを当時の官職の「甲斐守(かいのかみ)」と名前の「耀蔵」とをかけて「耀甲斐(ようかい)」、すなわち「妖怪」として恐れると同時に、鳥居のことを激しく恨むようになりました。
ところで、町奉行所は南北が同時に開いていたのではなく、一ヵ月毎に交代で業務を行っていました。南の月番(つきばん)の際には鳥居が厳しく取り締まったのに対して、北の月番の際は、水野の改革の手法に異議を唱えていた景元が積極的に取り締まらなかったために、庶民の人気が自然と景元に集まるようになっていったのです。
※下記の映像は7月14日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
同じ同性として
往来の真ん中で辱めを受けるというのは
この上ない侮辱ですね٩(๑òωó๑)۶
人間、厳しさよりも
緩さを求めてしまいがちですが
鳥居の人間性を思うと、彼は
本当に庶民の為を思った厳しさでは
無かったので支持されなかったのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 鳥居にとっては、改革の遂行こそが第一であって、庶民への思いは皆無だったと思われますね。
もっとも、これは昔に限った話ではないですが…。