せっかく将軍になったというのに、長いあいだ政治の実権を持てなかった家斉でしたが、将軍にとってもう一つの重要な責務である「子孫を残す」ための時間には余裕があったことから、家斉は死去するまでに50人以上の子をもうけました。
やがて、文化(ぶんか)14(1817)年に松平信明が死去した頃から、自分の思いどおりの政治を行えるようになった家斉は、水野忠成(みずのただあきら)を老中にして、質の落とした貨幣を大量に流通させて、大奥の経費などを増大させました。
貨幣の質を落としたことで物価は上昇しましたが、同時に経済の活発化をもたらし、全体の金回りが良くなったことで好景気となり、後に「化政(かせい)文化」と呼ばれた華やかな文化が生まれることになりました。
天保8(1837)年、家斉は将軍の地位を子の徳川家慶(とくがわいえよし)に譲りましたが、その後も大御所として政治の実権を握り続けました。家斉が活躍した時代は、別名を「大御所時代」、あるいは「大御所政治」とも呼ばれています。
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ぴーち こんばんは!
将軍 家斉はなかなかの人物だったのですね!
自分が表舞台で活躍出来ない時には
子孫反映に勤しみ
ようやく活躍出来る時が来た時には
存分に器量を発揮した訳ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 家斉は自己の贅沢のために小判改鋳を行ったという見方もあるようですが、政治は結果でもありますから、化政文化が花開いたことは評価すべきだと思います。
オバrev 家斉の精力って凄い(☆☆)!!
それにしても、貨幣価値を落としてインフレにするのは良くないと、学校で教わった記憶があるけど、経済に疎い学校の先生だから、本当の意味が分からなかったんでしょうかね?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 家斉の精力って凄い(☆☆)!!
確かにそうですよね。あやかりたいとまでは思いませんが…。ちなみに彼は「オットセイ将軍」とも呼ばれていたそうです。
> それにしても、貨幣価値を落としてインフレにするのは良くないと、学校で教わった記憶があるけど、経済に疎い学校の先生だから、本当の意味が分からなかったんでしょうかね?
そのとおりですね。元禄文化の引き金となった、綱吉時代の小判改鋳も、庶民の生活が苦しくなったと決めつけてますから(呆)。
また、江戸近辺の関東の農村は、もともと所領が複雑に入り組んでおり、無宿人(むしゅくにん)や博徒(ばくと)がはびこって治安が悪化しました。このため、家斉は文化2(1805)年に関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく、または「でやく」)を新設して、江戸周辺の警察機能を強化しました。
さらに文政(ぶんせい)10(1827)年には、幕府の直轄地や私領、あるいは寺社領を問わずに数十ヵ所の村々を組み合わせた寄場(よせば)組合を編成させて、農村の秩序を維持するとともに、地域の治安や風俗への対策を行いました。
なお、関東取締出役は関東の八つの国、すなわち八州(はっしゅう)をくまなく巡察したことから、別名を「八州廻(まわ)り」とも呼ばれており、その活躍ぶりが、現代においても時代小説の題材としてよく取り上げられています。
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改革の多くは農村の復興を主な目的として、新田を開発して年貢収入の増加を図ったり、地方の特産物の生産を奨励(しょうれい)して藩の専売制としたりしました。また、各地で藩校を創設して、新たな人材を積極的に育成しました。
改革に成功した各藩主は、名君として評判を集めることになりました。肥後の細川重賢(ほそかわしげたか)や、秋田の佐竹義和(さたけよしまさ)、あるいは米沢の上杉治憲(うえすぎはるのり、別名を鷹山=ようざん)らの名前を挙げることが出来ます。
特に上杉治憲は、破綻(はたん)寸前であった米沢藩の財政を立て直したことでその名が広く知られており、藩主の座を後継者に譲った際の伝国(でんこく)の辞や、その際に贈ったとされる「生(な)せば生(な)る 成(な)さねば生(な)らぬ 何事(なにごと)も 生(な)らぬは人の 生(な)さぬ生(なり)けり」という歌が有名です。
なお、治憲の歌は「何事もやればできるし、やらなければ何も始まらない。何もできないのは自分がやらないからである」という意味です。必死になってやれば、出来ないことは何もない、ということですね。
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飢饉によって、農村や都市部では貧窮者(ひんきゅうしゃ)があふれ返り、また追いつめられた農民や庶民らが、激しい一揆や商家に対する打ちこわしを続発させました。
このような全国的な大飢饉に対して、幕府や各藩は適切な救民対策を行うことはなく、逆に商家と結託してコメを買い占めることで、暴利をむさぼる行為が目立ちました。
「天下の台所」と呼ばれ、全国から様々な物資が集まるはずの大坂においても、容赦ない買い占め行為によってコメ不足となり、多くの人々が飢えに苦しみました。そんな様子を見かねた、大坂町奉行の与力(よりき)をかつて務めていた一人の男が、何度も窮状(きゅうじょう)を奉行所へ訴えましたが、幕府への点数稼ぎのために積極的に江戸へコメを回していた役人が、彼の献策に聞く耳を持つはずがありませんでした。
その元与力の男の名を、大塩平八郎(おおしおへいはちろう)といいました。
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ぴーち こんにちは!
大塩平八郎と言う名前は歴史で
勉強させて頂きましたが、
元与力であったという経緯までは
全く存じませんでした。
しかも窮地だというのに、幕府への
点数稼ぎの為にコメを回していた
役人が居たという事自体
呆れてモノが言えませんね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 この当時の幕府の政治体制を思えば、崩壊が近かったのはまぎれもない事実ですね。
大塩平八路の怒りも当然です。
大塩の決断には、陽明学における知行合一(ちこうごういつ)の精神、すなわち「知っていて行わないのは知らないことと同じだ」として、実践を重視する姿勢もあったからと考えられています。
大塩は反乱に向けて綿密に計画を練りましたが、決起直前になって内通者が出てしまい、計画は奉行所にばれてしまいました。大塩は準備不足のまま反乱を強行しましたが、奉行所によって半日で鎮圧され、大塩も一度は逃走したものの、約40日後に自害しました。
天保8(1837)年に起きたこの事件は、大塩の乱(あるいは「大塩平八郎の乱」)と呼ばれていますが、幕府の元役人が幕政を批判して反乱を起こしたという事実が、幕府のみならず、各方面に大きな衝撃を与えることになりました。
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オバrev 大塩平八郎の乱は、私が学生の頃はほとんど無名だったと思うんですけど、どうなんでしょうか?
まあ遅かれ早かれ鎮圧されたでしょうけど、世に与えた影響は大きかったんですね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 私は大阪在住なので、大塩平八郎のことは早くからしていましたが、全国ではどうなのでしょうか。
確かに鎮圧される運命であったとは思いますが、仰るとおり、乱の影響は大きかったようです。
また、大塩の考えに共鳴した農民による一揆も多発するなど、不穏(ふおん)な情勢がこの後も続くことになり、こうした事態を重く見た、幕府による綱紀粛正(こうきしゅくせい、国家の秩序やまた政治のあり方、または政治家や役人の態度を正すこと)のための改革をもたらしました。
しかし、困窮(こんきゅう)する庶民のためではなく、幕府の体面を保つことを何よりの目的とした改革が成功するはずもなく、遠からず破綻(はたん)する運命にあることは、むしろ当然ともいえました。
ちなみに、大塩が乱を起こした当時の大坂町奉行は跡部良弼(あとべよしすけ)でしたが、実は彼は幕府の老中の実弟でした。その老中こそが、天保の改革を行った水野忠邦なのです。
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