では、そんな定信がなぜ田沼意次を押しのけて老中にまで出世できたのでしょうか。定信は白河藩の藩主でもありますが、多くの人々が被害を受けた天明の大飢饉の際に、白河藩では「一人の餓死者も出さなかった」ということで、その政治ぶりが評価されたのも原因の一つです。
確かに餓死者が出なかったことは素晴らしいことかもしれません。しかし、大飢饉が続いていたうえに、当時は鎖国と呼ばれた状態で大きな輸出入もできなかったのですから、国全体のコメの生産量が少ないことに何ら変わりはないのです。
そんな中で、一つの藩だけがコメを集めまくったら、他の藩のコメの流通量がますます少なくなりはしないでしょうか。また、定信によるコメの一方的な買い占めを、果たして幕府が黙って許可したでしょうか。
実は、定信の行為は「重大な法令違反」だったのです。
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ぴーち こんばんは!
なるほど、定信は自分が関わっている藩だけが
良くなれば、自分の評価も高まると踏んでいたのですね。
然しながら、一時的には良い評判は付くかも
知れませんが、狭い日本ですので
直ぐに後からバレてしまいそうな愚かさが
伺えますが(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 当時はマスコミのような報道機関もありませんでしたから、すべては闇の中でした。
とはいえ、定信の行為はあまりにもひどすぎますね。
飢饉で生産量が減ったコメを可能な限り全国に分散して、凶作の地域での餓死者を一人でも減らそうとした意次の苦心の策だったのですが、そんな意次をあざ笑うかのように、定信は大坂の米市場に人を派遣してコメを買い占め、自分の領地まで運びました。
この結果、白河藩では確かに一人の餓死者も出しませんでしたが、無理に買い占めに走った分、米価が異常につり上がってしまい、他の藩がコメを買えなかったこともあって、餓死者の数がさらに増えてしまいました。白河藩における「餓死者を一人も出さなかった」という成果は、他の藩やそこで暮らす多くの領民の犠牲の上に成り立っていたのです。
国内全体のことを一切考えず、自分が治める白河藩さえ良ければ「後はどうなってもかまわない」。このような人物のどこが「名君」だというのでしょうか。しかも、定信は意次を失脚させた後で、常識では考えられない酷(むご)い仕打ちを行っているのです。
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ぴーち こんばんは!
そうですね。
情報が他に漏れない事をいい事に
自分の名声だけを
吹聴した手口は、許しておけない行為ですよね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 全くもってそのとおりです。
しかも、そのあともやり過ぎな行為が…。
しかも定信は、主(あるじ)がいなくなった相良城を、石垣ひとつに至るまで徹底的に破壊したのです。城というものは一度建てれば公有財産になりますから、普通はそんな無駄なことはしませんし、そもそも取り壊す費用も馬鹿になりません。
それなのに、なぜ定信はこんな暴挙を行ったのでしょうか。思い当たる理由としては、相良城が意次自身によって建てられた新しい城だったからであり、田沼家を追い出しただけでは飽(あ)き足らず、まさに「坊主憎けりゃ袈裟(けさ)まで憎い」とばかりに、意次の痕跡(こんせき)をこの世から抹消したかったからに違いありません。
定信は熱心な朱子学者でしたが、朱子学の由来は儒教にあります。すべてがそうであるとは限りませんが、儒教の信徒はネチネチとした陰湿で粘着質な性格を持っていることが多く、定信による信じられないような意趣返しも、その一環だといえるのです。
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その背景には「商人など不要だ。国には政治家と農民だけがいればいい」という極端な理想主義者としての本質がうかがえるのですが、実は20世紀の海外においても、定信とほぼ同じ考えを持つ政治家が存在しました。皆さんは誰かご存知ですか。
それはカンボジアのポル・ポトです。ポル・ポトは定信と同じく「国には政治家と農民だけがいればいい」という思想を持っており、そのために商人や教師、あるいは医者などのいわゆるインテリ層を次々と虐殺(ぎゃくさつ)しました。
この結果、人口800万人の国で約200万人がこの世から消えたとされています。ポル・ポトのように国民を虐殺したわけではありませんが、思想的には一致することから、定信は「元祖ポル・ポト」と呼ばれることもあります。
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意次は老中を追われてからわずか数年で亡くなり、自己の非難に対する弁解の機会が永久に失われてしまいました。一方、定信は老中を辞めさせられた後も、白河藩主として30年以上も生き続けて、その間に多くの著作を残すことで、田沼時代を徹底的に非難することができました。
さらに、幕府は身分による秩序を重視していたので、低い出自から成り上がった意次よりも、将軍吉宗の孫という血筋を持つ定信の主張を優先する傾向があり、加えて定信が幕府の公式学問である朱子学の優秀な学者であったことも、定信によって意図的につくられた意次の「悪人像」が、後世にまで残ってしまう原因となってしまったのです。
ところで、一時は意次による政治を激しく憎んだ庶民も、定信による寛政の改革が失敗したことで、後には田沼時代を懐かしみ、以下の狂歌(きょうか、日常を題材に洒落や風刺を盛り込んだ短歌のこと)を残しています。
「白河の 清きに魚(うお)の すみかねて もとの濁(にご)りの 田沼こひしき」
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