定信は自分が他家の養子となって将軍後継の地位を失ったのは、当時の権力者であった意次のせいであると邪推(じゃすい、悪いほうに推測すること)し、個人的に深く恨んでいました。
そのこともあったからなのか、定信は自らが政治の実権を握ると、意次が幕府や我が国のために続けてきた様々な政策を、ことごとく打ち切りにしてしまったのです。
老中に就任した定信は、祖父にあたる徳川吉宗を理想とする様々な政策を行いました。彼の政治は「寛政の改革」と呼ばれていますが、その中心は徹底した緊縮財政をはじめとする、前政権の田沼時代の全否定でした。
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ぴーち こんばんは!
松平定信も、悪いことは人のせいに
するただの愚人でしたか。
同じ事を二人の人間が同時にしたとして
片方は何故か持て囃され、
片方は何故か罵られたりする。
そう言う運気の極めて悪い人物が居ますが、
これも勿論そう言う結果を招くそれぞれの
善業と悪業が存在する訳ですが、
なかなか人間は、そう言う風に考えられる人ばかり
は居ないので、争いごとが絶えないのは
世の常ですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 残念ながら、仰るとおりですね。
このような政治家に世をまかせたらどうなるのか、これから詳しく紹介します。
また寛政3(1791)年には、工藤平助と親交があった林子平(はやししへい)が、我が国における海岸防備の必要性を説いた「海国兵談(かいこくへいだん)」を著しましたが、定信は「世間を騒がす世迷言(よまいごと、わけの分からない言葉のこと)を言うな」とばかりに直ちに発禁処分にし、ご丁寧(ていねい)に版木(はんぎ)まで燃やしてしまいました。
海国兵談の出版がもし田沼時代であれば、意次はまず間違いなく子平の考えを支持したでしょう。だとすれば、我が国は現実より半世紀以上も前に開国し、幕末に黒船に迫られて、相手の言われるままに欠陥だらけの不平等条約を結ばずに済んだかもしれません。それを思えば、海国兵談の発禁処分は、定信による「痛恨の失政」でした。
また、定信は海国兵談の他にも、政治を風刺(ふうし)したり、批判したりする書物の発行を禁じるとともに、黄表紙(きびょうし)や洒落本(しゃれぼん)なども風俗を乱すという理由で発禁処分にしました。これらの命令は出版統制令と呼ばれています。
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ぴーち こんばんは!
そうですよね。
恨みや妬みの気持ちだけに集中していると
他の大事な事を全て見失ってしまうことは
よくある話ですよね。
憎悪の炎を燃やしているうちに、自分の身も
燃やしてしまう羽目になるという事でしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
しかも、そのことが当人のみならず、我が国全体に大きな影響を及ぼしますので…。
オバrev トップの決断は、国の将来を左右するんですねぇ。
それだけ、トップに立つ人は、人の意見を聞く耳を持つ必要がある気がします。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
他人の意見を聞かない独裁者に国政をまかせると、ろくなことがないのは歴史が証明していますね。
これらは、享保の改革の際と同じように、この時代に「寛政文化」と呼ばれるものが存在しない大きな原因となりましたが、その一方で、節約で浮いた町費(ちょうひ)の七割を積み立てさせ、江戸町会所(えどまちかいしょ)に運用させることで、飢饉の際などの非常時の貧民の救済に利用しました。これを七分積金(しちぶつみきん)といいます。
また、寛政の改革が始まった頃には天明の大飢饉がまだ続いており、庶民の暮らしは不安定になっていました。そこで、定信は飢饉に備えて各地に社倉(しゃそう)や義倉(ぎそう)をつくらせて、穀物を蓄(たくわ)えさせました。これを囲米(かこいまい)といいます。
この他、定信は現代の刑務所の原点ともいえる、無宿人(むしゅくにん)への職業訓練施設としての石川島人足寄場(いしかわじまにんそくよせば)を設置しましたが、これは定信自身の案ではなく、池波正太郎(いけなみしょうたろう)の小説「鬼平犯科帳(おにへいはんかちょう)」で有名な、火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)の長谷川平蔵(はせがわへいぞう)が考えたものです。
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ぴーち こんばんは!
おお!
鬼平犯科帳ですかw
我が家の母はほぼ毎日再放送を観ています(^_^;)
長谷川平蔵は、実在する人物だったんですか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、実在の人物です。
定信の部下ではありましたが、折り合いは悪かったようですね。
しかし、棄捐令はいわゆる徳政令と同じ意味を持ちますから、旗本や御家人の収入を増やすといった抜本的な改革がない限り、結局は一時しのぎに過ぎないばかりでなく、再び借金をする際には、棄捐令で痛い目にあった札差から断られる可能性もあり、逆効果に終わってしまうという一面もありました。
定信は田沼時代に進められた重商主義を徹底的に否定し、吉宗の時代よりも厳しい重農主義の政治を行いました。その中の一つに旧里帰農令(きゅうりきのうれい)があります。これは、地方から江戸に流れてきた農民を無理やり元の農村に帰すという法令ですが、そのままの政策で農村へ帰されたところで、待っているのは今までと同様の苦しい生活の日々でしかありません。
重農主義に戻すということは、吉宗の時代と同じく現実には不可能な「米本位制」を続けるということですから、いくら農村に帰したところで、いずれは再び江戸へ出て来ざるを得なくなるというわけです。かくして旧里帰農令は失敗に終わり、後の天保の改革の際に、同じような法令である「人返しの法」を出す結果になってしまいました。
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ぴーち こんばんは!
根本的な解決に至らないばかりか、かえって
それでは反感をかわれてしまいますよね。
急場しのぎで思いついた政策なのかも知れませんが、ある時代ではそれが成功しても、違う時代では
全く有効性を見いだせなくなるものですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、根本的な改革をなしえない以上、全く無意味ですよね。
寛政異学の禁によって、諸藩も幕府にならって朱子学のみを教えるようになったので、それ以外の学問、特に西洋の蘭学が衰退する原因となってしまいました。漢訳洋書の輸入を許可した吉宗の孫とは思えない愚策ぶりです。
ちなみに、湯島聖堂は定信が老中を退任した後の寛政9(1797)年に幕府の直営となり、昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんしょ)と称されました。昌平坂学問所はもともと幕臣の子弟の教育所として発足しましたが、後に藩士や牢人(ろうにん)の受け入れも許したことで、全国からの英才を集めて活気にあふれました。
なお、昌平坂学問所は現在の東京大学の流れにつながるほか、明治以降に同じ場所に設立された東京師範学校や東京女子師範学校は、現在の筑波大学やお茶の水女子大学の源流となっています。
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ぴーち こんばんは!
祖父である吉宗の考え方とは
全く逆行した考え方を定信はしていたのですね。
何かこの血筋の間にあったのでしょうかね?(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 恐らくは、血筋よりも朱子学への没頭が大きかったのではないかと思われます。
学問も時としてはマイナスに作用しますね。
寛政の改革当時に在位されておられた光格(こうかく)天皇は、閑院宮家(かんいんのみやけ)からご即位されましたが、天皇の父君であられる閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひとしんのう)のお立場が、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)の規定によって、摂関家(せっかんけ)より下となっていました。
このため、天皇の御尊父(ごそんぷ)が摂関家を目上にしなければならないという奇妙なことになっており、事態を重く見られた光格天皇は、父君に太上天皇(たいじょうてんのう、いわゆる上皇のこと)の尊号を贈られようと考えられました。
「皇位についていない皇族に尊号を贈る」というのは、鎌倉時代の後高倉院(ごたかくらいん)と室町時代の後崇光院(ごすこういん)という先例が過去に2回もあり、特に問題はないだろうと思って朝廷側は幕府にお願いしたのですが、定信によって問答無用で拒否されてしまいました。
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ぴーち こんばんは!
今日のお話はどうも私にとっては雲の上の話で
イマイチ、ピンと来ない事をお許しください(^_^;)
どうして、過去2回の例があったにも関わらず
拒否してしまったのでしょうかね?
完全に定信の独善的な考え方による結果だったのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 完全に定信の独善的な考え方による結果だったのでしょうか?
朱子学においては主君への「忠」が重視されていました。一方、天皇のご尊父への太上天皇の尊号を贈ることは「孝」になります。定信は、幕府の封建体制の確立のために、「孝」よりも「忠」を重視したという見方もありますね。いずれにせよ、この際の強引な手法が、後々にまで尾を引くことになります。
オバrev う~ん、融通が利かないというか、普段の仕事でも思いますが、完璧主義と言うのは、どこかで無理が来る気がします。
かと言って、私のように大雑把過ぎてもいけませんけど^^;
オバrevさんへ
黒田裕樹 大雑把な方が国民を幸福にすることもありますからね。
この場合はあまりにも融通が利かなさ過ぎでした。
11代将軍である徳川家斉は、吉宗が御三家と同じように「血のセーフティーネット」として、自身の血統から新たに設立した御三卿の一橋家(ひとつばしけ)の出身でした。
家斉は親孝行の思いから、父である一橋治済(ひとつばしはるさだ)に対して、前の将軍を意味する「大御所(おおごしょ)」の尊号を贈ろうと考えました。しかし、定信は朝廷に対して太上天皇の尊号を拒否した以上、治済に対しても同じように大御所の尊号を拒否せざるを得ませんでした。
このことで家斉は機嫌を損ねて定信と対立し、やがて寛政5(1793)年に定信は老中を辞めさせられてしまい、寛政の改革は約6年で幕を閉じました。なお、定信の失脚後も、老中の松平信明(まつだいらのぶあきら)らが「寛政の遺老(いろう)」として政治を行っています。
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ぴーち こんばんは!
確かに自分の理想だけを押し付けてみても
結局は何処かでその理想も引きずり落とされてしまう
時が来るものですね。
相手や周りの意見にも耳を傾ける姿勢が
定信には足りなかったのですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、全く不足していましたね。
まさに反面教師です。